ヘテロ読誌
大熊宏俊

1998年 補遺

11月

藤原智美
『運転士』(講談社)

 「運転士」、「王を撃て」の二篇が収載された中篇集。いずれ甲乙つけがたい優れた〈キャラクター〉小説である。
 キャラクターといっても、小生の勝手な用語であって、ヤングアダルト系の小説などで〈キャラ〉と省略されるそれとは意味するものが違う。
 言うなれば「その存在(キャラクター)自体が即ち時代を象徴する」ような、或る原型的な人間型(キャラクター)を描いた小説といったところであるか。

 ――いるんだよな、こんな連中が。
 読中、何度そう呟いたことか。
 この二篇に登場する二人の青年は、つまるところ同一の(原型的)キャラクターである。

 こんな青年が、(ここに描かれたような典型的な例は少ないにしても)現実に存在していることを、私たちは経験的に知っていたはずである。
 しかしながら、彼らがこの社会(時代)の産み出した、いわば時代の申し子であることまでは、大多数の読者にとって(私もその一人だが)、しかとは認識されていなかったのではないだろうか。
 いるんだよな、と膝を叩いた瞬間、読者は――私は、彼らを(時代の文脈において)確実に意識化し得たのだ。

 批評的、解説的な描写は一切ない。著者はただひたすら、ひとつの人間タイプを描き切ることにかかりきっている。
 一人の(ある原型的な)青年像を際立たせることで、著者はこの〈時代〉そのものを表現しきったと思う。
 かかる象徴的な人間型を発見し、表現したことが、著者の(本書の)文学的手柄なのだ。その眼力に私は感心した。

 表題作は芥川賞受賞作なのだが、〈地底世界〉(地下鉄世界というよりもまさしく迷宮のごとき地底世界である。この幻想的な描写力は素晴らしいの一語)の一種異様なリアリティと相俟っての評価であろう。


エリック・フランク・ラッセル
『超生命ヴァイトン』
矢野徹訳(ハヤカワSFシリーズ)

 講談社版〈世界の科学名作〉第五巻『見えない生物バイトン』を読んだのは、いつだったか。
 小学校六年生か、それともすでに中学に入っていただろうか。いずれにしても三十年以上も前のことで、ストーリーは忘れはててしまったけれど、非常にゾクゾクした気分だけは、いまだに鮮明に記憶している。

 ひょんなことで今回、完訳版(ハヤカワSFシリーズ版)を読むことができた。講談社版(アブリッジ版)も本書(完訳版)も、どちらも翻訳は矢野徹。
 三十数年ぷりの再読だったが、残念ながらあまり感心しなかった。
 ストーリーがTVの通俗連続ドラマ風で、そこがいただけない。やはり古臭さは否めない。

 もとより本書は1939年の作品。それこそ(スペオペは別にして)SF小説自体が、さほどなかった時代であり、前例のない中で手探り状態で書かれたものであることは、割り引かないと公平ではあるまい。(通史的評価)
 むしろこのような試行錯誤の果てに、現代SFのイディオムが形成されたのだと認識すべきなのだろう。

 小説としては古びてしまったといっても、本書のアイデア(すなわち「人類家畜テーマ」)自体が古びてしまったわけではない。
 〈制御される人類〉という、とてつもないアイデア(思考の枠組み)は、本作品をもって嚆矢とするらしいが、構造主義の台頭に、実に二十年も先行する著作であることは注目してよいだろう、と書くのは牽強附会に過ぎるか。

 かかる「人類家畜テーマ」が、SFが開発してきた装置のなかでも、特段に有効な装置であることを、私は今回強く感じた。
 確かにこの装置をもってすれば、好むと好まざるとに関わらず、「我々人間は自由な意志をもって決断−行動している」という〈自己の疑いなき自明性〉を検討の俎上に乗せることが出来る。相対化せずにはおかないのである。

 本書を、私は「ソラリス」を準備した先駆的作品として捉えるべきではないかと思う。
 半分冗談だが、〈狭義のSF〉とは「ヴァイトン」と「ソラリス」の間に位置するものであろう。

