旅の手帖 連載「海からのメッセージ」(第12回)
   97年3月号)  


哀れな人魚との出会い
中村 元

  アマゾン河に3日しか居なかった私にとって、2種類の川イルカと会えたのは、まさに幸運としかいえない出来事だったのだが、実はアマゾンにはもう1種類の水生哺乳動物が棲んでいる。欲深い私はぜひ彼女たちにも会いたかった。
わざわざここで彼女と呼ぶには理由がある、彼女とは人魚伝説のモデルとなったジュゴンに近縁のアマゾンマナティーのことなのだ。ジュゴンがアンデルセンの童話に出てくるようなブロンドの髪をなびかせた白人系人魚であるとしたら、つやつやとした黒っぽい体色のアマゾンマナティーは、健康的な褐色の肌の人魚である。

 とはいうものの、ジュゴンやマナティーを見て人魚を想像できるのは、私たち水族館員のような、よほどのロマンチストか想像力の逞しい人、あるいは大航海時代の船乗りのように、長期間会えない女体に狂おしいほど妄想をふくらませた男たちくらいだろうと思う。

 分厚い唇を官能的な唇、あまりにも小さな目をつぶらな目、ぺちゃんこ鼻を愛嬌のある鼻、そしてまるまると太った胴体を肉感的なボディーと曲解すれば、まあかなり無理して許せなくもないが、それが全てそろったとしたら、そいつはどう考えても王子様に恋をした人魚姫のイメージにはほど遠い。
 それなのにだ!、人魚と言えばすべて長い髪と魅力的なおっぱいがついているのはどうしてなんだ?
 それはきっと、ジュゴンやマナティーに限らず、イルカやアシカの仲間など海でくらす哺乳動物の全てのオスたちが、ペニスを体内にしまい込んでいるからに違いない。

 水は空気よりもはるかに粘性が強いから、体の余分な突起物は泳ぐときの抵抗になってしまう、そのため全ての水生哺乳類のペニスは、いざ鎌倉というときにだけスルスルと出てくる仕組みになっている(なんと便利なことか!)。そして普段ペニスを納めているところは、それらしき割れ目になっていて、これがまたいかにも女性なのだ。

 あくまでも私の想像なのだけど、女性への妄想を頭と下半身一杯にしたかつての船乗りたちは、出会ったジュゴンやイルカの体が女性らしい曲線である上に、例外なくペニスを持っていなかったので、海の民は女ばかりなのだと信じ込んだのだと思う。きっと、思わず抱きついちゃた奴もいるのに違いない…。
(尚、昔の映画にアマゾンの半魚人というのが出てきて、それは男だったような気もするが、半魚人のほうは頭が魚で胴体がヒトだから、人魚とは根本的に違う。)

 ひどく、話しが脱線してしまったが、その褐色の人魚アマゾンマナティーは、今はその存在自体が伝説化するほどに滅多に見ることのできない動物となってしまっている。
 かつてアマゾンのどこに行っても見られるほどいたのだが、エリソン号のクルーでさえも見たことがある者は少なかった。その原因はもちろん、ヒトの文明との出会いだ。

かつてアマゾンマナティーは日常的にアマゾンの先住民に捕らえられ、それでもけっして減ることなく繁栄していた。先住民とマナティーは、捕食者と獲物の関係として、ジャングルの中で共存していたのだ。ところがヨーロッパ人が南アメリカ大陸を発見し、マナティーの存在を知ったとたん、マナティーは先住民にとって、単なる獲物から商業的な漁獲品へと昇格してしまったのだ。
 昇格したというのは、金を得るヒトの価値観の話しであり、マナティーにとっては迷惑な話しである。おそらく発見されてから3百年ほどの間に、何百万頭ものアマゾンマナティーが食用肉や皮製品となってヨーロッパ文明の胃袋に消えていったのだ。

 人魚姫がそうだったように、ヒトと動物との出会いは、人類にはたいてい喜ばしく、動物にとっては必ず不幸の始まりとなる。ヒトを含む全ての動物が、他の生命を奪ってしか生きられないのは避けようもない事実だが、ヒトの文明とは、他の生物の未来をも奪ってしか発展できないのだ。
私がブラジルでやっと会えたアマゾンマナティーは、そんな文明の造った公園の小さなプールで、王子様が来るのをまだ信じているかのように、静かに呼吸だけをしていた。

■アマゾンマナティーに会えるところ:よみうりランドと熱川ワニ園に1頭づつ飼われている。鳥羽水族館には昨年、近縁種のアフリカマナティーがペアでやってきて、こちらは世界唯一の公開となっている。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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