【く】

久留島典子

昭和30年− (1955− )

 領主の一揆と中世後期社会
  二 一揆の背景
   2 地域的結合

 さて、伊賀「悪党」たちの守護改替の訴訟は、筧雅博の推測のようにおそらく「伊賀国御家人」の名で行われた。ここにも地頭御家人たちの、荘園領主や幕府にまで対立する自立性をみることができよう。鎌倉末期、何度かの黒田庄悪党交名きようみようの中心は黒田荘下司げし大江氏一族だが、姻戚関係や烏帽子親えぼしおやのような擬制的血縁関係による他氏との結合も含まれ、族縁的関係の上に地縁的関係が重なっていた。北伊賀悪党の実態とはまさしくこのような服部はつとり党・柘植つげ党・河合党などが結合した国人一揆なのだ。一方で悪党、一方で御家人といった顔を持つ伊賀の領主たちの連合は、誇張はあるにせよ一国に独自の棟別銭・段銭たんせんをかけたと風聞がたつほどの自立性をもっていた。そして伊賀国では、この後も永享えいきよう期まで「名張なばり郡一揆」とでも呼べる組織の存在が指摘されており、最終的には伊賀惣国一揆へとつながっていく。
 またこの伊賀の地は隣国伊勢や大和との関係が伝統的に深く、さらには北伊賀は隣接する近江甲賀郡や南山城
やましろとつながり、南伊賀は大和宇陀うだ郡や伊勢とつながるというように、一国内にも地域性が存在した。これら伊賀を中心に伊勢・近江甲賀郡・南山城・大和山内・大和宇陀郡、紀伊や和泉の南部まで含めた地域は、戦国最末期まで「一揆地帯」ともいえる様相を呈していたのである。

車谷長吉

昭和20年7月− (1945− )

 赤目四十八瀧心中未遂
  二十四

 二人は環状線で鶴橋駅へ向った。赤目口へ行く電車は、近鉄鶴橋駅から出るのだった。八月二十日午後零時四十分・鶴橋発・名張なばり行き急行に飛び乗った。電車が駅を出ると、大阪のごたごたした町並みが目に写った。恐らくはこれが、この世で「最後に。」見る風景になるだろう。屋根が、壁が、看板が、樹木の葉のきらめきが、炎天下の白い道が、自動車が、人が、小学生が、夾竹桃きょうちくとうの花が、空地の夏草が、目に写るすべてのものが克明に見えた。
 が、別に何の感動もなかった。心が鈍い塊りのようだった。二十五か六に見える女と三十四歳の下駄履きの男が、ただ黙って、横長の座席に並んで坐っているだけだった。少なくとも、電車の中の人たちにはそう見えるはずだった。
 ──私たちはこれから死にに行くんです。心中しに行くんです。赤目四十八瀧へ行くんです。あの世へ逃げて行くんです。この電車の中の座席は、坐ろうと思えば、誰でも坐れる席です。だから、私たちも切符を買って、ここに坐ったのです。あなたたちも買って、そこに坐ったのです。けれども、この私たちの席は、私たちだけのものです。あなたたちは、どこへ行くのですか。貧乏な叔母さんの家ですか。会社の仕事で、人を騙しに行くのですか。サッカーの試合に負けに行くんですか。友達の家へ謝りに行くんですか。その席は、すぐに捨て去る席ですね。併し私たちはこの席に座ってしまったのです。も早、捨て去ることは出来ない席です。人には譲ることが出来ない席です。赤目四十八瀧へ行く席です。もう帰りの席はない席です。誰でも坐ることが出来る席ですが、併し私たちだけが坐った席なのです。黄金の席です。どうです、ここだけが輝いているでしょう。ここは死の席です。

黒岩重吾

大正13年2月25日− (1924− )

 天の川の太陽
  三十三

 大海人は全員の舎人を集めた。
 雄君が、隠郡家は川を渡れば半里の先にある旨を大海人に報告した。
 「よし、道に慣れた雄君は朕の一行を先導せよ、それから、友国、根麻呂、小林、五百瀬、書直智徳の五名は、大国と狩人達と共に隠駅家
うまやを焼き、馬を散らせ、馬を焼き殺しても構わぬ、そして村中を走り廻り、朕に従う者があれば、挙兵に参加するように告げよ、朕達は伊賀郡に向って進む、そち達は隠駅家を焼いた後、朕に合流するのじゃ、朕達の居る場所は、火を燃やして知らせる、初めての戦だと思え」
 大海人の命令に舎人達の血は沸き立った。根麻呂を除いた四人の舎人は、吉野と美濃間を何度も往復し、この辺りの地理に詳しかった。
 午後十時半、一行は宇陀川を越え隠郡家に向った。郡家は渡河地点の東方一粁弱の場所にあった。駅家は郡司が管轄しているので、郡家の傍にある。
 駅家の手前で大海人は、襲撃部隊を残し、全員に進行速度を早めるように命じた。
 寝静まった隠郡家の近くを、大海人の一行は馬の脚を早めて通り過ぎた。讃良や、輿に乗った息子達を担ぐ国栖
くず人達は、掛声を発しながら馬に負けずに走った。大海人の一行の足音が遠ざかったのを確認した舎人達は、駅家に向って突進した。
 外の異様な騒々しさに、何事が起きたのか、と戸を開ける村人も居た。
 馬小屋には十数頭の馬が眠っていたが、動物の習性で目覚め、嘶
いななく馬もあった。
 舎人達を始め狩人達は松脂
まつやにを塗った矢に火をつけ、馬小屋に向って射た。
 三十本の火矢が射込まれたのだ。
 あっという間に馬小屋は火に包まれた。

 参照 古典篇】日本書紀「巻第二十八 天渟中原瀛真人天皇 上

黒田俊雄

大正15年− (1926− )

 蒙古襲来
  悪党横行
   黒田荘の悪党

 その大和のすぐ東隣に伊賀いが国があり、ここではすでに弘安〔こうあん〕年間から悪党があばれまわっていた。この伊賀の悪党の発生地は同国名張なばり郡の東大寺領黒田くろだ荘であって、「黒田の悪党」ともいわれた。
 黒田荘の悪党の主体は下司大江
おおえ氏の一族である。かれらもまた在地領主として勢力を拡張しようとしたものの、東大寺の強力な支配に抑圧され、ために武家に属して御家人ごけにんになろうとしてもそれもさまたげられ、こじれにこじれて「本所対捍たいかん(反抗)」の行動をかさねたものである。これに御家人の服部はつとり一族や一部の荘民までも加担して、悪党の勢力は複雑にできあがっていった。
 黒田荘の悪党の歴史はながく、その間に人物や組織や行動に幾段階もの変化があった。そして他にくらべて関係史料が豊富なためもあって、早く中村直勝
なかむらなおかつ氏の研究(「荘民の生活」『荘園の研究』所収)や石母田正いしもだしよう氏の名著『中世的世界の形成』に生き生きと述べられ、近年はさらに詳細な研究もすすめられている。

 参照 【】石母田正「中世的世界の形成」


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)