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朝倉喬司

昭和18年− (1943− )

 名張毒入り葡萄酒殺人事件

 三重県名張市の葛尾は農家一七戸の集落だったが、この山村で一九六一年(昭和三六)三月二八日、生活改善クラブ「三奈〔みな〕の会」に参加し、葡萄酒を飲んだ一七人の女性のうち五人がその場で死亡、一二人は入院して命をとりとめるという事件が起こった。

 参照 【】中井英夫「影の訪問者」

網野善彦

昭和3年− (1928− )

 蒙古襲来
  鎌倉幕府の倒壊
   道学者上皇と専制的天皇
    後醍醐と楠木正成/悪党と天皇

 これまで正成を「朱砂しゆさ(水銀の原料)と関連させる説(中村直勝氏)、「散所さんじよの長者」とみる説(林家辰三郎氏)があり、佐藤進一氏も商人的なひろい行動半径をもつ武士とみているが、基本的にはそのとおりであろう。正成はまさしく職人的武士だった。その一族が播磨・河内・和泉を股にかけて動き、伊賀の御家人を通じて、能の観阿弥かんあみと関係があるといわれていることも、また「悪党」といわれていることも、こう考えればみな自然に理解することができる。
 悪党と天皇 後醍醐はこうした職人的武士──悪党・海賊を積極的に組織しようとしていた。いま、正成を供御人
くごにんの統轄者といったが、正成とともに戦った渡部党は大江御厨みくりや渡部惣官そうかん、石川判官代も河内の御稲田にかかわりをもつ。鎌倉末期、伊賀国黒田荘に東大寺を悩ました悪党が活動していたことはよく知られているが、この悪党は伊賀国に古代以来おかれていた供御所くごしよとつながる人々であり、やはり後醍醐側に立って戦っているのである。

 参照 【】永原慶二「内乱と民衆の世紀」【】山本律郎「悪党・忍者・猿楽」

悪党の系譜──『太平記』を中心に
  名和長年

 天皇直領ともいうべき諸国の御厨と海民的な供御人は、平安末・鎌倉期、摂河泉をはじめ、山城・伊勢・志摩・伊賀・安芸・近江、さらに春宮御厨若狭国青保などに見出すことができるが、さきのように考えれば、伯耆のこの御厨もその一例に数えうるであろう。そして楠木軍に属した大江御厨の渡部党をはじめ、伊賀の供御所につながり、南朝に与した黒田悪党の動向をみれば、伯耆御厨とその海民の場合も、後醍醐に加担する可能性は十分あるといわなくてはならない。

 参照 古典篇】太平記「巻第十四 官軍箱根を引き退く事」

鮎川哲也

大正4年− (1915− )

 戌神はなにを見たか
  六 不利な情報

 駅前から生誕碑までは徒歩で十分とかからぬ距離であった。途中、新装をこらした市立図書館が目についたので立ち止ると、入口の黒板に代表的な蔵書の名がしるされていた。そのなかには予期したとおり「江戸川乱歩文庫」の文字があり、名張の市民が《二銭銅貨》の作者を誇りとしていることが察しられた。
 図書館の少し先に立派な外観の個人病院が建っている。宿の女中に教えられた標識は、その建物の横の通路に入ろうとする処に、「江戸川乱歩生誕碑」としるされて、つつましやかに置かれていた。大塚は足早にいそいそと横路をとおりぬけた。
 病院の裏に、細い路をへだてて分院がある。碑は、その分院の小庭に立っていた。石材は御影石でもあるのだろうか、成人の身長ほどの高さがあり、正面から見た形は将棋の駒に似ていた。碑面の上部には故人の筆蹟で「幻影城」と右書きに刻まれ、その真下に「江戸川乱歩生誕地」と縦書きにした文字が浮き出ている。

 参照 【】江戸川乱歩「生誕碑除幕式」


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)