【に】

日本書紀

史書 養老4年(720)成立 三十巻

 巻第二十五
  天万豊日天皇  孝徳天皇(二年春正月)

凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山より以来、兄、此をば制と云ふ。西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。

  • 底本 日本古典文学大系68『日本書紀 下』昭和40年(1965)7月、岩波書店、校注=坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋/p.280
  • 採録 1999年10月21日

 略解

 記紀所伝の第三十六代天皇、孝徳天皇の条。
 大化二年(646)正月に孝徳が宣した「改新之詔
あらたしきにあらたむるみことのり」について述べたうち、畿内国うちつくにの範囲を規定した箇所。いわゆる大化の改新の第二条にあたる。これによって畿内の範囲が限定され、名張川が畿内の東を限ることになった。底本頭注は「名墾の横河」を「伊賀名張郡の名張川」とする。

 巻第二十七
  天命開別天皇  天智天皇(七年二月)

又伊賀釆女宅子娘有り、伊賀皇子を生めり。後の字を大友皇子と曰す。

  • 底本 日本古典文学大系68『日本書紀 下』昭和40年(1965)7月、岩波書店、校注=坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋/p.368
  • 採録 1999年10月21日

 略解

 天智天皇(626−671)の条。
 天智七年(668)一月、中大兄皇子が即位して天智天皇となり、二月、倭姫を皇后とした。天智にはほかに四人の妃があってそれぞれに子をなし、地方豪族出身の女官四人とのあいだにも子を儲けた。四人のうち最後に記されているのが伊賀釆女宅子娘
いがのうねめやかこのいらつめで、伊賀皇子、のちの大友皇子を生んだ。
 底本頭注は、伊賀釆女宅子娘を「生没年未詳。伊賀国造に伊賀臣がある。大彦命をその祖とし、天武十三年十一月に朝臣と改姓」、大友皇子を「十年正月条に太政大臣。壬申の乱に敗死。懐風藻に詩と伝を収め、年二十五とあるから大化四年生。明治三年に弘文天皇と追諡」とする。
 天智十年(671)正月、天智は大友皇子を太政大臣に任命、十月、病が重くなって弟の大海人皇子に後事を託すが、大海人は皇位継承者に大友を推し、みずからは出家して吉野に隠棲する。十二月、天智死去。
 明くる壬申の年、大海人皇子と大友皇子のあいだで壬申の乱が争われる。

 参照 近現代篇】北山茂夫「壬申の内乱」

 巻第二十八
  天渟中原瀛真人天皇 上  天武天皇(元年六月)

夜半に及りて隠郡に到りて、隠駅家を焚く。因りて邑の中に唱ひて曰はく、「天皇、東国に入ります。故、人夫諸参赴」といふ。然るに一人も来肯へず。横河に及らむとするに、黒雲有り。広さ十余丈にして天に経れり。時に、天皇異びたまふ。則ち燭を挙げて親ら式を秉りて、占ひて曰はく、「天下両つに分れむ祥なり。然れども朕遂に天下を得むか」とのたまふ。即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀駅家を焚く。伊賀の中山に逮りて、当国の郡司等、数百の衆を率て帰りまつる。会明に、■〔草冠+刺〕萩野に至りて、暫く駕を停めて進食す。積殖の山口に到りて、高市皇子、鹿深より越えて遇へり。

  • 底本 日本古典文学大系68『日本書紀 下』昭和40年(1965)7月、岩波書店、校注=坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋/p.388
  • 採録 1999年10月21日

 ●略解

 天武天皇(?−686)の条。
 天武元年(672)六月二十四日、総勢わずか三十余人で吉野を発った大海人皇子は、伊賀、伊勢、美濃をめぐって各地の豪族を糾合しながら大津宮に攻め入り、反攻をしのいで大津宮を陥落せしめた。七月二十三日、大友皇子は縊死を選ぶ。勝利した大海人は翌年、飛鳥浄御原宮で即位、天武天皇として律令国家の建設を推進する。
 大海人軍は吉野を出た六月二十四日の夜半、名張に入り、駅家
うまやを焼いて衆を募るが、誰一人として応えない。横河(名張川)に至り、空にかかる黒雲を見て、大海人は自分が天下を得ることを占う。一行は伊賀郡に入り、積殖で朝を迎える。
 底本頭注は、「隠郡
なばりのこほり」を「伊賀国名張郡。今の三重県名賀郡の西半部・名張市」、「隠駅家なばりのうまや」を「三重県名張市の地にあった駅家か。大宝・養老令制では、駅家は諸道三十里(約十六キロメートル)ごとにおかれ、一定数の駅馬を常置した」、「横河」を「現在の名張川か。大化改新当時の畿内の東端」、「式ちく」を「楓子棗の心木で作り、回転して吉凶を占う陰陽道の用具。字音でチクと読む」、「伊賀郡」を「伊賀国の郡名。今の三重県名賀郡の東半部」、「伊賀駅家」と「伊賀の中山」をともに「所在未詳。三重県上野市付近の地か」、「会明あけぼの」を「六月二十五日の夜明け」、「■〔草冠+刺〕萩野たらの」を「所在未詳。三重県阿山郡伊賀町付近か」、「積殖つむゑ」を「伊賀国阿拝(あへ)郡に柘殖郷がある。今、阿山郡伊賀町柘植の地」とする。

 参照 【】古事記「上巻 序」 近現代篇】北山茂夫「壬申の内乱」【】黒岩重吾「天の川の太陽」【】村山修一「日本陰陽道史話」

 巻第二十九
  天渟中原瀛真人天皇 下  天武天皇(朱鳥元年六月)

庚寅に、名張厨司に災けり。

  • 底本 日本古典文学大系68『日本書紀 下』昭和40年(1965)7月、岩波書店、校注=坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋/p.478
  • 採録 1999年10月21日

 ●略解

 天武天皇(?−686)の条。朱鳥元年(686)六月の記事。
 底本頭注は、「
庚寅かのえとらのひ」を「庚寅は二十二日で、丙申(二十八日)と前後する」、「名張厨司なばりのくりやのつかさ」を「名張は伊賀国名張郡。今、三重県名賀郡の西半部、名張市。厨司は天皇の食膳に供する鳥・魚・貝類などをとらえるためにおかれた施設。名張の場合は年魚(あゆ)・雑魚などをとらえるためのものか」とする。

 巻第三十
  高天原広野姫天皇  持統天皇(三年八月)

丙申に、摂津国の武庫海一千歩の内、紀伊国の阿提郡の那耆野二万頃、伊賀国の伊賀郡の身野二万頃に漁猟することを、禁め断めて、守護人を置きて、河内国の大鳥郡の高脚海に准ふ。

  • 底本 日本古典文学大系68『日本書紀 下』昭和40年(1965)7月、岩波書店、校注=坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋/p.498
  • 採録 1999年10月21日

 略解

 持統天皇(645−702)三年(689)の条。持統は天智天皇の皇女、天武天皇の妃。
 底本頭注は、「身野
むの」を「通証は安寧記の伊賀の三野稲置(みののいなぎ)を指摘し、地名辞書は身野を三重県名賀郡の美濃波多村とするが、三・美はミの甲類、身はミの乙類の音なので、いずれも不当。未詳。身は古くムと訓むので、ムノという地名として考えることができる」とする。

 参照 【】古事記「中巻 安寧天皇」


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)