RUMIN’s ESSAY
文・写真共に禁転載


     旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第23回)
      98年2月号(1/15発売)











 
モンテレーAQの水槽。
とても気に入ってしまった。

モンテレー湾のラッコ
                    中村 元 
 始めて渡米したのは、今から十何年か前のことだった。今の超水族館を企画するに当たって、水族館先進国を視察してくるという仕事を命じられたためだ。

 その頃の私はまだ20代後半、まだ若かったし、何よりも新しい時代の水族館を企画できるという夢のある仕事に大張り切りで、わずか二週間の間に二十カ所もの施設を巡るという、すさまじく気合いの入ったスケジュールを握りしめての渡米だった。
 出足は順調、時差ボケもプアな英語力も何のその、スケジュール通り数カ所の水族館を視察して、ノートにはすでにさまざまな個性的な水槽のスケッチや特色、それになんと持参したメジャーで測った寸法まで、書き込まれていた。

 中でも西海岸にある、モンテレーの水族館は素晴らしかった。愛嬌のあるラッコは自然の岩を模した水槽ではしゃいでいるし、桟橋の橋桁をそのまま入れた水槽や、波の打ち寄せる海岸の水槽など、工夫を凝らした水槽ばかり。そのうえ天井には、躍動感溢れる原寸大のクジラの模型がいくつもぶら下がっている。特に際だっていたのが、8メートルという当時最深の深さを誇る縦長の水槽で、見上げる海に、太陽の光がキラキラと踊っている光景には圧倒された。
 当然のこと、モンテレー水族館だけで、フィルムを何本も使い、ノートには数ページに渡って、さまざまな水槽のデータを書き込むことになった。

 予定ではたった一泊一日の滞在で慌ただしかったが、充実した一日だった。ところが、ここでトラブルが起きた。次のまちへ行くのに予定していた飛行機が、実際にはその時期には飛んでいなかったのだ。結局私は、モンテレーのまちにもう一泊することになってしまったのである。
 後半のスケジュールのどこかを削らねばならないが、始めてのアメリカだものしょうがない。ここは一日オフをとって鋭気を養おうと覚悟を決めた。

 まず、フィッシャーマンズワーフの桟橋で、ホエールウォッチングのボートに乗り込んだが、あいにくの曇りで、クジラには会えずしこたま船酔いをして帰ってきた。でも船長はいつもならこんなに近くでこんなにたくさんのクジラに会えるんだとかなんとか、訛の強い言葉で自慢して言っているようだった。

 次にレンタサイクルを借りて、昨日行った水族館にもう一度行ってみることにした。平均的日本人の足に会わせて、子供用の自転車をあてがわれムッとした私だったが、不機嫌はすぐに消し飛ぶことになった。
 なぜなら、海岸から野生のラッコが見えたからだ。さっき食事をしたフィッシャーマンズワーフの桟橋からわずか200メートルほどのところに、長さが30メートルにもなるジャイアントケルプが浮いている。そこで二頭のラッコたちが体にケルプを巻いて、頭をぼさぼさと掻いているではないか。
 写真を撮るにはちょっと遠すぎるが、鳥羽水族館にさえまだラッコがいなかった当時、野生のラッコを観察できるなんて、それはもう興奮ものの出来事だったのである。

 それから水族館に行き、その日は視察ではなく、ゆっくりと楽しむことにしたのだが、私はそこで大発見をしたのだ。昨日感動した8メートルの深さの水槽は、さっきラッコが巻いていたジャイアントケルプを展示するための水槽だったのだ。それだけではない、ラッコの水槽も、クジラの模型も、桟橋の水槽もそこにある何もかもが、モンテレー湾をそのまま自慢しているのではないか。

 自分のまちの海に誇りを持って、それを伝えようとしている施設、それが水族館であったのだ。その発見で私の視察旅行スケジュールは大きく変わった。何かを真似することが視察ではないし、データなんてどうでもいいことだ。自分の持っている誇りをどうやってみんなに伝えるかがポイントなのである。

 そしてそこから新しい超水族館の企画が出発したと言っていいだろう。だから私は今でもモンテレー湾のラッコに感謝の意を表するために、機会がある度に、あのモンテレー湾のラッコたちに会いに行くことにしているのだ。


モンテレー湾に浮かぶ、
野生のラッコ。
実にさりげなく居た!


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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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