「伊乱記」の記載

9月3日 安土城で伊賀攻めの軍略会議、伊賀攻略について、諸将の軍勢配置を決定
  27日から29日にかけて伊賀に侵入
・柘植口 丹羽長秀・滝川一益 1万2千
・玉滝口 蒲生氏郷・脇坂安治 7千余
・多羅尾口 堀秀政 3千余
・伊勢地口(青山峠)本隊北畠信雄 1万余
・笠間口(薦生) 筒井順慶・定次 3千余
・長谷口 浅野長政 7千余
合計 4万2千余
・浸入後は伊賀軍は各所で敗戦、壊滅の状態
10月3日 伊賀軍、多勢に無勢で敗走し、柏原城に集結し籠城 ・集結した軍勢 士 438人 雑兵1200余 合計1600余人
25日 「敵将明にして謀に陥らず、(略)いで一夜打ちして屍を戦場の叢中にさらし、佳名を後昆に輝かすべしとて」と覚悟し翌26目をその日と決めた。 その時「南京(南都)の大倉五郎次(猿楽太夫)柏原に来たり」、双方の和睦を説得、城兵はこれに従い降参して麾下に従うこととなった
28日 城中総名代として、滝野十郎吉攻が嫡男亀之助(13才)質として連れ、北出村の信雄こ伺侯し、「後証の一簡を捧げる」許されてあと、黄金五枚、黒馬一疋を頂戴 未の刻城を開いて退出する
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