 だとすれば、「ソラリス」を超えたものは、もはやSFとは呼べまい。もっともそんな作品は、まだ現れていないしこれからも生まれないだろうが。
 なぜなら「ソラリス」の地点というのは、論理を用いる人間である限り、もはや認識の極北、終着点なのであるから。
 レム自身が本格的なSF小説を書かないというか、書けないのも「ソラリス」を書いてしまって、あと一体何を書けってんだ、という心境だからなのではないだろうか。――と、私は勝手に斟酌し、勝手に納得しているのだけれど。

12月

堺屋太一
『鬼と人と 信長と光秀(上下)』
(PHP文庫)

 明智光秀という人物像が、これまでどうも私の中で位置づけできないでいた。
 本能寺でのあざやかな手並みとその後の不手際さとの、まるで別人のような落差。巷説における信長との確執と、その割に重用されている事実との格差。等々……。

 本書では光秀を、「真面目で演技下手」(つまり腹芸が苦手)で、「真を語るといえども世に訴える術を知らぬ」(即ち根回しが苦手な)性格として描いている。
 事実かどうかは別にして、かかる光秀像は、私にはかなり納得できるものであった。
 なぜなら、
 ――「これってオレじゃん!」
 何が確実だといって、セルフ・イメージほど自分にとって〈確実〉で〈疑いない〉ものはあるまい(自己の疑いなき自明性)。
 だがしかし、よくよく考えると、腹芸苦手、根回し苦手……というのは、多くのサラリーマンが日頃感じている悩みではないだろうか。

 どうやら小生、まんまと著者の術中にハマッてしまったようだ。
 すなわち、「こいつはおれじゃないか」という共感をいかに読者から引き出すかというのが、ある意味小説としての出来不出来を決定づけるところがあるとしたら、本書はそれに成功しているわけだ。

 本書では、光秀の悲劇は「上司とコミュニケーションを密に取れない」光秀の性格に起因するものとして語られる。基本的に「組織に馴染まない」性格だったと設定している。
 それで逆に、人間関係に非常な神経を使い、疲れてしまう。もともと束ねていく器量ではないので、人望がない。リーダーではなく評論家である。お、宮沢喜一だ。……などとと考えていくと、光秀の今まで不可解だった行動が、何となく判るような気分になってきたのだった。

 今一つのサラリーマン典型である勝家とは、また全然違うタイプなのだが(註、「ヘテロ読誌98」41頁〈柴田勝家〉の項、参看)、実のところ、おのれの内部にかかる2タイプを同居させているのが、小説の世界ならぬ現実世界の中間管理職たちの姿ではないだろうか。


キース・ローマー
『時の罠』
冬川亘訳(ハヤカワ文庫)

 いかにもローマーらしさが横溢する、かるーいSFコメディ。
 〈ロスト・イン・スペース〉を観たばかりなので、こんな連想が浮かんだのかも知れないが、私は「宇宙家族ロビンソン」(TVの方だ)に似たセンスを感じた。
 つまりよい意味で御都合主義的というか、おおらかというか――悪くない。勿論傑作でもない(笑)。
 最後の予定調和的なタイム・パラドックス・シーンがよい。むしろこのシーンを書きたいがために、著者は200頁を費やしたのではなかろうか。


眉村卓
『司政官』
(ハヤカワ文庫)

 実に20年ぶりに再読。白状すれば、初読時はあまりピンとこなかった作品だ。
 今回読み直して、了解の糸口を掴んだ気がしている。
 それはヴァイトンからソラリスに向かう線分上に本書を位置づけるのは、どうやら間違いらしいということ。

 司政官の仕事は何か。原住種族と植民者の調整役であり、かつ惑星と連邦の間にあっては、惑星の側に立って調整するものであろうか?
 本書の場合、原住種族にソラリス的なものを求めてはいけないのだ。
 初読時の私の違和感は実にそれを求めてしまったことに起因する。
 そういう読み方のモードに入ってしまうと〈何を今さら〉という感想に自動的に行き着いてしまう道理だ。

