RAMPO Entry 2009
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2009年11月11日(水)

書籍
紙上で夢みる 現代大衆小説論 上野昂志
9月11日初版第一刷 清流出版
B6判 カバー 301ページ 本体2400円
著:上野昂志
増補改訂版
旧版:1980年5月1日 蝸牛社
ディスカバー「怪奇幻想」 横溝正史論
評論 p154−173
初出:道 *掲載号不明
錯乱する距離 江戸川乱歩論
評論 p181−200
初出:道 1977年11月号
初出タイトル:江戸川乱歩論──距離の錯乱

錯乱する距離 江戸川乱歩論

上野昂志  

 触覚的世界の勝利。『盲獣』という作品が示しているのは、そのことである。これを、『屋根裏の散歩者』から出発した江戸川乱歩という作家においてみるならば、世界から隔てられ、見ることのみを強いられたものが、その距離と戯れ、距離を犯し、やがてはそれを徹底して蹂躙してしまう道筋として了解することができるだろう。戦後の少年ものの作家としても、この主題はいささか微弱になりながらも、なお怪人二十面相と明智小五郎との、涯もない追いかけっことして、すなわち距離との戯れとしてあることは、改めていうまでもない。江戸川乱歩は、その生涯を通して、距離に憑かれた作家にほかならないのである。だが、そのことが、『盲獣』や『芋虫』のように、触覚的世界の勝利へと行きついているとしたら、やはりそれはただごとではない。何故なら、触覚的世界とは、常に視覚の圧倒的な優位によって、この世界の中心から排除され、片隅の暗がりへと追いやられてきた領域だからである。
 科学技術の発達も、産業の発達も、思考の近代化も、ほとんど一貫して、視覚の世界を拡大するように動いてきたというのが、われわれの歴史である。遠くにあるものや微妙なものを見えるようにすること、そこに科学技術の発達はかけられてきたのであり、都市を見通しのいい景観にし、商品を一望のもとに見わたせるようにすることに産業の発達はかけられてきた。思考の近代化とて同様である。見ることが理解することを意味しているのは、たんに英語においてのみではない。視覚的なモデルが、どれほど深くわれわれの思考をとらえているか考えてみればいい。視覚こそこの世界の支配的な契機なのだ。触覚は一貫して抑圧されてきたのである。あたかも肉体そのもののように。
 江戸川乱歩の作品が、大正期のデカダンスが昭和初年代のエロ・グロ・ナンセンスへと結実した、その時代の空気を養分として育ったことは間違いない。『盲獣』も、エロ・グロというならまさしくそのようなものであるだろう。だが、それが、触覚的世界の勝利をうたったそのことにおいて、時代の底へ抜けたのである。いや、エロ・グロ・ナンセンスといわれるものこそ、明るく開明であることを目指して走ってきた近代という時代の裂け目にほかならず、時代が一貫して抑圧してきたものの浮上する領域にほかならなかったというべきだろう。乱歩は、それを、きわめて過激に体現したのである。手足がなく、人間らしいところといえば片目だけの肉塊のような日露戦争の傷病兵を登場させて、彼を接触することの快楽のとりこにしたところを描いた『芋虫』は、戦時下に発禁処分を受けた。帝国軍人に対する侮蔑というのが理由だが、乱歩にそのような意図があったわけではない。彼はまさしく好みとして接触の快楽を書いたのであり、そのことの過激さが、禁忌に触れたのである。歪んだ夢、だが、歪まない夢などというものがこの世に存在するのだろうか──。

 
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