旅の手帖 連載「海からのメッセージ」(第10回)
   97年1月号)  


ピラニアのいる川
中村 元

 アマゾンに来て2日目、私はすでにコビトイルカとピンクイルカ(アマゾンカワイルカ)に会えるという幸運に恵まれている。よほど日頃の行いがよかったのか、長大なアマゾン河のすべての幸運が私一人に集まっているらしい、この船に美しいセニョリータが乗船していたら、きっと一目で惚れてくれるに違いないのだ。
 とまあそんな勝手なことを想像しながら、さっきまでイルカたちの鮮やかなピンク色が踊っていた川面を見ていたら、突然この河で泳いでみたくなった。しかし時すでに夕刻、とりあえずは釣りをすることにする。

 島の中に流れる川に船を泊め、小さなボートを出してもらい釣り糸を垂れた。重りに針を付けただけの簡単な仕掛け、エサは残飯だ。その仕掛けを川に投げ込むと待つこともなく踊るような引きがある。もう釣れる釣れる、投げ込めば釣れる、入れれば釣れる、次ら次へと釣れるのだ。ただしピラニアばっかり…。

 ピラニアは釣れても嬉しくない魚だ。味はたいしたことないし、皮は固いし骨は太くて多いから食べられたものじゃない。そのうえ針から外すときには、暴れて指を食いちぎろうとするし…。
 きっとアマゾンの上手な釣り師とは、ピラニアからエサを守ることのできる釣り師のことなのだと思う。どうやっているのか分からないが、乗客はついにピラニアしか釣れなかったのに、船の乗組員はピラニアの他にも、ナマズだとかいかにも美味しそうな魚を釣り上げている。
 ただこれだけははっきりと言えるだろう、アマゾンには、想像していたよりはるかにたくさんのピラニアが居る。少なくともエサを投げ込めば無数のピラニアが集まってくるほどに…。

 しかし翌日またネグロ河の川面を見ていたら、この河で泳ぎたいという気持ちがまたもやムクムクと持ち上がってきた。もう我慢できない。私は船を止めてもらい服を脱ぐ、一緒にいた日本人ガイドが、ピラニアがいるからやめろと騒いでいるけどかまわない。
 だって私は水族館の人なのだ、ピラニアは臆病な魚だと知っている。アマゾンをよく知っているヌーノ館長も船員もニコニコ笑っているんだから、それほど危険なわけでもないだろう。それに昨日のあんなに釣れた釣りで、実は私だけがピラニアさえも釣れなかったのだ。きっと私はピラニアから嫌われているのに違いない。
 だいたい考えてみればいい、あんなにたくさんいたピラニアが、動く者をすべて襲っていたら、アマゾン河がいくら広くてもアマゾン中ピラニアしかいなくなってしまう。

 私は頭の中でターザンを想像していた。密林の王者ターザンが、ジャングルの正義を守るために河に飛び込んでいくのだ。「あ〜あ、あ〜!」心の中で叫びながら黒い川面に身を踊らせた。さて和製ターザンの運命やいかに?
 はたして、河の中で自称ターザンの私を待ち受けていたのは、5メートルの大ワニでも、無数のピラニア軍団でも、もちろん悪の密漁団の水中基地でもなかった。ただ目だけが痛かった。

 「痛たたた!」私は水中で思わずそう叫んで目を押さえ、代わりに水をしこたま飲んだ。水が海の潮よりもはるかに目を刺激するのだ。痛みに馴れてきたところで目から手を離すと、我が手は真っ赤に染まり、30センチも離すともう霞んで見えなくなる。「えっ!目が血だらけに?」危うくパニックになりそうだったが、よく見てみれば、水の中が赤い色した細かい粒子で満たされていただけだった。

 水面に顔を上げて水中を見れば、やっぱり河は黒いのだが、水面下の体は赤く見えている。密林の王者ターザンの大発見だ!ネグロ河は水が黒いのではなく、赤い粒子に満たされていて、そいつが重なって光を反射して真っ黒に輝いていたのだ。
大地を削って流れる河、アマゾン河の正体を自分の目で確かめた喜びは、ピラニアの恐怖が蠢く河に身を踊らせる無謀に十分見合うものだった。私はしばし真っ赤な河に体をまかせて漂っていた。

■ピラニアに会える場所:水族館なら大抵いる。ほとんどの水族館の水槽の中に骨の模型が沈めてあったりするのがちょっと笑えるかも…。鳥羽水族館のピラニア水槽もご多分にもれず、獣のものらしき白骨がレイアウトされている。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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