RUMIN’s ESSAY
文・写真共に禁転載


     旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第25回)
      98年4月号(3/15発売)












ラッコのなんと愛くるし
いことか!
まるでヌイグルミが泳いでいるようだ。

ラッコはいつから人気者?
                    中村 元 
 私がモントレーの港で、生まれて初めて野生のラッコと会って、いたく感動していたのが今から10数年前。当時の日本ではラッコのことなどまるで知られていなかった。

 鳥羽水族館にラッコがやってきたのは、ちょうどそんな頃だった。アラスカから飛行機と保冷車を乗り継いで、真新しいラッコ館のプールで、さっそく頭をグルーミングし始めたラッコたちを見て、飼育スタッフから歓声があがった。無理もないことだ、飼育係だってラッコを初めて見たのだから。

 それにしてもラッコはいちいち可愛いのだ。マンガのようにくるくる回る、頭をシャンプーするみたいにグルーミングする、両手を器用に使ってコンコンと貝殻を割る、仰向けに大の字になって寝る、その上ヌイグルミのように可愛い!
 これはもう、まれにみる動物タレント界の逸材である。私たちは、「ラッコが来た、ラッコが来た」と吹聴しまくった。

 ところがだ、その反応はなんとも情けないものだった。
「ほう、お腹の上で貝を割る。クルミ割り人形のようなものですな。クチバシでもついているんでしょうね。なかなか奇怪な珍獣のようじゃありませんか」
「ラッキョですか?ラッキョが泳ぐのですか?そりゃおしろい。でもなんか臭そうだな」
 おいおい、ラッキョが泳ぐわきゃねえだろう!それに臭いのはニンニクだ、ラッキョはカレーなんかについてくるやつだっちゅうの。このオタンチン!

 珍獣扱いされたり、ラッキョと間違えられたり、万事がこの調子だから、いかにラッコが知られていなかったことか分かろうというものだ。
 広報の責任者だった私は、当時発売されたばかりのN社製ポータブル型ビデオ&TVを2セット買い求め、TV局やら雑誌社、旅行エージェントへのプレゼン作戦を行った。おそらく、動物があのようにプロモートされたのは初めてのことだろう。いや、なによりもあのN社製ビデオセットが有効に使われた初めてのケースであったに違いない。

 そんな努力が実ってしだいにラッコが知られてくるにつれ、どの水族館も手に入れたがるようになり、ついに日本の飼育ラッコ保有数は世界一となった。
 しかし今になっても、ラッコが何語かという質問は後を絶たない。

 驚くなかれ(もう驚く人も少ないだろうけど)、ラッコはれっきとした日本語なのだ。「猟虎」とか「海獺」という漢字だってあるのだから恐れ入って欲しい。言葉の響きでも分かるように、どうやらもとはアイヌ語に漢字を当てているようだ。
 ということは、ラッコはもともと日本にいたか日本人にとってなじみのある動物だったということである。
 かつてラッコは、北海道あたりまで住んでいた。そんなに遠い昔のことではない。きんさんぎんさんはもう生まれて、やんちゃをしていた程度の昔のことだ。

 近くに長生きしているお爺ちゃんとかお婆ちゃんがいたら聞いてみて欲しい。ラッコの毛皮って知ってる?と。
 持っていたという方は少ないだろうが、きっと知っているはずだ。ラッコの毛皮はお金持ちたちの超高級コートやマントとして、あるいは帽子として人気だった。ロシア人の要人たちがかぶっていた円筒の帽子も、みんなラッコの毛皮から作られていたらしい。

 鳥羽商船高等専門学校には、当時の猟虎船つまりラッコ狩りの船の写真が残っている。ラッコの毛皮は、ミンクよりも上質なのだ。アラスカなんかで海に浮いていて平気なんだから、どれほど暖かいかは想像できるだろう。
 だから、ラッコたちは商品として狩られた。ロシア人と日本人に狩られて狩られて、とうとうアリューシャン半島から尖閣列島にかけてのラッコは、滅んでしまったのだ。

 そして、商品としてのラッコの毛皮が市場から消えると共に、ラッコの名前も死語となってしまったというわけだ。
 「猟虎」の字はそんな背景を表しているようで悲しい。毛皮として名前を覚えられ、アイドルとして名前を覚えられながら、北海道に住んでいた誰それとしては、見事に忘れ去られているラッコ。彼らは自分たちのことをいったいなんと呼んでいるのだろうか?

この姿。
グルーミングをしているときのラッコと言ったら、子供が一生懸命シャンプーをしているようだ。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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