【か】

金井清光

大正11年− (1922− )

 能の研究
  第三部 観阿研究
   観阿の生涯
    三 青年時代

小波多とは三国地誌(巻七十二)
  小波田。按、小波田村に存す。今上小波田・下小波田・中村・東田原・新田の五邑を呼で小波田郷と云。
とあるが、いまの三重県名張市小波田のことで、山田猿楽の所在地大和磯城郡山田からは相当離れており、観阿が独立して腕をふるうには手頃な土地であった。鎌倉時代の伊賀は三分の二が東大寺領で、三分の一が伊勢神宮領その他となっており、したがって東大寺と伊賀との交通は頻繁で、大和と伊賀を結ぶ街道筋にははやくから聚落が発達していた。小波多は上野から名張を経て初瀬に通ずる街道筋にあたり、また伊勢方面へも道が通じていて交通の便利な土地であったから、聚落として繁栄し経済力も豊かで、座の創立にも何かと便宜があったのであろう。しかし座を創立するといっても、単に役者をあつめて芸団を結成するだけでは座として成り立たない。その芸団に対する特別の保護者、つまりその地域における最も有力な寺社の配下にはいってはじめて座の存立が保証されるのである。たぶん小波多には山田猿楽座が保護を仰いだ大寺社の末寺社があって、観阿はその末寺社の配下にはいって座を創立したと推定される。

 参照 古典篇【】世子六十以後申楽談儀


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)