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明治42年3月3日−昭和59年1月30日(1909−1984)
壬申の内乱 第二章 美濃の根拠地へ 大野(奈良県宇陀郡室生村大野)に一行がたどりついたころに、日がとっぷり暮れた。山中の道は暗くて、進行に困難を感じ、その村の家の籬まがきを打ち壊し、燭火として手にもって歩きつづけた。夜半にいたって、ようやく大和の国境を踏破して隠なばり郡(伊賀国名張郡)にはいり、隠の駅家を焼きはらった。そして、「天武紀」上はつづる。 因よりて邑むらの中に唱よばひて曰はく、「天皇すめらみこと、東国に入ります。故かれ、人夫諸参赴もろもろまうこ」といふ。然るに一人も来肯きかへず。 これは、なかなか意味深い一節である。伊賀国は、大友皇子の母の出地である。その生家は、釆女として宮廷に出仕させたのだから、国造の家柄であったに相違ない。ここは、そういう点から、豪族・農民が、前太子の募兵に一人も応じなかったのであろうか。おそらくそうではあるまい。かりに、大海人が郡司を味方にひきいれ、それを通して動員したとすれば、必ずや豪族・農民が沿道の村々から群をなして姿を現わし、前太子の陣列に加わったであろう。東方へさきを急ぐ大海人は、大和の菟田郡、または伊賀の隠郡において、郡司に働きかける時間のゆとりがなかった。郡司の方からも接近してこなかった。募兵の失敗は、そのためにほかならないのではないか。これは、前太子とその小集団には、手痛い期待はずれであったろう。さきざきの募兵のことが思いやられたからである。 |
- 初出・底本 『壬申の内乱』岩波新書、昭和53年(1978)8月、岩波書店/p.45−46
- 採録 1999年10月21日
●参照 古典篇【に】日本書紀「巻第二十八 天渟中原瀛真人天皇 上」