【お】

奥田継夫

昭和9年− (1934− )

 中学時代──男女共学第一期生
  三学期──(続)半田清の日記から

 町の東南にある平尾山から、町へ帰るには学校のある高台を横ぎらねばならない。高台には、江戸時代の藩主の屋敷があったところで、今もそこには人が住んでいる。昔はそこから町を支配したそうだが、今は幼稚園・小学校・中学校のあるいわば町の文教地区だ。町はこの高台の下に発達し、町と高台を大きく「つ」の字形にかこむように川が流れる

 続いていた青い空
  プロローグ

 名張は川と高台のある町。

 町は名張川が“つ”の字型に

 つくる盆地の中心をしめ、

 町の南東に高台をもつ。

 桔梗ケ丘である。

 家々はその桔梗ケ丘に甍を

 よせあっていた。

 夏時間
  2 進駐軍のきた日

 ダンスの会場にあてられた平尾山グラウンドは、戦後、おりからの野球熱にとりつかれた町の若者たちに開放された。戦時中には探照灯がすえられ、地面はすみずみまで、いも畑に開墾されていた。
 この日、グラウンドには運動会用のテントがはられ、わざわざ校長室からの電話で、進駐軍がふたり、町長がおともをするむね、知らせがあった。テントのよこには、大志たちがプレヤーをかこみ、マイクのテストにいそがしかった。初夏の空はあたたかい青色で、グラウンドをふちどる新緑は、自然がいま、生れたように新鮮であった。名もわからない銀色にかがやく新芽、柿の葉の雨蛙の肌のようなつや、ポプラの若葉が白い風にいやいやをしていた。

表章

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 能楽の歴史
  一 能楽史概説
   (二)大成期
──観・世父子の功業──
    6 大和猿楽四座と「当道の先祖」たち
     大和猿楽四座

 観阿弥が所属した結崎ゆうざき座は、『申楽談儀』付載の座規(「魚崎御座之事」)によると、多武峰寺(妙楽寺・談山神社)の八講はつこう猿楽、興福寺の薪たきぎ猿楽、春日若宮祭に参勤する権利・義務を負うていた座であるが、多武峰の行事を、欠勤者は座を追放するほど重視しており、本来は多武峰寺参勤のために組織された座だったと考えられる。磯城しき郡川西町結崎の地が本拠だったろう。その結崎座を、『申楽談儀』の「この座の翁おきなは弥勒打みろくうちなり。伊賀小波多おばたにて、座を建てそめられし時、伊賀にて尋ね出だし奉たてまつッし面なり」との記事に基づいて、観阿弥が伊賀小波多で創立した座と考える旧説は、今は否定されている。右の文は、結崎座発足に際して翁面おきなめんが探し出された場が伊賀小波多だったことを示すと解するのが正しいと認められるし、猿楽の座は翁猿楽が猿楽芸の主体だった時代──遅くとも鎌倉末期以前──に結成されたと考えられることや、今熊野猿楽の時に観阿弥が座の「長おさ」(最長老統率者)でなかったことが明白な点からも、観阿弥が結崎座を組織したと解するのは確かに誤りであろう。

 参照 古典篇】世子六十以後申楽談儀

折口信夫

明治20年2月11日−昭和28年9月3日(1887−1953

 万葉集辞典

なばり【名張】 伊賀国。名張山は、其地の山。大和国から伊勢国に出る道に当る。

 参照 古典篇】万葉集「巻第一/43 当麻真人麿の妻の作る歌」


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)