旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第34回)
      99年1月号(12/15発売)


人魚との出会い
中村 元

 子供の頃持っていた理科の実験ブックに、どうしてもできない実験があった。なぜなら、その実験にはカラスの喉笛が必要だったからだ。我が家でつぶしていたニワトリの喉笛では代用できないのか、それとも都会の大きな文具店にいけば売っているのか、よくわからないので、父親に聞いた「カラスの喉ってどうやって手にいれるんだ?それがないと実験ができない」と。
 父親は、そんな妙な実験は止めた方がいいと言った。でもその本は、父親が買ってくれたのだ。私は1年ほど悩んだ末に、結局その実験は諦めたのだった。

 しかし、最近になってふと気が付いたのだ。あれは「ガラスの管」のことだったのだと。
 ガの濁点が誤植でカになっていて、挿し絵にあったフラスコに突き立てられた「カラスの管」の曲がり方がちょうど鳥の首を連想させていたので、すっかりカラスの喉の管だと思い込でいたらしい。
 そしてどうやら私は30年もの間、「そういえばカラスの喉笛が必要な妙な実験があったっけ」と、きっとあの時の父親と同じく、少々薄気味悪く思いながら暮らしてきたのだ。ああ勘違い・・・!

 こんな勘違いは、誰にでも一つや二つは必ずあるだろう。だがしかし、世の中には、勘違いなどという言葉は存在しないがごとく、信じ込んでいる人がいる。しかもその人たちは、周りの全ての人にさえも事実として認めさせてしまうのだから恐れ入るのである。
 そんな恐れ入る人の中でも、あっぱれに恐れ入ったのが鳥羽水族館の館長だった。(ちなみにこの人は、私の義父でもある)
 成り行きとしか言いようのない運命に従って鳥羽水族館に勤めることになった私に、館長は「人魚を見せてやる」と言った。いくら動物のことを知らなかった私でも、実際に人魚が存在するなんて思うほどアホではなかったから、また得意のシャレをかまそうとしているのだろうと、ニヤニヤしながらついていった。

 しかし、彼が見せてくれたのは、シャレでもなんでもなかった。私の初めて見る動物ジュゴンだったのだ。そいつはイルカを太らせたような体と、幼稚園児がムーミンを描こうとして失敗したような顔をしていた。
 そして驚いたことに、館長はそいつを「これが人魚姫だ」と言い切ったのだった。いつの間にか「姫」という称号までもが添えられている。それはガラスの管とカラスの喉笛のようなたわいのない勘違いではない。明らかに館長はその不思議な動物を人魚と信じ込んでいるのだ。
 私には、館長を嘘つきと決めつけるか、審美眼がおかしいと決めつけるかの選択しかなかった。そして迷わず、後者を選ぶことにした。それが私と人魚との出会いである。
 あれから十数年、私はフィリピンとオーストラリアの海へ、何度も野生の人魚を探しに出かけた。そしていつの間にかジュゴンのセレナのことを「姫」と呼ぶようにさえなってしまっていた。審美眼がおかしくなったわけではない。水槽で彼女たちの仕草をながめ、海に何度も会いに出かけているうちに、そもそも人魚がジュゴンだったのではなく、ジュゴンが人魚だったのだと分かったのだ。

 ジュゴンは不思議な動物だ。海で会いたいと思ってもまず会うことはかなわない。空から探したって、なかなか見つけることはできない。ところがあきらめかけていると、ふと眼下に現れるのだ。
 それは当たり前のことで、野生の動物がこちらの都合で現れてくれるなんてことはあるはずがないのだ。彼女たちの都合で自由に海を泳ぎ回っているのだから。
 そして、それと同じように、彼女たちの姿に、ヒトの勝手な審美眼と価値観をもって人魚性を求めようなんてことが、すでに間違っているのである。海中で長いブロンドの髪の毛は、サンゴに絡まって困るばかりだし、豊満な乳房は、船乗りたちは吸い付きたかっただろうが、コバンザメが吸い付くこともできず、なにより泳ぐのには邪魔になる

 海に棲む生き物には、海に棲む生き物の美しさがあり、その暮らしには私たちヒトとはまったく違った価値観がある。私と人魚の出会いは、そんな当たり前のことを教えてくれる出会いでもあった。

■写真キャプション(写真は後で入れます)
ジュゴンの顔には、いかにも間の抜けた愛らしさがある。この顔にブロンドの人魚を重ねてはいけない。海に棲む私たちの仲間と考えるのだ。そうすればきっと人魚に見える。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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