旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第32回)
      98年11月号(10/15発売)


みずぼらしい翼(ガラパゴスコバネウ)
中村 元

 世の中に、飛べない鳥というのは案外いるものだ。ペンギンはもちろんのこと、ヤンバルクイナやキウイは有名だし、ダチョウやレアのように巨大な鳥は誰が見たって飛べるようには思えない。
 しかし彼らのことを正確に言うならば、飛べない鳥なのではなく、飛ばなくなった鳥なのである。

 ダチョウは巨大すぎて飛べないのではなく、飛ぶのをやめたから巨大になれたのだし、ペンギンは水中で素早く泳ぎたいからこそ、空を飛ぶのをやめて、水中を飛び回ることにすべてをかけたのだ。
 飛ぶことは鳥たちのアイデンティティーではあるけれど、もし飛ばなくてもよいのなら、別の可能性も広がるし、楽もできるだろう。
 だいいち、飛ばなくていいのなら、牛のように巨大になっても、歩けなくなるほど食い貯めしたとしても何の問題もない。
 それに、飛ぶためのエネルギーがいらないのならそんなに楽なことはない。鳥は優雅に飛んでいるように見えているけれど、離陸の時や着陸のときには、けっこうなエネルギーが必要なのだ。強風に向かって飛ばねばならないこともあるし、中には地球の端から端までを渡る種類もいる。鳥は飛ぶ能力によって仕事が増えてしまったと言ってもいいくらいなのである。

 ここガラパゴス諸島にいる海鳥たちが、ヒトを見ても飛んで逃げようとはしないのがいい例ではないか。出来ることなら鳥だって飛びたくはないのだろうと思うのだ。
 そして、逃げるときに飛ぶ必要がないのであればと、ついには飛ぶことをすっかり止めてしまった鳥さえもガラパゴスにはいるのである。ガラパゴスコバネウだ。
 ガラパゴスコバネウは、真っ黒な溶岩で囲まれた入り江に、なぜか威張って立っていた。しかし胸を張って立っているのはいいのだが、左右に広げた翼が、禿びた破れ傘を広げたようにみすぼらしい。
 コバネウとは小羽根鵜、つまり翼の小さなウであって、あの長良川の風物詩「鵜飼い」のウの仲間である。鵜飼いのウがアユを捕るのを生業としているように、ウの仲間は水面を泳ぐのと水中で魚を捕るのが得意だ。

 そう、条件はペンギンと一緒なのである。この島に渡って来た頃には、川から川へとエサ場を探して飛ぶ他のウと同じように、立派な翼で飛んでやってきたのだろう。しかし豊かなこの海に住み着いてからは、季節によって遠方へ移動をすることもなく、そして恐ろしい動物に狙われることもなかったから、面倒でエネルギーを使う「飛ぶ」ということを止めてしまったのだ。
 当然、飛ばなくてもよければ、翼は必要がない。必要のないものはそれがあるだけで無駄なエネルギーを使うことになってしまうから、どんどん退化させているのだ。

 しかしそれにしても、ペンギンと比べてもあまりにもみすぼらしすぎる翼ではある。翼の大きさは体に比べてあまりにも小さく、そのうえ羽がまばらにしか生えていないのだ。まるで3年ばかり服を換えてもらっていない案山子のような有様ではないか。
 実はウが水中で泳ぐときには、ペンギンのように翼を使わずに、脚のヒレだけで泳ぐ。翼は体にピッタリと張り付けてできるだけ抵抗を少なくしているのだ。結局彼らの翼は飛ぶのにも泳ぐのにも必要がないということである。そこで必要最小限、鋭利な岩や風の寒さから体を守るだけの羽毛を残したのが、このみすぼらしい姿なのである。
 ヒトは何でもかんでも立派なものが好きだ。立派な翼、立派な角、立派な毛皮、だからガラパゴスコバネウの姿には、情けなさを通り越して嫌悪感を浮かべることさえもある。ヒトの美的センスに合わないからなのだ。

 しかしそれでもガラパゴスコバネウは、みすぼらしい翼を、「これが平和の印、これが無駄を無くした美しさなんだ」と主張しながら、誇らしげに立っている。 
誰も望まない戦争を想定し、飢える民衆を横目にミサイルを準備する。夏の炎天下でもネクタイを外すことなく、冷房の効いた車で移動することをステータスにする。無駄を無駄とは言わずに付加価値と呼ぶ。
 そんな生きることの本質を忘れたヒトには、どこまでいっても、ガラパゴスコバネウの誇りを理解することはできないのに違いない。

■写真キャプション(写真は後で入れます)
海岸で小さな翼を広げるガラパゴスコバネウ。
これは退化ではなく、徹底した合理化による進化である。

 旅の手帖タイトル集へ戻る


essay
rumin'essay表紙へ

rumin@e-net.or.jp
home
地球流民の海岸表紙へ

(C) 1996 Hajime Nakamura.

禁転載