田倉川支流 東高倉谷
高倉の古い道探索行 '04/10/10
 10月の連休は、私事があって1日しか山に入れない。困った時のK仙人頼みとばかり、往時の高倉越えの起点、高倉谷へ案内を請うが快く応じてもらった。「わかってる、雪のない時に高倉峠への登り口見たいんやろ」とすっかり心を見透されている。

  冬は瀬戸からえんえんシール歩行を余儀無くさせられる高倉林道も、クルマなら何の苦労もなく通り過ぎ、旧高倉集落跡の奥へ着く。林道は東西高倉谷を分ける尾根のコルまで鋪装され、そこからは急に草深くなって西高倉谷側の山腹へ続いている。東高倉谷側の広場に置車。旧高倉集落は、かって近江から移り住んだ越前木地師の集落で、福井県文書館には、本村である下流の瀬戸村と枝村、高倉とのやりとりが数多くの瀬戸、伊藤家古文書として残されている。その文書の大部分は、土地の利用と境界についての争議を中心としたもので、当時の農民と杣人との軋轢をなまなましく伝えて興味深いものがある。昔の人は、こうして自然という限られた資源の利用と保全の努力を積み重ねていたのだ。

高倉谷上流概念図
杣仕事の痕跡漂う下の二股
自然になじむ堰堤ならイヤじゃない
 この広場で、西高倉の方へ入る常連のH女史、N、Y両氏の松阪隊と別れ、K仙人と私は東高倉谷の草ぼうぼうの右岸林道跡へ踏み込む。草も草だが、難儀なのはクモの巣。枝をヌンチャクの様に振り回さないと、ベットリ顔はクモの巣だらけになってしまう。2つコンクリートの古い堰堤を見過ごすと、道跡は左岸へ渡り、いつしか消えてしまう。そのあたりは杉の木立があり、なんとなくふみ跡らしきものが右岸山腹へ続いている。これが、「秘境・奥美濃の山旅」に記されたS.40年代には使えた峠道の取付きのようだ。(概念図下の?マーク部分)しかし、高倉林道の通じた今となっては利用価値もなく、日当たりの良い上部の尾根は薮がものすごいことだろう。高倉の名所を確認して、私は何故か安堵する。

 さて、道の確認が済んだところで注意を谷に振り向けることにする。すぐに谷は1:1の出合になり、ここは国境稜線に続く左をとる。あたりは昔よく利用された形跡が感じられ、昔作られた石積みの堰堤もある。この風格を感じさせる堰堤は、コンクリート製とちがって、自然とよく馴染んでおり、全く壊れていないのは何故なのだろうか?構築に人手がかかるとしても、今後このような技術が見直されてもいいのではないか。「コンクリートのはどうにもならんが、この堰堤は登れるのがいい」とK仙人もご機嫌だ。(高倉周辺にはこの他にもいくつか石積みの堰堤が見られる)
 堰堤を除くと平凡な谷を行くと、再び二又になる。あたりは植林帯になっているが、全山植林というわけではなく、広葉樹の二次林とうまく調和している。ここは傾斜を強めた右又をとる。谷は、この7月の豪雨で新しい岩屑と倒木が堆積して歩き難いが、その流れの中に青いビニールシートを見る。どこから飛ばされてきたのだろう。高倉林道造成の時の物が風で飛ばされて来たのだろうか?

苦労させられる草付の高捲き
5m滝は右手草付を四つん這い
コル近くから西高倉側の谷

 岩が階段状に堆積した谷を行くと、あたりは草付き斜面に囲まれた明るいゴルジュ状となる。小滝が行く手を阻んで、右手草付のなかに活路を探すが、下り口が見つからずどんどん樹林帯まで追い上げられる。頼り無い草を掴んで捲いて行くが、滝状のルンゼに阻まれて、立ち木を支点に懸垂して谷へ戻るしかなくなった。パッとした谷ではないが、かといって簡単には行かないことを思い知らされる。この捲き道を戻るのはイヤだね、帰りは右岸の尾根へ逃げよう、と登れそうな斜面を探しながら谷を行くが、しばらく右岸はどうにもならない崩壊土壁が続く。そのうち、谷の岩が多くなったと思ったら、前方に流れに不似合いな立派な斜滝5mが現れる。えらく堅そうな岩の滝で、支点が取れそうにない。ここからは下れないので、右手の草付を登るしかないが、落ちると岩の上なので四つん這いになるしかない。技術も何もあったものか、足が滑り出す前に次の足場を探すと言う、自転車操業の登りが情けない。滝の上は依然傾斜はあるが、流れはやや穏やかになり、右岸の尾根へも逃げやすくなる。このまま谷を詰めても、帰りの尾根道が歩けるか、何の保証もないので、大休止のあと、尾根へ取付く。岩壁の下を左手へ逃げ、シャクナゲの密薮を水平に行くと、広い稜線に出る。そこにはしっかりした仕事道の跡があった。道幅が広いところから推測すると、単なる植林道ではなく、どうやら炭焼きの運搬路だったようだ。高倉からこんなところまで炭焼きに来ていたんだ。
 しばらく仕事道を拾いながら下ると、尾根は傾斜が増し、道は先程辿った谷へ下って行く。もう一つ目の草付きゴルジュは過ぎたかな?と思ったのは大間違いで、丁度懸垂で降り立ったすぐ上に出てしまった。ここから下の昔の道は谷沿いに付けられていたようだが、それはすでに崩壊していて道跡を見つけることはできない。ふたたび右岸を捲き、上の二又へ出る。ここからは問題になる所もなく、置車場所へ戻る。

 明日の用事に間に合うから泊まって帰れ、と言ってくれるK仙人の言葉に甘え、クルマからシュラフを引っ張りだし、小雨の降り出した道を皆の集まる西高倉谷のベースへ、酒盛りに向かう。

 高倉谷周辺の谷は、廃村と古い峠道に興味がある者は別として、沢登りとしては登り下りとも苦労はやたら多くして得るものは少ないところ、というのが正直な感想だった。そんなところにイヤな顔もせずつき合ってくれたK仙人と、一宿一飯、酒多量を飛び入り居候に恵んでくれた仲間達に感謝。('04.10.10歩く)