1998年 ●補遺
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11月 ●藤原智美 「運転士」、「王を撃て」の二篇が収載された中篇集。いずれ甲乙つけがたい優れた〈キャラクター〉小説である。 ――いるんだよな、こんな連中が。 こんな青年が、(ここに描かれたような典型的な例は少ないにしても)現実に存在していることを、私たちは経験的に知っていたはずである。 批評的、解説的な描写は一切ない。著者はただひたすら、ひとつの人間タイプを描き切ることにかかりきっている。 表題作は芥川賞受賞作なのだが、〈地底世界〉(地下鉄世界というよりもまさしく迷宮のごとき地底世界である。この幻想的な描写力は素晴らしいの一語)の一種異様なリアリティと相俟っての評価であろう。 ●エリック・フランク・ラッセル 講談社版〈世界の科学名作〉第五巻『見えない生物バイトン』を読んだのは、いつだったか。 ひょんなことで今回、完訳版(ハヤカワSFシリーズ版)を読むことができた。講談社版(アブリッジ版)も本書(完訳版)も、どちらも翻訳は矢野徹。 もとより本書は1939年の作品。それこそ(スペオペは別にして)SF小説自体が、さほどなかった時代であり、前例のない中で手探り状態で書かれたものであることは、割り引かないと公平ではあるまい。(通史的評価) 小説としては古びてしまったといっても、本書のアイデア(すなわち「人類家畜テーマ」)自体が古びてしまったわけではない。 かかる「人類家畜テーマ」が、SFが開発してきた装置のなかでも、特段に有効な装置であることを、私は今回強く感じた。 本書を、私は「ソラリス」を準備した先駆的作品として捉えるべきではないかと思う。 だとすれば、「ソラリス」を超えたものは、もはやSFとは呼べまい。もっともそんな作品は、まだ現れていないしこれからも生まれないだろうが。 |
●堺屋太一 明智光秀という人物像が、これまでどうも私の中で位置づけできないでいた。 本書では光秀を、「真面目で演技下手」(つまり腹芸が苦手)で、「真を語るといえども世に訴える術を知らぬ」(即ち根回しが苦手な)性格として描いている。 どうやら小生、まんまと著者の術中にハマッてしまったようだ。 本書では、光秀の悲劇は「上司とコミュニケーションを密に取れない」光秀の性格に起因するものとして語られる。基本的に「組織に馴染まない」性格だったと設定している。 今一つのサラリーマン典型である勝家とは、また全然違うタイプなのだが(註、「ヘテロ読誌98」41頁〈柴田勝家〉の項、参看)、実のところ、おのれの内部にかかる2タイプを同居させているのが、小説の世界ならぬ現実世界の中間管理職たちの姿ではないだろうか。 ●キース・ローマー いかにもローマーらしさが横溢する、かるーいSFコメディ。 ●眉村卓 実に20年ぶりに再読。白状すれば、初読時はあまりピンとこなかった作品だ。 司政官の仕事は何か。原住種族と植民者の調整役であり、かつ惑星と連邦の間にあっては、惑星の側に立って調整するものであろうか? けれどもそれでは著者の意図を汲まない〈誤読〉になってしまうのである。 つまり作者は、本書においてはもともとそのような、いわゆるセンス・オブ・ワンダーの発現を目指して創作しているのではないのである。 作者にとっての理想像を開陳するという意味で、むしろ〈空想小説〉の系譜に位置づけられるべきものなのかも知れない。 「限界のヤヌス」では、主人公の理想からは忌むべき存在として待命司政官、即ち巡察官候補生が描かれる。 巡察官はためらいなく連邦軍の出動を要請する。この辺りはこの作品の読みどころで、個人的には多元描写で、この巡察官の、巡察官としての職業意識と心情の軋轢も複眼的に描いて欲しかったような気がする。 視点の固定(実は眉村SFに特徴的な要素ではあるのだ)が、本書の諸作を、〈第一次戦後派〉に源流を発する「全体小説」としての可能性を秘めながらも、いまだ(良くも悪くも)空想小説にとどめているように思われて、個人的には惜しい気がするのである。 ●ヴィトルド・ゴンブローヴィチ ブルーノ・シュルツと並び賞されるポーランドの前衛作家(とはいっても、シュルツと違ってポーランドに拘る必要は全然ない)の短篇集。いやもう、面白いの面白くないのって……。破壊と嘲笑と冒涜のオンパレード。 ゴンブローヴィチという人、言うなればポーランド人の筒井康隆なのだ。 どうやら著者校正はほとんどしていないように見受けられる。 「クライコフスキ弁護士の舞踏手」 「ステファン・チャルニェツキの手記」 「計画犯罪」 「コットウーバイ伯爵夫人の招宴」 「純潔」 「冒険」 「帆船バンベリ号上の出来事」 「裏口階段で」 「ねずみ」 「大宴会」 ●K・H・シェール 前回読んだのは中三の時。今回、意外に時間を食った。それも前半部にとられた。 しかしこれは今日的観点から言ってSFだろうか? ●マイケル・ムアコック ふたたび氷河期を迎えた地球、氷原を疾走する帆船という基本設定がよろしい。 登場人物が主人公を含めて欠点だらけなのが、いかにもムアコックらしい。 ●ジェイムズ・P・ホーガン 時間を食って空間を排泄する虫を退治する話。したがってこの邦題は不適当である(原題はOUT OF TIME)。 確かに、SF読みとしての資格を問う、踏み絵のような話ではある。 欲を言えばもっとストーリーをふくらまして欲しいところだが、私自身はこれでオッケー。少なくとも『時間衝突』よりはずっと面白かった。(註、「ヘテロ読誌98」60頁〈時間衝突〉の項、参照) |
●掲載 1999年10月21日