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昭和30年− (1955− )
領主の一揆と中世後期社会 二 一揆の背景 2 地域的結合 さて、伊賀「悪党」たちの守護改替の訴訟は、筧雅博の推測のようにおそらく「伊賀国御家人」の名で行われた。ここにも地頭御家人たちの、荘園領主や幕府にまで対立する自立性をみることができよう。鎌倉末期、何度かの黒田庄悪党交名きようみようの中心は黒田荘下司げし大江氏一族だが、姻戚関係や烏帽子親えぼしおやのような擬制的血縁関係による他氏との結合も含まれ、族縁的関係の上に地縁的関係が重なっていた。北伊賀悪党の実態とはまさしくこのような服部はつとり党・柘植つげ党・河合党などが結合した国人一揆なのだ。一方で悪党、一方で御家人といった顔を持つ伊賀の領主たちの連合は、誇張はあるにせよ一国に独自の棟別銭・段銭たんせんをかけたと風聞がたつほどの自立性をもっていた。そして伊賀国では、この後も永享えいきよう期まで「名張なばり郡一揆」とでも呼べる組織の存在が指摘されており、最終的には伊賀惣国一揆へとつながっていく。 |
赤目四十八瀧心中未遂 二十四 二人は環状線で鶴橋駅へ向った。赤目口へ行く電車は、近鉄鶴橋駅から出るのだった。八月二十日午後零時四十分・鶴橋発・名張なばり行き急行に飛び乗った。電車が駅を出ると、大阪のごたごたした町並みが目に写った。恐らくはこれが、この世で「最後に。」見る風景になるだろう。屋根が、壁が、看板が、樹木の葉のきらめきが、炎天下の白い道が、自動車が、人が、小学生が、夾竹桃きょうちくとうの花が、空地の夏草が、目に写るすべてのものが克明に見えた。 |
- 初出 「文學界」平成8年(1996)11月号−9年10月号
- 底本 『赤目四十八瀧心中未遂』文春文庫、平成13年(2001)2月、文藝春秋/p.255−256
- 採録 2001年5月1日
大正13年2月25日− (1924− )
天の川の太陽 三十三 大海人は全員の舎人を集めた。 |
- 初出 「歴史と人物」昭和51年(1976)1月号−54年(1979)6月号
- 底本 『天の川の太陽(下)』中公文庫、昭和57年(1982)9月、中央公論社/p.250−251
- 採録 1999年10月21日
●参照 古典篇【に】日本書紀「巻第二十八 天渟中原瀛真人天皇 上」
大正15年− (1926− )
蒙古襲来 悪党横行 黒田荘の悪党 その大和のすぐ東隣に伊賀いが国があり、ここではすでに弘安〔こうあん〕年間から悪党があばれまわっていた。この伊賀の悪党の発生地は同国名張なばり郡の東大寺領黒田くろだ荘であって、「黒田の悪党」ともいわれた。 |
- 初出 日本の歴史8『蒙古襲来』発行年月不明、中央公論社
- 底本 日本の歴史8『蒙古襲来』中公文庫、昭和49年(1974)1月、中央公論社/p.392−393
- 採録 1999年10月21日
●参照 【い】石母田正「中世的世界の形成」