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名張毒入り葡萄酒殺人事件 三重県名張市の葛尾は農家一七戸の集落だったが、この山村で一九六一年(昭和三六)三月二八日、生活改善クラブ「三奈〔みな〕の会」に参加し、葡萄酒を飲んだ一七人の女性のうち五人がその場で死亡、一二人は入院して命をとりとめるという事件が起こった。 |
- 初出・底本 佐々木毅他編『戦後史大事典』平成3年(1991)3月、三省堂/p.686
- 採録 1999年10月21日
●参照 【な】中井英夫「影の訪問者」
昭和3年− (1928− )
蒙古襲来 これまで正成を「朱砂しゆさ」(水銀の原料)と関連させる説(中村直勝氏)、「散所さんじよの長者」とみる説(林家辰三郎氏)があり、佐藤進一氏も商人的なひろい行動半径をもつ武士とみているが、基本的にはそのとおりであろう。正成はまさしく職人的武士だった。その一族が播磨・河内・和泉を股にかけて動き、伊賀の御家人を通じて、能の観阿弥かんあみと関係があるといわれていることも、また「悪党」といわれていることも、こう考えればみな自然に理解することができる。 |
- 初出 「日本の歴史」第10巻『蒙古襲来』昭和49年(1974)9月、小学館
- 底本 『蒙古襲来(下)』小学館ライブラリー、平成4年(1992)6月、小学館/p.274
- 採録 1999年10月21日
●参照 【な】永原慶二「内乱と民衆の世紀」【や】山本律郎「悪党・忍者・猿楽」
悪党の系譜──『太平記』を中心に 名和長年 天皇直領ともいうべき諸国の御厨と海民的な供御人は、平安末・鎌倉期、摂河泉をはじめ、山城・伊勢・志摩・伊賀・安芸・近江、さらに春宮御厨若狭国青保などに見出すことができるが、さきのように考えれば、伯耆のこの御厨もその一例に数えうるであろう。そして楠木軍に属した大江御厨の渡部党をはじめ、伊賀の供御所につながり、南朝に与した黒田悪党の動向をみれば、伯耆御厨とその海民の場合も、後醍醐に加担する可能性は十分あるといわなくてはならない。 |
- 初出・底本 鑑賞日本古典文学第21巻『太平記・曾我物語・義経記』昭和51年(1976)8月、角川書店、編=岡見正雄、角川源義/p.370
- 採録 1999年10月21日
●参照 古典篇【た】太平記「巻第十四 官軍箱根を引き退く事」
大正4年− (1915− )
戌神はなにを見たか 駅前から生誕碑までは徒歩で十分とかからぬ距離であった。途中、新装をこらした市立図書館が目についたので立ち止ると、入口の黒板に代表的な蔵書の名がしるされていた。そのなかには予期したとおり「江戸川乱歩文庫」の文字があり、名張の市民が《二銭銅貨》の作者を誇りとしていることが察しられた。 |
- 初出 推理小説特別書下ろしシリーズ『戌神はなにを見たか』昭和51年(1976)2月、講談社
- 底本 『戌神はなにを見たか』講談社文庫、昭和58年(1983)4月、講談社/p.165
- 採録 1999年10月21日
●参照 【え】江戸川乱歩「生誕碑除幕式」
●掲載 1999年10月21日 ●最終更新