【な】

中井英夫

大正11年9月17日−平成5年12月10日(1922−1993)

 影の訪問者

 音量を絞ったマイクから飛び交う司令がきれぎれに聞えてくる。
 「……本人は毒を飲まされたといい張るんですが、状況がはっきりしないんで、とにかく服毒の処置を至急に……」
 聴き耳を立てる間もなくマイクは切られ、それは夜の風の呟きのように耳に残った。
 毒殺というと昭和三十六年に三重県名張市で起った白ワイン殺人事件がいまだになまなましい。生活改善クラブの集会でというのも、いかにも『いなか、の、じけん』風だが、有機燐酸系の農薬を仕込んだ白葡萄酒で乾杯というところがまた凄まじい。真犯人は不明だが、女ばかり二十人近くが一瞬のうちに痙攣しながら悶絶するという修羅場を、どんな期待を籠め、どこでどう息を詰めて待ち構えていたのか、その邪悪な眼の輝きを盗み見したら、それだけでこちらも悶絶するほどのものだったのかどうか。しかし、自分で服毒しておいて、あいつに毒を飲まされたといい続けて死ぬというのもりっぱな執念だが、東京ではそれぐらいの事件には事欠かないのであろう、翌日の新聞にはそれらしい記事のひとつも見当らなかった。

 参照 【】朝倉喬司「名張毒入り葡萄酒殺人事件

永原慶二

大正11年− (1922− )

 内乱と民衆の世紀
  南北朝の内乱
   内乱の展開
    南軍の敗退

 後醍醐は、直義ただよしのきびしい探索をかいくぐって吉野よしの潜入に成功すると、光明こうみように渡した神器しんきは偽器である、したがって光明は偽帝である、といいだし、自分こそがなお本物の神器をもつ正統の天皇だと主張した。両朝対立時代の開始である。
 後醍醐の戦略はそれなりによく構想されていた。吉野は金峰山
きんぷせんの修験道しゆげんどうの本拠として一種の独立世界を誇るとともに、地形的にも要害であり、北方の奈良方面から攻めるに容易でない。背後の南方はさらに奥深い紀伊きい半島中央部の山々に連なり、熊野くまの三山の修験者しゆげんじやは海上の大きな水軍勢力と結んでいる。真言密教しんごんみつきように深い人脈をもつ後醍醐はこの両者を味方としていた。しかも西方は高野山こうやさんの勢力が強く、紀ノ川きのかわを下れば和歌山方面に意外に近いうえ、河内かわち・和泉いずみには正成まさしげ戦死後も楠木くすのき一族が大きく根を張っており、瀬戸内海の要衝堺さかいは、後醍醐と結びつきの固かった住吉社領すみよししやりようである。
 東方へは伊賀
いがをぬければ伊勢いせに近く、大湊おおみなと(三重県度会わたらい郡)を最大の拠点として東海方面への海路が開けている。後醍醐は、すでに即位直後のころからこの大湊の供御人=商人に目をつけ、その掌握に力を入れていた。かれらは伊勢神宮領御厨みくりやの年貢輸送を手がかりに関東にまで廻船を動かす実力をもっていた。さらに、鎌倉後期以降、伊賀で東大寺とうだいじの支配に抗して活躍した「悪党あくとう」は、建武けんむ三年(一三三六)、「叡山えいざんに参候して以降、郡内に城郭を構へ、いよいよ寺家の使者を入り立てず、今に吉野と当郡往来の通路なり」と東大寺衆徒側が指摘しているように、後醍醐と連なっていた。かれらも鎌倉末期以来、禁裏供御人きんりくごにん(本来、天皇に食糧を進納する人びと)と称して後醍醐とかたい結びつきをもっていた。

 参照 【】網野善彦「蒙古襲来」【】山本律郎「悪党・忍者・猿楽」


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)