旅の手帖 連載「海からのメッセージ」(第6回)
   96年9月号)  


砂漠の果ての楽園
中村 元

 チリという国は南北にひどく細長い国だ。端から端までおよそ4千キロ、南の果てのフェゴ島は南極の手前にある寒帯だし、北の果てのアタカマ砂漠は南回帰線より北にある。
 夏というのに防寒具が必要だったマゼラン海峡を後にして、私は南回帰線の直下にある砂漠の街アントファガスタに向かった。
 アシカの仲間オタリアの世界最大と言われる繁殖地が、この砂漠の果ての海岸にあると聞いてやってきたのだ。例によって案内役はチリの動物学者アントニオである。

 アタカマ砂漠は真っ赤な砂の砂漠だ。荒涼たる景観といえばこれほど荒涼たる光景もないだろう。アントファガスタの街も心なしかすすけている。
 驚いたのは、ホテルの部屋から街を見下ろしたときだった。ダウンタウンの家並みの少し余計にすすけたあたり、ほとんどの家屋に屋根がついていないのだ。屋根があるべきところには、黒い遮光ネットだけが蚊帳を吊したように張られている壁だけの家並み。
 アントニオが言うには、このあたりでは雨は3年に一度くらいしか降らないから屋根は必要ないのだそうだが、そうは言っても屋根がないのはやっぱり不便だと思うのである。

 そこで彼の解説を信じるとすれば、寒い街に住んでいる人たちは日々を一生懸命に生きなければ凍えて死んでしまう。だから南ではまじめな働き者だけが住んでいて、街は豊かで美しい。そして逆に、温暖な北の地域では、海の幸は豊富だし、砂漠と言っても地下水も豊富、食うに困らず寝るに困らないからスラム街ができやすいとのことである。
 そう言われて、世界最南端の市プンタアレナスでは市街地のいたるところに美しく手入れされた花壇や公園があって、市街地は活気にあふれていたことを思い出した。
 人もまた動物と同じように、厳しい環境の下ではそれに適応した進化を成しえた者だけが、生き残るものなのかもしれない。

 砂漠を横切って海に出るつもりのアントニオが調達してきたのは、軍の関係機関から借り受けてきたジープと、八百屋から借りてきたほとんどシャーシと荷台だけになったダットサンだった。
 私はまた嫌な予感がしていた。今までのアントニオの提案で危険な思いをしなかったことがない…。

 道路から外れ、真っ赤な砂漠に車を乗り入れてからきっちり30分後から、その予感は現実のものとなった。
 ダットサンが砂だまりにタイヤを取られて自力で抜け出せなくなったのを最初に、岩山の道を間違えて登っていって、引き返せなくなったり、駆動輪が宙に浮いて空回りしたり、下り道をずるずると滑り落ちていったり、まるで映画のような冗談が、つぎつぎとダットサンを襲ったのだった。
 砂漠の端にある岩の山脈を越えて、海岸に出る道を何度も間違えては、ダットサンを窮地に追い込むアントニオに、「今日はあきらめよう」と20回ばかり繰り返した頃、私たちはやっと迷路のような道を抜けることができた。

 そのとたん、ちらっと鼻をかすめたのはなつかしい海の匂いと、繁殖期特有の強烈な動物臭だった。居る!確かに居る。この距離からこの匂いだとすれば、想像もできない数のオタリアが居るはずだ。 私はそれまでの危険はすっかり忘れることにした。
 あせる気持ちを抑えておよそ30分、突然目の前から大地が消えた。垂直に切り立った断崖絶壁の向こうには太平洋。そして眼下の大地と海がせめぎ合うわずかな隙間に、オタリアの群・群・群!見渡すかぎりオタリアだ。

 半日間の不毛の地の旅が嘘のように、その細長く続く海岸線はオタリアの楽園として、命に満ちあふれていた。
 ある意味では、進化の過程で豊かな地上での世界から追い出された海獣たちは、困難な海への進出を果たし、立派に適応してこんなところに誰にも邪魔をされない巨大な楽園を築いているのだ。
 私の目にその楽園は、厳しいマゼラン海峡に人々が築き上げた、美しいプンタアレナスの街並みに重なって映った。

■オタリアと会えるところ:オタリアは各地の水族館で比較的普通に会うことのできるアシカの仲間だ。ショーに使われることも多いので、アシカショーの行われている水族館に行けばいい。もちろん鳥羽水族館にも1ファミリーが居る。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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