【よ】

吉川英治

明治25年8月11日−昭和37年9月7日(1892−1962)

 私本太平記
  世の辻の帖
   木霊

 京の吉田山には、命松丸ひとりを留守において、兼好けんこうが、伊賀を歩いていたのは四月半ば頃で、その間に彼は、
 「ちょっとお門
かどを通りましたから」
 と、名張
なばり街道に沿う小馬田おまたの服部家はつとりけの門に姿を見せている。
 だが、うさんな旅法師とでも見られたのであろう。門の小者は、奥へ取次いでもくれなかったし、それに不平顔もせぬ兼好もまた、
 「いや、べつだんな用事でもござりませぬ。お夫婦
ふたりとも、ご息災とさえ伺えば、それで祝着しゆうちやく。ただよろしくおつたえを」
 とのみ、飄
ひようとして、すぐ立ち去ってしまったという。
 それと、あとで聞いて、
 「なぜ、ひと言、わらわにまで取次いではくれなかったのですか」
 と、卯木
うつぎが、家来どもの疎漏そろうを悔やむと、良人の服部治郎左衛門元成も、
 「それは、惜しかったの」
 と、共に喞
かこッて、なろうものなら呼び返したくも思ったが、すでにその人は、西か東か行く先も知れないというし、かつは邸内にも、ほかに容易ならぬ“滞在客”を抱えていたので、
 「まあ。またいつか、お目にかかって、おわびをする時もあろうよ」
 と、夫妻は忘れることにして過ぎた。
 ところで、小馬田は、伊賀山中の一庄で、服部家はこの地の小領主なのだった。

 参照 古典篇】世子六十以後申楽談儀

米山俊直

昭和5年− (1930− )

 小盆地宇宙と日本文化
  7 日本の小盆地宇宙
   日本にはどれくらい盆地があるか

 丹波丹後の小盆地群につづいて、私はできれば中国山地の津山、三次、津和野についても書き、また近江、伊賀、名張、などにも触れ、そして京都もまた盆地(山城盆地)である、というところまで、具体的な例をおさえておきたかったのだが、いまはその余裕がない。いちおうこれまであげた数個の事例にとどめておこう。そして、これまで紹介してきた実例をもとにして、日本の小盆地全体について考えてみることにしたい。


掲載 1999年10月21日  最終更新 2002年 9月 20日 (金)