【と】

戸井田道三

明治42年−昭和63年(1909−1988)

 観阿弥と世阿弥
  2 座と村
   1 座組織の変化のもつ意味
    土着の芸から都市の芸へ

 観阿弥が伊賀の小波多で座をたてたということが、どういう実質的な内容をもっていたかはわかっていない。しかし、その後大和の結崎に移っていること、観阿弥以前が山田猿楽であったことから考えると、土地に定着して農耕をもっぱらとするものでなかったことは推察してもいいであろう。しかし村の祭りと関連して猿楽を上演することが仕事であったとすれば、村落の生活とつながりをもたないわけにはいかなかったはずである。その意味で、観阿弥の時代はまだ村落の生活と密着していたのに反して、世阿弥の時代には都市的になり、貴族との関連で能役者としての地位を明確にしてきたのだ。

 参照 古典篇】世子六十以後申楽談儀

戸塚文子

大正元年−平成9年11月7日(1912−1997)

 名張は秋の漂う町

 名張なばりは一種不思議な町である。いつ行っても、どこかに秋が漂っているような感じがする。
 それは、赤目四十八滝が近くて、紅葉の季節が美しいとか、町をめぐる山山は、松茸狩できこえている、といった実際的な連想からではない。この町のたたずまいのなかには、そう感じさせる何かがあるのである。
 あるいはそれは、名張の町をまるで抱くように、迂回して流れる川すじの、清明さのためかもしれない。また、ひょっとしたら、二千年の昔このかた、伊賀盆地のはずれ、山一重向こうに奈良の都をひかえた地に、ある時は栄え、ある時は衰えして来た長い間の歴史が、いつとなく、その陰を落しているせいなのかもしれない。
 古事記にも日本書紀にも出てくる。そして万葉にも歌われている古い古い町。ひと度は東国への道すじで、重要な役割も持ち、戦乱の中もくぐり、やがて城下町として落ついた。
 今では、とりたててこれという際立った建物もない静かな、しかし明るい家なみのどこやらに、春が来ても、夏でも冬でも、どこかに秋がひそんでいるような、そんな、小さいけれど、おだやかに美しい「人間の土地」に、なっている。

  • 初出 不明
  • 底本 『ひとりだけの旅』青春新書、昭和37年(1962)3月、青春出版社/p.116−117
  • 採録 2001年3月7日

掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)