江戸川乱歩の多面的世界/「大乱歩展」(県立神奈川近代文学館)開催を機に
紀田順一郎、藤井淑禎
十月三日より、県立神奈川近代文学館にて「大乱歩展」(十一月十五日まで)が開催される。生原稿、書簡、旧蔵書の一部などを含む約六〇〇点が展示され、今回ほど大規模な展覧会は初めてとなる。そこで編集委員を務める紀田順一郎(神奈川近代文学館館長)と藤井淑禎(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター長)の二氏に対談をお願いした。また二面には佐野史郎、谷崎由依の二氏にエッセイ「乱歩と私」を寄せてもらった。時代を経ても今なお読みつがれる江戸川乱歩の魅力とは。(編集部)
乱歩の人間的特徴
周りに応じて変わっていく柔軟さ
紀田 十月三日から神奈川近代文学館で立教大学のお力を借りて「大乱歩展」を開催します。これは乱歩が好きな人にはもちろん、あの時代の文化を研究している人には見逃せない展覧会でしょう。立教大学には乱歩邸が寄贈されていますね。
藤井 二〇〇二年に乱歩旧蔵書と乱歩邸を譲っていただきまして、その後諸資料の寄託をうけました。江戸川乱歩記念大衆文化研究センターが二〇〇六年に発足し、蔵書や諸資料を登録していく作業を行い、その間、二〇〇四年に「江戸川乱歩と大衆の20世紀展」を行いました。その時はまだ未整理の部分が多々あったんですが、今回の「大乱歩展」は整理完了後の初めての展覧会です。
紀田 これまで勉強家や愛好家にとって全貌を実物で見る機会があまり無く、今回は未発表の日記、ノートなどが公開されます。生原稿は『二銭銅貨』『D坂の殺人事件』等があります。完成された作品ではなく、何回も書き直していることがわかりますね。
藤井 『D坂の殺人事件』は草稿が残っているので、読むと草稿がそのまま決定稿になっている部分もありますし、また大胆に変えている部分もあります。登場人物の位置づけにしても草稿からいろんなことがわかります。
紀田 徹底的に何回も書き直しているのは、私の見方ではより文学的に仕上げているような気がするんです。例えば一九二〇(大正九)年の『二銭銅貨』の草稿の書き出しは「この指環ですか、いつもこの指環については皆様に申上げることですが」です。これは主人公の妻が語る書き出しなんですが、発表された原稿では「あの泥坊が羨ましい」となる。失業して退屈を持て余している主人公とその友人との一種の私小説ですね。これは当時の乱歩の心境を色濃く投影している。新文学の流れの中で、今ほど大衆文学と純文学に垣根がない時代に──乱歩は非常に独創的な小説ジャンルの創始者の一人として──手本にしたものが純文学作家の文章なんですね。当時の日本文学の一つの書き方は私小説ですから、純文学の一環として書いている気がします。
藤井 この時期は乱歩に限らず純文学作家でも、通俗小説と純文学小説を融通無碍に行き来していますよね。『二銭銅貨』の初稿も女性の一人称語りで、純文学小説でもこの頃しばしば持てはやされた書き方です。決定稿になりますとかなり本格ミステリーの色合いが出てくる。決定稿と初稿との間が二、三年ありますので、その間に乱歩の中で何が起こったのか。純文学と通俗文学の関係がどうなったのかといろいろ問題が拡がっていきますね。『D坂の殺人事件』は『二銭銅貨』を発表した後なので、本格トリックに集中してかなり力を注いでいる。
紀田 江戸川乱歩の初期作品を年代順に読むと、本格ミステリーの時代は短くて、通俗ミステリーになる前に怪奇幻想的ミステリー──昔の言葉でいうと変格──の時代がある。そっちに軸足があり推理よりも、乱歩の色んな意味での気質が表面に出てきますね。変格の一つの頂点が『屋根裏の散歩者』だと思います。乱歩の少年時代からの色々な趣味を考え合わせてみると、幻想好み、ロマンチックな空想をするような性格ですから、探偵小説中の論理性、本格性が急速に後景に退いていますね。書いているうちに、探偵に追い詰められていく犯人の緊張感、恐怖感に作者が同化して、大変なスリルを感じながら書いていたんじゃないでしょうか。誰が犯人であるか、どういう証拠があるかという要素をパズル的に散りばめるよりもそちらの方が楽しくなっていった気がしますね。
藤井 犯人が魅力を持ってきて、そこに作者が肩入れしていくことはある種必然の流れなんでしょうか。とても魅力的な犯人が多いですね。
紀田 書いているうちに自然にそうなってしまうし、当時の日本社会が本格的な論理性豊かなものを認めるよりも異常な世界を上手に書いてくれる作家の方が親しみやすかったんでしょう。そうすると異常性、倒錯的なことも書くようになってくる。
藤井 エログロですね。乱歩とは関係ないところでエログロという時代が始まり、乱歩の〈地〉の部分と共鳴する。だから本人の中でも変化、変貌があり、さらに時代と共鳴し、反応して変わっていく面もあります。乱歩がエログロの不思議な時代に遭遇してしまったと思いますね。
紀田 需要があったからどんどん書いていくうちに、エログロナンセンスの中心的な作家と言われるようになっちゃった(笑)。
藤井 乱歩は決して頑なな人じゃなくて、周りの要求や動向なりを見て、それに応じて変っていく柔軟さを持っていたと思いますね。その辺に乱歩の人間的特徴があるんじゃないでしょうか。
紀田 探偵論的なものも書きたいんだという気持ちが全体の作品の流れの中では、途中から時々出てくる。例えば昭和十年前後の『石榴』はどこかに探偵小説の論理性を取り込もうとして、全部変格にいきそうなところに歯止めをかけている部分がある。やっぱり乱歩は探偵作家なんだなと思いましたね。特異な個性があって、今はそういう作家がいない。松本清張のような社会性というものが取り入れられるようになってからね。乱歩は非常に非・社会的ではあるんだけど、しかしそのこと自体が社会的なんですね。ちょっと面白い逆説的な存在なんです。
藤井 昭和三十年代の乱歩対社会派というテーマはとても面白いと思いますね。乱歩は清張を苦々しく思っていた、本心は面白くなかったのではないかと私は思っています。乱歩がもう少し若くて清張とぶつかり合う年代だったら評論も実作も面白かったでしょうね。
紀田 「探偵小説が文学足りえるか」という論争も昭和十年代の中頃に行われて、それが『幻影城』にも一章分を費やして口角泡を飛ばすようにして論じられている。
藤井 戦後も継承されて結局決着がつかないですね。(2面へつづく)
★きだ・じゅんいちろう氏は評論家・作家・神奈川近代文学館館長。慶応義塾大学卒。著書に「横浜開港時代の人々」「横浜少年物語」「昭和シネマ館」ほか多数。一九三五(昭和10)年生。
★ふじい・ひでただ氏は立教大学教授・立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター長。慶応義塾大学卒。著書に「清張闘う作家」「景観のふるさと史」「御三家歌謡映画の黄金時代」ほか多数。一九五〇(昭和25)年生。
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