旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第35回)
      99年2月号(1/15発売)


人魚の魔性(ジュゴン)
中村 元

 職業病と言うのは大袈裟だが、飛行機に乗ると必ず眼下に広がる海をじっと見つめている自分がいる。
 それがたとえ、ジャンボジェットの機上だろうが、伊勢湾の上空であろうが関係はない。フィリピンやオーストラリアの海上で、ヘリコプターや小型飛行機からジュゴンを探していた頃の癖が抜けないのだ。
 そして巨大なタンカーが豆粒ほどにしか見えないのに気付いて、私はようやく我に返る。こんな海でこんな高度でジュゴンを発見できるわけがないと・・・。

 自然界のジュゴンを観察しようなんて無謀な試みを鳥羽水族館がはじめたのは、もう十数年も昔の話しだ。最初は船上から見つけようと、船を出してジュゴンの餌場で待ちかまえていた。
 耳を澄まし、目を凝らして待つ私たちは、ウミガメが呼吸するわずかな瞬間でさえも見逃しはしないのだが、それで確認できたのは、ジュゴンの呼吸の一瞬が数度、握り拳ほどの鼻づらを水面に出した瞬間だけだった。
 もちろん、カメラのシャッターは虚しく空を切り、ビデオテープは夜明けの茜色が刻々と移りゆく水面ばかりを無駄につなぐばかり。
 分かっている。たかだか数度、朝の数時間を海に出かけ、船から水面を眺めるようなことで、幻の人魚の姿を見ることが出来るわけはないのだ。飛行機が必要なのである。

 そこでアイランダーという小型機をチャーターすることにした。この飛行機は、後部のドアを外すと1間近い開口部ができるので、落ちるかもしれないという不安さえ気にかけなければ、撮影や観察にはもってこいである。
 しかし問題は、飛行機という乗り物は、他の全ての乗り物と違って、徐行運転や停止ができないことなのだ。
 滑走路から飛び立ち、巡航速度で上空からジュゴンを探しているときはいい。眼下に見えるサンゴ礁の海と、そそり立つ奇怪な島々に、遊覧飛行気分である。
 そして、ひとたびジュゴンを発見すれば、停止できない飛行機はジュゴンを中心にトンビのようにグルグルと回るしかないのだ。スピードが速いと遠心力で円が大きくなるから、パイロットは失速寸前にまでスピードを落とす。減速した飛行機は降下するしかないから、私たちは螺旋を描きながら、ジュゴンめがけて急降下することになる。
 しかもこの時の飛行機ときたら、左翼側の大きな開口部を真下に向けて、ほとんど垂直に横になっているのだから、そこに陣取った私たちは、真下に地獄の入り口を見ながら、グルグルと急降下する絶叫マシーンに乗っているようなものである。

 よくしたもので、遠心力によって、私たちの体は床に押しつけられ、真下を向いた開口部から転げ落ちることはないのだが、恐怖であることには変わりはしない。
 撮影するどころではない、目を見開いてアワワ、アワワと言っているうちに、飛行機酔いで気分は最悪に悪くなり、ジュゴンの姿を目の隅に見ながら気が遠くなるのだ。そして飛行機がこれ以上無理という高度まで降下すると、パイロットは一気にフルスロットルにして、機体は急上昇をするのである。
 今度は急激なGにシートに押しつけられ、肩に担いだ大きなカメラが数倍の重さとなって肩をつぶそうとする。私は顔面蒼白のまま、声も出ない。いや、声を出したら胃の内容物がすべて戻ってしまいそうなのだ。

 これを数度続けると、たいていの人は、もう降ろしてくれと言いたくなる。ところが途中で降りることが出来ないのも、飛行機なのだ。それでもどうしようもなくなったら、気を失うのに限る。私はその手を使って現実から緊急避難したことが2度もある。
 しかし、そんなめにあっても、目の隅に映ったジュゴンの姿は忘れられない。彼女が大海原で泳いでいる姿をもう一度見るためなら、何度でも飛行機に乗ってしまうのである。

 こんなことを思っているとき、ジュゴンはまさに伝説の人魚と化して、私たち海の男の心を掴んで放さない魔性を発揮しているのである。人魚はいる。彼女は空から眺めるだけの男をもブラックアウトさせ、再び会いにこさせ、そしていつか飛行機ごと海に引き込んでしまおうと罠を仕掛けているのだ。
 あの人魚の魔性に、パイロットが引っかからなかったことを、今でも幸運に思っている。

■写真キャプション(写真は後で入れます)
ようやく空撮に成功した野生のジュゴン。親子だ。鳥羽水族館が関係しているフィリピンのリゾートでは、飛行機の離着陸時に見ることもできる。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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