【し】

諸国百物語

怪談集 延宝5年(1677)刊行 編著者不詳 五巻

 巻之三
  
十八 伊賀の国名張にて狸老母にばけし事

 伊賀のくに名張と云ふ所よりたつみにあたりて山ざとあり。このざいしよによなよな人一人づゝうせけり。なに物のわざともしれず。あるひは子をとられ、あるひは親をとられ、なきかなしぶ事めもあてられぬしだい也。

  • 底本 叢書江戸文庫2『百物語怪談集成』昭和62年(1987)7月、国書刊行会、校訂=太刀川清/p.85−86
  • 採録 1999年10月21日

 ●略解

 諸国百物語は五巻、各巻二十話、まさしく百話を収める。信州諏訪の浪人、武田信行らの談に仮託するが、編著者不詳。
 掲出の話は曾呂利物語の「老女を猟師が射たる事」に拠る。

 参照 【】曾呂利物語「老女を猟師が射たる事」

信長公記

軍記 成立年不詳 太田牛一著 十六巻十六冊

 巻十四
  (十) 九月三日、三介信雄伊賀国へ発向

九月十日、伊賀国さなご嶺おろしへ諸手相働き、国中の伽藍、一宮の社頭初めとして、悉く放火候の処に、さなごより足軽を出し候。滝川左近・堀久太郎両人見計らひ、馬を乗入れ、究竟の侍十余騎討捕り、其日は陣所々々の本陣へ打帰し、
九月十一日、さなご攻破るべきの処、夜中に退散なり。さなごへ三介信雄入置き申し、諸勢奥郡へ相働き、諸口の軍兵入合ひ候間、爰にて郡々を請取り、手前切りに御成敗。其上城々破却申付けられ候なり。
阿加郡、三介信雄御請取りにて御成敗。
山田郡、上野守信兼御成敗。
名張郡、惟住五郎左衛門・筒井順慶・蒲生兵衛大輔・多賀新左衛門・京極小法師・若州衆、
右の衆として所々にて討捕る頸の注文、
 小波多父子兄弟三人・東田原の高畠四郎兄弟二人・西田原の城主・よしはらの城主吉原次郎、
  以上、
阿閉郡、滝川左近・堀久太郎・永田刑部少輔・阿閉淡路守・不破河内守・山岡美作守・池田孫次郎・多羅尾・青木・青地千代寿・甲賀衆、
右の衆として所々にて討捕る頸の注文、
 河合の城主田屋・岡本、国府の高屋父子三人・糠屋蔵人、壬生野の城主、荒木の竹野屋左近、木興の城攻干し、撫切り、上服部党・下服部党、
 以上。此外数多切捨て訖。
右の外、一揆共大和境春日山へ逃散り候を、筒井順慶山々へ分入り尋捜して、大将分七十五人、其外数を知らず切捨て候キ。

 ●略解

 太田牛一は安土桃山時代の尾張の武士。大永七年(1527)に生まれ、織田信長と豊臣秀吉に仕えたあと、晩年は軍記の著述に専念、慶長十五年(1610)に八十四歳で生存していたことが確認されるという。
 信長公記は信長の伝記として知られ、永禄十一年(1568)の上洛以前を記した首巻一巻と、上洛から天正十年(1582)の死までを録した十五巻からなる。成立事情はつまびらかではない。底本は近衛家陽明文庫所蔵の写本に拠る。
 掲出は天正九年(1581)、信長が伊賀を殲滅した戦いの記録。信長の次男、北畠信雄は天正七年(1579)九月、独断で伊賀へ出兵し、失敗して信長から厳しく叱責されたが、翌々年に至って信長は信雄に伊賀征服を指令、九月三日、甲賀、信楽、加太、大和の四方向から伊賀に攻め入った軍勢は、早くも十一日に伊賀一国を平定し終えた。国中の社寺に「悉く放火」し、「手前切り」「撫切り」など徹底した殺戮を進めた果ての、圧倒的な勝利である。


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)