RAMPO Entry 2009
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2009年11月14日(土)

雑誌
中央公論Adagio 17号
10月25日 読売メディアセンター
A4判 22ページ
横溝正史と牛込神楽坂を歩く 呪いと因習をほどく“鎮魂”の謎解き
特集 p3−7
関連箇所
神楽坂に“同居”した正史と乱歩と英太郎(p3−4)

 
横溝正史と牛込神楽坂を歩く 呪いと因習をほどく“鎮魂”の謎解き

 神楽坂に“同居”した正史と乱歩と英太郎

 夕闇が迫り、神楽坂の裏道を走る芸者新道の石畳に行灯の光が灯る。座敷がかかった芸妓たちが、通りにちらほらと姿を見せ始めるころだ。行灯のそばを過ぎるとき白い首筋が艶っぽく浮き上がり、その姿で周囲の雰囲気もたちまちにして一変する。小走りに歩く芸妓が仲通りからくねくねと曲がる「かくれんぼ横丁」に踏み入ると、ちょっと離れていただけですぐに見失ってしまう。夜の神楽坂には、ミステリの題材にでもなりそうな不思議な路地や横丁が無数に交差している。
  日本を代表する探偵作家横溝正史が名探偵金田一耕助を神楽坂の迷路に挑ませたとしたら、物語のなかにそのような場面が登場したかもしれない。あるいは、盟友江戸川乱歩や挿絵画家竹中英太郎とともに、毘沙門天あたりで待ち合わせて、夜の神楽坂をそぞろ歩いただろうか。実際、正史と乱歩や英太郎が神楽坂のどこかで待ち合わせることはごく自然にあり得たことでもある。なぜなら、三人は同じ時期にこの地で“同居”していたのだから。
  一九二六(大正一五)年、正史が博文館の雑誌『新青年』の編集者となって牛込神楽館に移り住んだころ、書き手の乱歩は直線距離でそこからわずか五〇〇メートルほどの筑土八幡神社の裏に居を構えていた。また、両者の中間地点には英太郎も住んでいた。そして神楽坂通りを基軸としてあちこちに伸び広がる路地や横丁、妖しい行灯の光、闇夜を徘徊する得体の知れない通行人・・・・・・。若き編集者だった正史にとって、この神楽坂という街はさぞかし魅惑的な世界だったに違いない。

 
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