【ま】

万葉集

歌集 奈良時代末期(8世紀後期)ごろ成立か 二十巻

 巻第一/43

 当麻真人麿の妻の作る歌
わが背子は何処行くらむ奥つもの隠の山を今日か越ゆらむ

  • 底本 日本古典文学大系4『万葉集 一』昭和32年(1957)5月、岩波書店、校注=高木市之助、五味智英、大野晋/p.33
  • 採録 1999年10月21日

 略解

 「たぎまのまひとまろのめのつくるうた
 わがせこはいづくゆくらむおくつものなばりのやまをけふかこゆらむ」
 当麻真人麿は未詳。伊勢行幸の際の歌。
 底本頭注は、「奥つもの」を「枕詞。かくれて見えない意から隠(ナバリ─かくれるの意)にかかる」とする。折口信夫『万葉集辞典』は「おきつも」を「底の藻である。底にある物は隠れてゐて見えぬと言ふ心持ちで、なばりにかけたのだ」と説く。
 底本頭注の大意は、「私の夫は今頃何処を旅しているだろう。隠の山を今日越えているだろうか」。

 参照 近現代篇【】折口信夫「万葉集辞典」

 巻第一/60

 長皇子の御歌
暮に逢ひて朝面無み隠にか日長く妹が廬せりけむ

  • 底本 日本古典文学大系4『万葉集 一』昭和32年(1957)5月、岩波書店、校注=高木市之助、五味智英、大野晋/p.41
  • 採録 1999年10月21日

 略解

 「ながのみこのみうた
 よひにあひてあしたおもなみなばりにかけながくいもがいほりせりけむ」
 長皇子(?−715)は天武天皇の第四皇子。母は大江皇女、弓削皇子の兄。
  底本頭注は、「暮に逢ひて朝面無み」を「前夜逢って翌朝はずかしさに顔を会わせられないので隠(ナバ)る意から、地名名張の序」、「日長く」を「ケは日(ヒ)の複数名詞。三日四日などのカの転」、「廬せり」を「旅先で仮の家にいる」とする。
 底本頭注の大意は、「長い間お前が旅先で宿っていたのは(夜会って朝はずかしさに隠(なば)るその)名張の地だったのか。(だからなかなか顔を合わせなかったのだね)」。

 巻第四/511

 伊勢国に幸しし時、当麻麿大夫の妻の作る歌一首
わが背子はいづく行くらむ奥つもの名張の山を今日か越ゆらむ

  • 底本 日本古典文学大系4『万葉集 一』昭和32年(1957)5月、岩波書店、校注=高木市之助、五味智英、大野晋/p.251
  • 採録 1999年10月21日

 略解
 「いせのくににいでまししとき、たぎまのまろのまへつきみのめのつくるうたいっしゅ
 わがせこはいづくゆくらむおくつものなばりのやまをけふかこゆらむ」
 当麻麿大夫は未詳。巻一/43の歌を再録。

 巻第八/1536

 縁達師の歌一首
暮に逢ひて朝面無み隠野の萩は散りにき黄葉早続げ

 略解

 「えんだちほふしのうたいっしゅ
 よひにあひてあしたおもなみなばりののはぎはちりにきもみちはやつげ」
 縁達師は未詳。底本頭注は「代匠記には、縁達は名で、師は法師の師だろうとある。私注では、大化元年紀に見える百済の大使縁福の名を証とし、縁は百済系の姓、達師が名で、帰化人とする」とする。
 底本頭注は、「暮に逢ひて朝面無み」を「アシタと対になることばはユフベであるが、男女相逢うのはヨヒまたはヨに至ってであるから、ヨヒニアヒテと訓む」とする。
 底本頭注の大意は、「夜逢って翌朝はずかしさに顔を会わせられずになばる(かくれる)という、名張の野の萩は散ってしまった。黄葉よ早くそのあとにつづけ」。


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)