ツェルトザックを見直せ
--'89秋の立山稜線集団遭難に寄せて--

  ここにご紹介するのは、佐伯邦夫著「山とスキー大全」の一節だ。
  
 1989年の秋の連休は、奥鐘西壁を登っていた。その日は冷たい雨が降り始め、壁(中央ルンゼ)
の途中から撤退した。これじゃあ上の稜線は雪だろうな、立山に登った連中は危ないな、と言い
合ったものだ。その予感は、はからずもあたっていた。ひと昔前の死者にむち打つ気はないけれど、
「遭難する中高年」という評価が定まったという意味では、ひとつの時代の始まりを告げる事件だった。

遭難じたいの分析は、すでに新聞などで何度となく取り上げられている。しかし佐伯氏の文章は
凡百の評論を越えたインパクトを持つものだ。そして今なお古びていない。
氏の了解を得て、ここに転載させていただく。
(快く許可いただいた作者に対し、心から感謝します。)

   ツェルトザックを見直せ

 十月連休の北ア立山での集団遭難はショッキングなニュースとして列島を駆けめぐつた。八日の午前九時ごろから雪が降りはじめ、昼ごろから吹雪になったという。で、一夜あけた九日の朝は快晴。そのときすでにもう、冷凍のマグロを転がしたようにみんな骸と化していたというからむごい。言葉もないくらいのものだ。

 いろいろ言われた。あれこれの批判や指摘があって、いずれもそれなりに的の近くを矢が飛び交ったのだが、ぼくをして言わしむれば、”死因=ツェルトザック”ということになる。これに尽きると思う。

 いささかもどかしいのだが、順序だてて説明しよう。小型・軽量の簡易テントを日本ではツェルトザック、または略してツェルトと呼んでいる。テントからポール、グラウンドシートなど一切の付属を除いた、本体布地だけ、といったようなもので、山へ行く者は不時に備えてこれをザツクの底にしのばせるのがジョーシキになっていた。
 そして、目的の山小屋などに到着できず、途中で行き暮れたりしたようなときに、これをひっかぶって一夜を過ごした。ああ、まさしく今回の事故はそうした状況にあって、そしてかんじんのそのツエルトを欠いたのだ---。

 それさえあれば死なずにすんだ。一人残らず生きてかえれた。そしてそれが無くてみんな死んだ。何という無残な明快さだ。

 引き返す勇気がどうの、冬山の装備がどうのと、いろいろ言われた。だが引き返す勇気があろうとあるまいと、ツェルトだけは要ったのだ。だって引き返す勇気があって、引き返しても、その途中でへたばって行き暮れる、ということもあるだろう。
 八人中五人までが布製のブーツなどという指摘もあったが、ブーツが布製だろうと皮製だろうと、ツェルトだけは要った。高齢者が多いということについてもことさら鋭い指摘がなされたが、高齢者であろうとヤングであろうと赤児であろうと、とにもかくにもツェルトザックは必要だった。

 吹雪の3000メートルの稜線でそのまま一夜を過ごすなんて、そりやもう地獄というものだ。だがツェルト一枚がその外界を天国の内界に変えてくれるのだ。
 そんな重要なことをなんでもっと早くに言ってくれなかったのだ、ということになりそうだが ---。そこだよな、モンダイは---。
 ツェルトは必ずしも全員に必要ではなく、何人かで一つあればよい。つまり共同装備に属する。横になって寝れば三人ほど、座ってひっかぶっているだけなら五、六人は入れる。
 山岳会などパーティ意識が比較的強い場合は、共同装備はどうするということがはっきりと議論される。だが、ただの寄り合い世帯というような場合は、どうもこの辺があやふやになってしまう。また、山岳会なら、共同装備に類するものはちゃんと買いととのえられているが、個人の場合はツェルトなどまずないのだ。

 山岳会というものがすたれ、個人で山へ出かけるように時代は変わってきた。で、ツェルトはというと、山岳会と一緒に過去におき忘れられているのではないか。
ツェルトを見直せ」と、とり急ぎ叫ばなければならない。ツェルトは今や必携の個人装備である。幸い素材の進歩で、小型・軽量のツェルトがいっそう小型で軽量になった。たとえば手元のモンベル(ブランド名)のウルトラライト(商品名)は450グラム。容積・重さもカンビール一本というところである。

 これのあるなしが生死を分かつ。だいたいが、ツェルトも持たずに山へ行って生きて帰ろうなんて厚かましい。この際個人で全員買おう。

 ぼくは立山で死んだ八人のしかばねの上に立って訴える。

  (初出:1989年「岳人」、「佐伯邦夫の山とスキー大全」p.144-146)

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