 けれどもそれでは著者の意図を汲まない〈誤読〉になってしまうのである。
 本書中のかれら原住種族は、すべて人間の姿が投影されたものであり、本質的に〈人間〉と考えて間違いない。そう考えなければいけない。
 司政官が共感する「炎と花びら」のアミラも、「遙かなる真昼」のグゲンゲも、自立的開明的な理性人として描かれ、その意味において主人公の司政官に共感されるのであって、そこにはもはやSF的な認識の変革の入り込む余地はないのである。

 つまり作者は、本書においてはもともとそのような、いわゆるセンス・オブ・ワンダーの発現を目指して創作しているのではないのである。
 そういう意味でのSFではなく、作者にとって「あるべき人間」としての生き方を、具体的な小説、とりわけ自由なSF小説という形式に載せて表現しようとしているのだ。

 作者にとっての理想像を開陳するという意味で、むしろ〈空想小説〉の系譜に位置づけられるべきものなのかも知れない。
 もとよりそれが〈広義のSF〉に属すものであるのは間違いないが、ともあれ著者は、小説という形式を〈目的〉としてではなく、いわば〈手段〉として用いていることは指摘しておきたい。

 「限界のヤヌス」では、主人公の理想からは忌むべき存在として待命司政官、即ち巡察官候補生が描かれる。
 同時に司政官上がりの肯定さるべき巡察官も登場して、巡察官の性格の変遷が対比的に示されるが、加えてこの作品では司政官制度が機能しなくなってきた時期、司政官に見切りをつけて野に下った元司政官の革命家と、何とか司政官制度を維持しようと努力する主人公の司政官とが対比される。

 巡察官はためらいなく連邦軍の出動を要請する。この辺りはこの作品の読みどころで、個人的には多元描写で、この巡察官の、巡察官としての職業意識と心情の軋轢も複眼的に描いて欲しかったような気がする。
 複眼的といえば、司政官(制度)を見限った革命家の視点からの描写も是非欲しいところであった。

 視点の固定(実は眉村SFに特徴的な要素ではあるのだ)が、本書の諸作を、〈第一次戦後派〉に源流を発する「全体小説」としての可能性を秘めながらも、いまだ(良くも悪くも)空想小説にとどめているように思われて、個人的には惜しい気がするのである。


ヴィトルド・ゴンブローヴィチ
『バカカイ』
工藤幸雄訳(河出書房新社)

 ブルーノ・シュルツと並び賞されるポーランドの前衛作家(とはいっても、シュルツと違ってポーランドに拘る必要は全然ない)の短篇集。いやもう、面白いの面白くないのって……。破壊と嘲笑と冒涜のオンパレード。
 実は小生、この作家の『コスモス』をずいぶん長く抱えているのだが、頓挫したままである。本書を読み終えて、その理由が判ったような気がする。読書のスタンスを間違えていたらしい。

 ゴンブローヴィチという人、言うなればポーランド人の筒井康隆なのだ。
 前衛小説と喧伝されるものだから、どうもクローズドに構えすぎていたようだ。確かに筒井を前衛というなら、確かに前衛だろうが、それは反リアリズム小説という意味での前衛なのである。

 どうやら著者校正はほとんどしていないように見受けられる。
 勢いにまかせての書きっぱなしの雰囲気があるし、完成度という観点は、この著者 には無縁なもののようだ。
 アルバート・アイラーを前衛派というようなものだろう(もちろんアイラーは前衛派である)。

「クライコフスキ弁護士の舞踏手」
 ストーカーもの。公衆の面前で手ひどく面罵された男が相手の男につきまとうのは一種の愛情であるという背理。最終場面はもはやドタバタ的混乱。

