旅の手帖 連載「海からのメッセージ」 (第36回)
      99年3月号(2/15発売)


カンガルーアイランド(オーストラリアアシカ)
中村 元

 海外に出かけるとよく風邪をひく、旅行疲れではない。向こうに着いたとたんに背中がぞぞっとし、二日目には立派な大風邪ひきになっているのだ。
 理由はだいたいわかっている。なによりも飛行機内の乾燥した空気がいけない。だから最近では、バンダナをマスクにして口と鼻を覆うことにしている。顔の半分を覆うバンダナに、いつでも寝られるようにサングラスもしているから、かなり異様だ。初めてトイレで自分のいでたちを観たときには、ちょっと怖かった。

 しかし、そこまでしてもやっぱり風邪はひく。日々の疲れが溜まっているのだ。海外へ出る前の数日間は仕事を詰めてすることになる。普通だって年中無休なのだから、それを詰めるのはひどく大変なのだ。たいていの場合、出発前夜になってやっと撮影機材やスーツケース準備し始め、朝方に「旅の手帖」の原稿を思いだし、慌てて書いていたりする。
 そんな調子だから、バタバタと飛行機に乗り込んだときには、かなりの勢いでホッとする。何ヶ月間か張りつめていた緊張が取れて、もらったスコッチに体がふにゃふにゃとなる。「ああ、これで当分は時間に追いまくられなくていい・・・・」その瞬間こそが、風邪の菌が私の体に付け入る一瞬なのである。

 初めてオーストラリアを訪れた時も、そんな調子だった。機内で心地よい弛緩感を貪りながら、ぼーっとガイドブックを読んでいた私の目に飛び込んできたのが、カンガルーアイランドのことだったのだ。アデレードから120qの海上にある島、その海岸にはオーストラリアアシカがゴロゴロといると書いてある。もうすでに私の頭は風邪に冒されていたのだろう。さっき確かめたばかりのチケットを半分変更すれば、カンガルーアイランドに行けると考えていた。
 そして数日後、小さな飛行機にたった一人の乗客で、カンガルーアイランドの空港に降り立っていた。もうその頃には、体中の隅々にまで風邪の菌が行き渡り、荷物を持つのも辛いほどだった。

 モーテルに投宿してガタガタと震えていると、「風邪にはサウナがいいから使え」と主人が言う。そんなもので日本の風邪が参ってくれるとは思えなかったが、私一人のために火をたいてくれたらしいので、試してみることにした。
 サウナはプールの横にあった。サウナに10分入って、それからプールに飛び込むのを5回繰り返せと言われたので、ヤケになって実行する。ところが、飛び込んだプールはめちゃくちゃ冷たい上に、足が立たないのだ!
 熱で、立っているのもやっとの私は、止まりそうになる心臓をなんとか動かし、沈もうとする体を立ち泳ぎで支えながら耐えた。でも、2度繰り返したところでお終いにした。風邪の菌より先に、自分の方がやられてしまいそうだったから。

 しかし、おかげで翌朝はずいぶん楽になった。たぶん、プールで溺れそうになったときに、生きようとする気力が培われただけなのだろう。さっそく、ガイドを頼んであった主人に、アシカのいるシールベイへ連れて行けと言うと、「おまえは病人だから、今日は寝ていろ」と言う。バカな!こっちはなけなしの時間を工面して、この島にやってきたのだ。明日の朝にはアデレードに戻らねば、遅れた行程を取り戻せない。
 結局、心配する主人を押し切って、無理矢理シールベイへと出かけた。シールベイとはアザラシ湾という意味で、そこにアシカがいるのは変なのだが、こだわるのは私くらいで、世界中の誰もが、アシカとアザラシの違いなど気にはしないらしい。

 シールベイは白砂の美しいビーチだった。車から降りたとたん、小高い砂丘の上で、オーストラリアアシカの家族が寝そべっているのに出くわした。熱でボーっとしながらも、無意識のうちにカメラを出して構える。
 よろめきながら近寄ってシャッターを切ると、その音で一頭がゆっくりこっちを向いた。でも、とろんとした目で、私たちを確かめると、興味なさそうにまた眠ってしまった。「ここは楽園だよ。お前も寝てれば」そんなふうに言われたような気がして。私は少しの間、次のシャッターを切れなかった。

 ああ、またアシカたちに何か教えられている・・・・。しかし、それから10年後、今日も私は、39度の熱に体を震わせながら、この原稿を書いているのである。

■写真キャプション(写真は後で入れます)
時間のないビーチで惰眠を貪るオーストラリアアシカの一家。こんなふうに気持ちよく眠れるのと、たくさんの仕事があるのと、どちらが本当に豊かなのだろうか?

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(C) 1996 Hajime Nakamura.

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