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竹内理三

明治40年12月20日−平成9年3月2日(1907−1997)

 武士の登場
  農村の変貌
   名張郡の私営田領主たち

 九世紀も半ばをすぎたころ、伊賀いが国名張なばり郡に藤原倫滋ともしげというものがあった。かれはもとは名張郡とは隣り合わせの大和やまと国宇陀うだ郡の住人であった。たまたまその祖母にあたる浄村姉子きよむらのあねのこから、伊賀国名張郡中村なかむらなどにある畠一町余と在家ざいけ・所従しよじゆう・牛馬などとをゆずられた。この女性は伊賀国の大目だいさかん(国司の四番めの官)吉田理規よしだのまさのりの後家ごけであるから、この畠や在家も夫の遺産であろう。夫の吉田理規が伊賀国の下級国司であったから、吉田理規自身すでに私営田経営者であったわけである。浄村姉子が外孫の藤原倫滋にゆずった所領は夫の遺産の一部であろう。
 さて倫滋は、祖母から所領をゆずられたのを機会に宇陀郡から名張郡に移住した。おそらくかれは、それまで所領らしい所領を持っていなかったと判断される。

谷川健一

大正10年− (1921− )

 青銅の神の足跡
  第二部 古代社会の原像をもとめて
   第一章 垂仁帝の皇子たち
    垂仁帝の皇子・息速別の故地と銅鐸

 池速別皇子は『姓氏録』によると息速別いきはやわけ命と記される。すなわち「阿保朝臣」は「垂仁天皇皇子息速別命の後なり。息速別命幼弱の時、天皇、皇子のために、宮室を伊賀国阿保村に築き、もつて封邑となす。子孫因つてこれに家す。允恭天皇の御代、居地の名を以て、阿保君の姓を賜ふ」と説明されている。
 それはともかくとして、伊賀の阿保は、現在の上野市の青墓のあたりまでひろがっていたと考えられる。というのも、『続日本紀』の延暦三年(七八四)に「武蔵介従五位上建部朝臣人上等言ふ。臣等の始祖息速別皇子伊賀国阿保村に就きて居る焉。遠明日香朝廷(允恭)に逮
および、皇子四世の孫須珍都計すちつけ王に詔し地により阿保君の姓を賜ふ云々」という記事が見える。ここにいう須珍都計王の名は伊賀の周知すち郷および柘植つげのあたりから出たと『地名辞書』は言っている。とすれば今日の名賀郡青山町(阿保)から名張市(周知)をへて阿山郡伊賀町柘植(都計)のあたりまで阿保君がいたことが推定される。それが允恭帝の頃とされている。須珍は古代朝鮮の人名で須智、叱智、設智、朱智、臣智などとも記され、『魏志』「東夷伝」の中の「韓伝」に「各長帥あり。大なる者自らの名を臣智となす」とある。そこでこの須珍都計王なる者も渡来人であったと推定される。

  • 初出 「すばる」ほか
  • 底本 『青銅の神の足跡』昭和54年(1979)6月、集英社/p.209
  • 採録 2001年1月21日
田山花袋

明治4年12月13日−昭和5年5月13日(1871−1930)

 名張少女

 伊賀の国、名張の町、──このやうにやさしい娘の多い町は、何んなに平和に、何んなにすぐれた処でせうか。月の瀬の梅の渓、それに下らうとする新道からは、名張町に通ずる間道が、渓流を縫つて細く細く屈曲して、言ひ知らず人の思を誘ふと、曾て夫が私に語つて呉れましたが、その渓、その路、一生の中には是非一度参つて、名張少女の美しい故郷を見たいと思つて居ります。

 参照 【】江戸川乱歩「二銭銅貨」


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)