RUMIN’s ESSAY
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     旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第25回)
      98年4月号(3/15発売)










桟橋で眠るオス。
のどかだなあ・・・。

モンテレー湾のアシカ 
中村 元 
 モンテレー水族館は、映画スタートレック中で、ザトウクジラを飼育している20世紀の水族館という設定で登場していた。
 もちろん、実際に巨大な鯨が飼育されているわけではなく、水族館のバルコニーから外を、特撮によって巨大な水槽として作り上げていたのだ。

 スタートレックのファンであると同時に、モンテレーのまちのファンでもある私には、映画を観ていてそれがモンテレー水族館のバルコニーだとすぐに気付いた。
 わが超水族館が、TVドラマの「なんとか殺人事件」の謎解きの現場なんかで登場するのとはえらい違いで、ちょっと悔しかった。

 しかし、クジラを飼っているという設定には別に異議を唱えるつもりはなかった。モンテレー湾は、そんなことが可能かもしれないと思うほどに、動物と人とが共存している海なのだ。

 前回紹介したラッコは、レストランの前をすいすいと泳ぎ回り、そこに住む人々は、何げない、いつもの光景としてそれを見る。モーターボートでブンブン周りを回ったり、もちろんボウガンの矢を射るなんて馬鹿げた行為がされることもないのだろう。

 桟橋の下には、カリフォルニアアシカたちが、ゴロゴロと陣取っている。フィッシャーマンズワーフからのおこぼれを頂こうと、水面にぽかりと顔を出している奴。人間さまのボートを占領して、昼寝をしている奴。ラッコのように水に浮かんで日光浴を楽しんでいる奴。
 誰かがそいつらを捕まえて、マジックで目の回りをパンダ模様に塗ってしまうとか、唐辛子入りの魚を与えるとか、そんないたずらをすることもない。

 実にのどかでゆったりとした関係が、人と彼らの間にある。それは、狭い土地を動物から奪いながら生きてきた、私たち人類が住んでいるまちとは思えない光景だった。
 どうすればこんな風に彼らと共存できるのだろう?私は少しだけそんなことを考えながら、ラッコと別れて再び自転車にまたがった。

 海岸沿いを少し走ると、アオッ、アオッと大きな声がする。どうやらカリフォルニアアシカの群があるらしい。声のする方に行ってみれば、道路からほとんど離れていない石を積み上げた防波堤に、カリフォルニアアシカのコロニーがあった。アシカのオスは、成長すると200sを超え、その上頭のてっぺんがデコチン頭になって、ちょっとした威厳らしさを醸し出す。
 そんな立派なデコチンたちが数頭、間隔を置いて狭い防波堤に陣取っていた。つまり彼らの数だけハーレムがあるのだ。

 彼らはそのデコチン頭を反らせては、アオッアオッと吼え声を上げ、他のオスを牽制しながら互いにハーレムを守っている。メスたちはせわしく首を振って、オスたちの動向を見守りながら、海に入ったり陸にあがったりを繰り替えす。
 オスはメスが浮気をしないかと気が気でない。だからまた威厳を込めてアオッアオッと吼える。

 本当はオスたちは誰もが、精一杯多くの場所を占領し、できることなら、この防波堤全てと、そこにいる全てのメスを手に入れたいのだ。でもそれが不可能なこともよく知っている。
 ひどく無理をするよりは、自分の分に合った力を使ってなわばりを維持する方がずっと楽だし、仮に全てを占領出来たとしても、エサも食べずに全てのメスと愛し合っていたら、いかな巨体もすぐに枯れてしまうにきまっているではないか。

 それが野生の公共心というものなのだろう。自分の利益だけしか考えない獣でも、自分の余分な利益までは考えない。余分なものを持っているのは、自慢でもなんでもなく、利益にもならないことを知っているのだ。

 彼らといかにすれば共存できるかが、ここにきてようやく分かった。アシカたちは狭い防波堤で共存しているではないか。人が余分な利益を求めなければいいのだ。
 私には人より動物の方が大切と言わんばかりの徳川綱吉的な発想や、野生生物を食べることは野蛮であるというような発想は理解できない。しかし、カリフォルニアアシカたちが実践している、余分なものは必要ないという考え方はよく理解ができるのである。

ハーレムをつくるデコチン
頭のオス。
ちょっと威厳ありげ。


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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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