【こ】
史書 和銅5年(712)成立 太安万侶撰 三巻
上巻 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、潜竜元を体し、■〔さんずい偏+存〕雷期に応じき。夢の歌を開きて業を簒がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。然れども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東国に虎歩したまひき。 |
- 底本 日本古典文学大系1『古事記 祝詞』昭和33年(1958)6月、岩波書店、校注=倉野憲司、武田祐吉/p.45
- 採録 1999年10月21日
●略解
正五位上勲五等太朝臣安万侶が和銅五年(712)正月二十八日に草した序文。古事記撰録の経緯を説くにあたり、天武天皇の事績を述べる。
底本頭注は、「夜の水かはに投いたりて基もとゐを承うけむことを知りたまひき」を「夜半に伊賀の名張の横河に行って、帝業をうけつぐべきことがわかった」とする。壬申の乱において、吉野を発った天武が名張の横河に至って占いをし、天下を手中にするとの卦を得たことを指す。
石川淳『新釈古事記』(ちくま文庫)から当該箇所を引くと、「ここに、飛鳥の浄見原の大宮にあって国を治めた天武のみかどの世におよんで、このみかど、つとに太子にして帝王の徳そなわり、竜のまさに昇り雷のまさに震おうとするごときものがあった。その瑞兆、かずかず示さる。はやく、夢に歌がきこえて、位につくべきことを告げた。また吉野より東国に下ろうとして、川のほとりに至ったとき、にわかに夜天に黒雲むらがる。みずからこれを占えば、天下やがてわが手に帰するべきしるしと知れた。されど、天の時いまだ至らずして、壬申の乱おこる。すなわち、世を捨てて吉野山に入るに、衆望かえってここにあつまり、いきおい大いに振った」。
●参照 【に】日本書紀「巻二十八 天渟中原瀛真人天皇 上」
中巻 次に師木津日子命の子、二王坐しき。一りの子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖。一りの子、和知都美命は、淡道の御井宮に坐しき。 |
- 底本 日本古典文学大系1『古事記 祝詞』昭和33年(1958)6月、岩波書店、校注=倉野憲司、武田祐吉/p.169
- 採録 1999年10月21日
●略解
地名ナバリの文献上の初見。記紀所伝の第三代天皇、安寧天皇の条。
師木津日子玉手見命しきつひこたまでみのみこと(安寧)の三男、師木津日子命に二人の子があり、うち一人を伊賀の三稲置の祖とする。稲置は古代の官職名で、国造より下位の地方豪族が就いたとされる。
底本頭注は「伊賀の須知(スチ)の稲置(イナギ)は、伊賀国名張郡周知の地に因んだ氏族名。稲置はカバネ(姓)。那婆理(ナバリ)の稲置は、同国同郡名張の地に因んだ氏族名。三野の稲置は同国伊賀郡身野(ミノ)の地に因んだ氏族名」とする。
須知、那婆理、三野はいずれも現在の名張市域内に比定され、須知は旧矢川郷、那婆理は中村・瀬古口を中心とする地域、三野は小波田付近という(『名張市史』)。
●参照 【に】日本書紀「巻第三十 高天原広野姫天皇」
説話集 永承5年(1120)前後成立か 作者未詳 二十一巻
巻第二十八 本朝付世俗 大蔵大夫藤原清廉怖猫語第三十一 今昔、大蔵ノ丞ヨリ冠リ給ハリテ、藤原ノ清廉ト云フ者有キ。大蔵ノ大夫トナム云ヒシ。其レガ前世ニ鼠ニテヤ有ケム、極ク猫ニナム恐ケル。然レバ此清廉ガ行キ至ル所々ニハ、若男共ノ勇タルハ、清廉ヲ見付ツレバ、猫ヲ取出テ見スレバ、清廉、猫ヲダニ見ツレバ、極キ太切の要事ニテ行タル所ナレドモ、顔ヲ塞テ逃テ去ヌ。然レバ世ノ人々、此清廉ヲバ猫恐ノ大夫トゾ付タル。 |
- 底本 日本古典文学全集24『今昔物語集 四』昭和51年(1976)3月、小学館、校注・訳=馬淵和夫、国東文麿、今野達/p.262
- 採録 1999年10月21日
●略解
底本は題に「おほくらのたいふふぢはらのきよかどねこにおそるることだいさむじふいち」とルビを振る。
山城、大和、伊賀三国に広大な土地をもつ荘園領主、藤原清廉きよかどは、猫を極端に怖れることから猫恐ねこおじの大夫と渾名されていた。人を驚かすほどの富者であったが、課せられた税物を納めようとしない。大和の守、藤原輔公すけきみはこれを徴収しようと思うものの、清廉は功労によって五位を賜り、在地領主ながら京でも顔をきかせている人物だから、検非違使庁に突き出すこともできない。一計を案じた輔公のもとに、清廉がやってきた。引用箇所以降、輔公は清廉の弱点を利用し、見事に税金を完納させる。
底本頭注は、「大蔵ノ丞」を「大蔵省(諸国からの出挙・貨幣・金銀などの財務をつかさどる)の第三等官。大丞(正六位相当)と少丞(従六位相当)とがあった。清廉は長徳三年(九九七)少丞、長保六年(一〇〇四)大丞」、「藤原清廉」を「大蔵大夫。東大寺領の一田地を数年領掌の後、七十七歳で没し、その地は息男の左馬允散位実遠、さらに実遠の養子の散位信良が伝領した」とする。
石母田正『中世的世界の形成』の第一章で言及される藤原実遠は清廉の子で、同書にはこの猫恐の大夫のエピソードも引かれている。