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太平記

軍記 南北朝時代後期(1370年代)成立か 編著者不詳 四十巻

 巻第十四
  官軍箱根を引き退く事

この馬の落ち入りける時、橋二間ばかり落ちて、渡るべき様もなかりけるを、船田入道と大将と二人手に手を取り組んで、ゆらりと飛び渡りたまふ。その跡に候ひける兵二十余人、飛びかねてしばし徘徊しけるを、伊賀国の住人に名張八郎とて、名誉の大力のありけるが、「いで渡して取らせん」とて、鎧武者の総角を取つて中に提げ、二十人までこそ投げ越しけれ。今二人残つてありけるを、左右の脇に軽々と挟んで、一丈余り落ちたる橋をゆらりと飛んで、向ひの橋桁を踏みけるに、踏み所少しも動かず、誠に軽げに見えければ、諸軍勢遥かにこれを見て、「あないかめし、いづれも凡夫の態にあらず。大将といひ手の者どもといひ、いづれを捨つべしとも覚えねども、時の運に引かれて、この軍に打ち負けたまひぬるうたてさよ」と、言はぬ人こそなかりけれ。

 略解

 太平記は南北朝期の軍記。四十巻。編著者不詳。後醍醐天皇の倒幕計画から鎌倉幕府滅亡までを述べる第一部(巻一−十一)、建武新政権の発足から後醍醐天皇の崩御までを描く第二部(巻十二−二十一)、足利幕府の権力争いと動乱のあと平和を迎えるまでの第三部(巻二十二−四十)の三部に分かれる。
 掲出箇所は第二部の冒頭部分にあたる。足利尊氏と新田義貞の確執が決定的なものとなり、尊氏・直義兄弟の叛逆が明らかとなって、義貞を大将軍とした追討軍が出陣するが、尊氏は朝敵となることに躊躇して戦おうとせず、弟の直義が追討軍を迎え撃つ。京を発った義貞軍は建武二年(1335)十一月二十五日、足利軍と対戦、足利軍は矢矧(愛知県)、鷺坂、手越(いずれも静岡県)と敗走するが、箱根、竹下(いずれも静岡県)の戦いで戦況が逆転。義貞軍は一旦後退して陣の立て直しを図ることとし、十二月十四日、天竜川まで退却する。
 しかし、天竜川は上流の雨で増水し、渡ることができない。義貞軍は付近の家屋を壊し、その用材で浮橋を架けて、ようやく川を渡る。軍勢のあと義貞と家来の船田入道が渡ろうとすると、裏切り者の仕業なのか浮橋が一間、縄を切って捨て去られている。義貞の馬を引いていた舎人が、馬もろともそこから川に転落してしまう。これを見た栗生左衛門が鎧を着たまま川を泳ぎ、馬と舎人を両手で差し揚げながら、肩を越す深さの水のなかを向こう岸まで歩いてたどりついた。以下、掲出箇所となる。
 伊賀の住人、名張の八郎の大力軽捷に驚嘆した軍勢の科白は、「栗生、名張ともに凡夫ではない。義貞軍は大将も家来もすぐれているが、ただ時の運によって、箱根・竹下の戦いに破れてしまった」といった意。
 底本頭注は、「名張八郎」を「寛永版本に「なんばり」と訓むが改める。三二九頁に「義貞はかねてより馬回りに、すぐれたる兵を七千余騎囲ませて、栗生・篠塚・名張八郎とて、天下に名を得たる大力を真先に進ませ」とあった」とする。
 網野善彦は「悪党の系譜──『太平記』を中心に」で、「「八尺余ノ金棒」を使い、鎧武者二十人を軽々と投げる「名誉の大力」、伊賀国住人名張八郎」に「悪党的な戦闘」を見ている。

 参照 近現代篇【】網野善彦「悪党の系譜──『太平記』を中心に」


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)