「ステファン・チャルニェツキの手記」
 〈女は謎なのよ〉という信条の恋人の服の中に、男はがま蛙をほうり込み、発狂に至らしめる。

「計画犯罪」
 どこにも犯罪などない家に男は犯罪を成立させる。今日的評価をすればポスト新本格の傑作。

「コットウーバイ伯爵夫人の招宴」
 ゴンブロ版「乗越駅の刑罰」。

「純潔」
 純潔な乙女はゴミ捨て場の骨をかじり、賛美者の男にも強要する。

「冒険」
 船から転落した男は白いニグロに救助されるがひょんなことで憎まれ、ガラス瓶に詰められて海へ流される。数年漂流して救助されるがふたたび捕まり、今度は深海に沈められる。またもや救助され故郷に帰り、婚礼の前夜気球が流され、レプラの島に墜落する。ほら男爵風の物語。

「帆船バンベリ号上の出来事」
 本集中の白眉。航海中の船を舞台にした堂々たる幻想小説。

「裏口階段で」
 醜い下女に執着する男は素晴らしい美人と結婚するが……。最終場面の破壊力は凄まじい。

「ねずみ」
 民話風の話。怪力自慢の男が捕り手に捕まり、唯一苦手なネズミを使って攻められるが、ようよう逃げ出し、ネズミに追いかけられるように妻の許に帰り着くも、ネズミは眠っている妻の口のなかに飛び込み、哀れ噛みきられる。

「大宴会」
 ファンタジー小説のプロローグのように粛々と幕を開けるも、すぐに何事も破壊せずにはおかぬドタバタが取って代わり、収拾のつかぬ抱腹絶倒の混乱の中、国王を先頭に諸卿、貴婦人あまさず闇の中へと走り去る。


K・H・シェール
『地球人捕虜収容所』
松谷健二訳(創元文庫)

 前回読んだのは中三の時。今回、意外に時間を食った。それも前半部にとられた。
 いかにも嘘っぽい科学技術描写(による世界構築)に足をすくわれたのだ。
 後半、作品世界に入り込んでしまったあとは一気呵成。最後はもう一段のどんでん返しがあるように記憶していたのだが。

 しかしこれは今日的観点から言ってSFだろうか?
 私は少し違うように思う。スペースオペラであるのは間違いないが。
 本書は、光瀬節を取り去った光瀬龍だと思った。だとすると、光瀬龍はSF作家ではなくスペースオペラ作家ということになるのだが……。それはある意味そのとおりなのであって、実際その光瀬節が、光瀬作品をSFたらしめているのだ。光瀬SFから光瀬節を引いたら、スペオペしか残らないのである。


マイケル・ムアコック
『白銀の聖域』
中村融訳(創元文庫)

 ふたたび氷河期を迎えた地球、氷原を疾走する帆船という基本設定がよろしい。
 これだけで既にして合格である。マイクル・コニイを彷彿させる。
 というより、ウィンダム以来のイギリス・サバイバルSFの伝統だろうか。

 登場人物が主人公を含めて欠点だらけなのが、いかにもムアコックらしい。
 最後でSFになる。つまり温暖化の原因が開示されるのだが、いかにもとってつけたような印象。
 こうもっていくのはSF作家の性なのだけど、それでいいのだ──と許容してしまうのはSF読みの性か?


ジェイムズ・P・ホーガン
『時間泥棒』
小隅黎訳(創元文庫)

 時間を食って空間を排泄する虫を退治する話。したがってこの邦題は不適当である(原題はOUT OF TIME)。
 シロアリ駆除のアナロジーの解決策が笑えて好い。
 まさにSFのアイデアだけしかないシンプルなストーリーで、ついつい、SF読みならこれが判らなきゃ、と暴言を吐きたくなる。

 確かに、SF読みとしての資格を問う、踏み絵のような話ではある。
 だけれどもこういうタイプを受けつけないからと言って、SF読みといえないかといえば、もちろんそうではない。その辺が簡単ではないところだ。

 欲を言えばもっとストーリーをふくらまして欲しいところだが、私自身はこれでオッケー。少なくとも『時間衝突』よりはずっと面白かった。(註、「ヘテロ読誌98」60頁〈時間衝突〉の項、参照)
 この2篇の奇想SF、どこが違うのかとつらつら考えてみるに、ホーガンにはロジックがあるのだ。


掲載 1999年10月21日