【い】

池内紀

昭和15年− (1940− )

 名張

 すこし行くと古風な通りにきた。軒に杉玉をつるしたのは造り酒屋だろう。板金細工の仕事場。「ゆ」とガラス戸に赤い字の浮いているのは銭湯の玉の湯。いかなるいわれがあるのか、「八十八才」と書いてペタリと手形を捺した紙が、べんがら格子の上に貼りついてある。ためしにわが掌をかさねてみると、ご当主よりひとまわり大きい。
 なおも足の向くままにたどっていった。自転車一台がやっとのような小路から抜け出る手前に「とまれ」の注意があるので足をとめたところ、右に小さな石の標識が立っている。なんの気なしにのぞきこんだ。
 「江戸川乱歩先生生誕地」
 一メートル足らずの細身の石に端正な文字が刻まれていた。

石井進

昭和6年− (1931− )

 中世史を考える──社会論・史料論・都市論
  1 中世社会論の地平
   五 『中世的世界』と石母田史学の形成
    2 『中世的世界の形成』

 さて『中世的世界の形成』の内容ですが、最初の問題は、何故それが黒田荘でなければならなかったのか、です。初版の序には「無数の庄園のなかで関係古文書のもっとも豊富な庄園の一つであり、かつ平安時代から室町時代までの長い時代を生きつづけた」から、と記されていますが、果たしてそれだけでしょうか。先生に質問した時には、言下に「それは黒田悪党ですよ」と言われました。「悪党には古代的世界の没落の表現として興味をもちました。黒田悪党といえば、当時の悪党研究の代表的事例でしたからね」とのことでした。たしかに本書の第四章、黒田悪党のみで全体の半ば近い頁数を占めているところからも、悪党に対する強い興味が推察されます。
 しかし本書の悪党評価がかなりきびしいものであることは、周知の通りであります。黒田悪党の度重なる蹉跌と敗北は、本書の印象的な部分であり、その原因は、悪党自身の倫理的頽廃と、荘民全体から切離された行動の孤立性にあり、と断定されます。先生によれば、腐敗堕落した古代的支配者の東大寺のもとで、長期間、外部から遮断されてきた小世界において、それはむしろ必然的な結果でありました。「統治者の道徳が、人民の自身の道徳として転化されないとすれば、人間の歴史はより単純に、より苦悩少なきものであったであろう。……庄民は道徳的頽廃をも一部分東大寺と分ち合わねばならなかった」との一節に、その立場は鮮明に表現されています。

参照 【】石母田正「中世的世界の形成」

石母田正

大正元年9月9日−昭和61年1月18日(1912−1986)

 中世的世界の形成
  第一章 藤原実遠
   第一節 所領の成立

 伊賀いが国名張なばり郡に平安時代の中葉、藤原実遠ふじわらさねとおというこの国に比肩する者のない大領主がいた。この長者については彼が遺した一通の財産目録の外に二、三の断片的な記録と農民が伝えた言伝えが知られているに過ぎないのであるが、この地方の歴史はこの長者の叙述から始めなければならない。それは彼以前のこの地方の歴史が確実にはほとんど知られていないという理由からばかりでなく、彼が平安時代という農村の歴史において変動の多かった時代を体現しているからである。藤原実遠の所領の全貌は一〇五六年(天喜四)、彼がその養子信良のぷよしに与えた譲状ゆずりじように示されているが、それに記されている所領目録によれば、彼が先祖相伝の所領として領掌せる土地は左の如きものであった。

参照 【】石井進「中世史を考える──社会論・史料論・都市論」 【】黒田俊雄「蒙古襲来」 古典篇】今昔物語集「巻第二十八 大蔵大夫藤原清廉怖猫語第三十一」

掲載1999年10月21日 最終更新2003年 9月 14日 (日)