【し】
巻之三 伊賀のくに名張と云ふ所よりたつみにあたりて山ざとあり。このざいしよによなよな人一人づゝうせけり。なに物のわざともしれず。あるひは子をとられ、あるひは親をとられ、なきかなしぶ事めもあてられぬしだい也。 |
- 底本 叢書江戸文庫2『百物語怪談集成』昭和62年(1987)7月、国書刊行会、校訂=太刀川清/p.85−86
- 採録 1999年10月21日
●略解
諸国百物語は五巻、各巻二十話、まさしく百話を収める。信州諏訪の浪人、武田信行らの談に仮託するが、編著者不詳。
掲出の話は曾呂利物語の「老女を猟師が射たる事」に拠る。
●参照 【そ】曾呂利物語「老女を猟師が射たる事」
軍記 成立年不詳 太田牛一著 十六巻十六冊
巻十四 (十) 九月三日、三介信雄伊賀国へ発向
九月十日、伊賀国さなご嶺おろしへ諸手相働き、国中の伽藍、一宮の社頭初めとして、悉く放火候の処に、さなごより足軽を出し候。滝川左近・堀久太郎両人見計らひ、馬を乗入れ、究竟の侍十余騎討捕り、其日は陣所々々の本陣へ打帰し、 |
- 底本 角川文庫2541『信長公記』昭和44年(1969)11月、角川書店、校注=奥野高広・岩沢愿彦/p.363−365
- 採録 2001年9月11日
●略解
太田牛一は安土桃山時代の尾張の武士。大永七年(1527)に生まれ、織田信長と豊臣秀吉に仕えたあと、晩年は軍記の著述に専念、慶長十五年(1610)に八十四歳で生存していたことが確認されるという。
信長公記は信長の伝記として知られ、永禄十一年(1568)の上洛以前を記した首巻一巻と、上洛から天正十年(1582)の死までを録した十五巻からなる。成立事情はつまびらかではない。底本は近衛家陽明文庫所蔵の写本に拠る。
掲出は天正九年(1581)、信長が伊賀を殲滅した戦いの記録。信長の次男、北畠信雄は天正七年(1579)九月、独断で伊賀へ出兵し、失敗して信長から厳しく叱責されたが、翌々年に至って信長は信雄に伊賀征服を指令、九月三日、甲賀、信楽、加太、大和の四方向から伊賀に攻め入った軍勢は、早くも十一日に伊賀一国を平定し終えた。国中の社寺に「悉く放火」し、「手前切り」「撫切り」など徹底した殺戮を進めた果ての、圧倒的な勝利である。