梅干の由来

 うめえ梅干しが育ったのは江戸は元禄以後のこと  

 梅は中国語でメイと読む。完熟前の梅の実を薫煙して乾かしたものを烏梅(ウーメイ)という。すでに奈良時代にはこの烏梅の作り方が入っていたが、烏梅は食用でなく、染め物用の媒染剤として利用され、現在では奈良県の月ヶ瀬で作られている。このウーメイがなまってウメになったのではないか、という学者がいる。

 戦場の必需品  

 平安の頃にはこの烏梅に対し、梅の実を塩水に漬けては日干しにすること、十日間繰り返して作る白干しの梅があった。梅干しの表面に塩が白く吹く程度のものであった。  鎌倉時代は僧家の副食品であったが、武家の饗宴の席にのぼるようになる。いわゆる武士の出陣、帰陣の際の酒宴の肴に用いたのである。  戦国のころは兵糧として胡椒とともに武士も雑兵(戦場にかりだされた農民)も携帯品として必需のものであった。胡椒は戦いで疲れたときの気付け薬として用いた。梅干しは副食として携帯したのではない。たとえ戦場で飯を食べる場合があっても決して口にしてはならなかった。「梅は見てさえ酢いと申す」の言葉通り、単に眺めるだけであった。口腔内に沸き出てくる唾液で喉を潤し、飯を食ったのである。  口にするのは戦いに励み、息せききって仕方なく泥水を飲んだとき、その水で食傷しないようにということで食べるのであった。いざというときの用心薬であったのだ。その理由はご存じの方も多いと思うが、梅干しはコレラやチフス菌に対する抗菌作用が強いからである。現在も水の悪い国々へ旅行するときには欠かせない携帯食料になっている。  しかし、昔ながらに塩だけで漬けたものでないとその効果は薄く、塩分と酸味を抜き、うまくした梅干しではなんの効用もない。

 梅一升に塩二合  

日本では鎌倉時代には紅ジソで染めていたという方がいるが、私はその記録は見ていない。私の調べたところでは、京は金閣寺の記録「隔冥記」が最も早いように思う。江戸の寛文元年(1661)旧暦七月七日の記事に「梅干し一曲物被恵之也。紅色之梅干し珍敷也」とある。紅色の梅というからには紅ジソで染めている。  シソは縄文のころからあるが、紅というよりは紫色の濃い紫蘇、なかでも葉がちぢかみ、その色の濃いちりめん紅ジソが梅干しの着色に用いられるのは江戸時代に入ってからと考える方がよろしかろう。  梅干しが副食品として民間でも漬けられるようになるのは江戸は元禄以降と考えてよい。健康食品というより、農家の副収入を得るため、梅の栽培が、実践的農学者である宮崎安貞によって広く提唱されたからである。  当時、梅の実は豊後産は優れもので、肥前のものがこれに次いだ。豊後産の梅は実が極めて大きく、円く肥え、生のうちは青紅だが、熟せば黄紅になり、その味は甘酢、香美であると、当時の食品辞典「本朝食鑑」(人見必大著)に記されている。このころの梅干しの作り方は、現在とほとんど変わっていない。ただ、宮崎安貞は、梅一升に塩三合は多いから、二合でよいといっている。いまなら、梅の目方の18%がころあい。塩梅(あんばい)がよいのは23%。江戸も中頃を過ぎると、梅干しは漬物屋に並ぶし、「梅ィほしゥや梅ィ干し」と江戸の町々を売り歩く行商人も出てくる。

「梅びしほ」・「甘露梅」などなど

 そして、梅干しを利用した産物も出回る。いまも刺身やサラダに使ってうまいのは「煎り酒」。古酒に梅干しと削り鰹節を加えて、とろ火で煮詰めてこしたもの。そして、和え物に使ってうまいのは、「梅カ香でんぷ」。梅干しの果肉を裏ごしして、削り鰹節を混ぜたもの。ときには、削った氷砂糖も混ぜることもあった。「茶漬け屋の膳に紅ほど梅びしほ」。
 また、青梅をシソの葉で包んで砂糖に漬ける「甘露梅」があった。この甘露梅を吉原で作り、ひいき筋に配った。「花の廓から来た粋な甘露梅」。そして、その家の女房は夫の内緒を焼くのであった。「やきながら女房の食べる甘露梅」この甘露梅をさらに高級品に仕立てたのが「とねり漬け」。核を取り除いた青梅に粒胡椒を詰め、シソの葉で包み、砂糖と焼酎で漬ける。あるいは、梅肉に砂糖を少し混ぜ、それをシソの葉に塗り、アサの実や梅の仁(核の中にある)を入れて巻く砂糖漬けもあった。

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