「大変革夜明け前」村岡兼幸著(1997年パロル舎刊)にて掲載
アリ男・・・出口なし

地球流民 

 ある朝、男は自分が一匹のアリになっているのを知った。暗い穴の中でたった一匹うごめくアリだ。夢だと思ってぼっぺたをつねろうとしたが、顔は堅くつるりと滑ってしまった。
 とにかくアリになっていることに間違いはなかった。昨日まで地方都市の建築会社に勤めていた普通の会社員が今はアリになっているのだ。

 しかし男には、それがごく当たり前のことのようにも思えていた。6本の足は男の思が意識せずとも動いていたし、触覚からは男がいる真っ暗な穴の壁の感触を正しく伝えていた。
 なにも問題はない。
 「もしかしたら昔から俺はアリだったのかもしれない」男はそんなふうにさえ思いはじめていた。
 しかし、そんな男にも少しばかり問題はあったのだ。それは男が入っている穴がどうやら人工的な縦穴であることだった。
 触覚でまわりを見渡しても、木や石はたくさんころがっているのだが、壁はつるつるして出口がどこにも見つからない。体の5倍くらいの高さのところがたった一つの出口らしく空色に明るい。

「お〜い!」男は誰にともなく叫んだ。
「お〜い!」どこからか声が聞こえた。
「だ〜れだ〜?」
「ア〜リだ〜あ!」どうやら隣にも穴があって、同じような境遇の男がいるらしい。
「おまえ新入りか〜、穴の真ん中に底なし穴がある。気をつけろ〜!」
 男が中央をそっと探ると、確かに真下に向かって落ち込んだ真っ暗な闇が口を開けていた。危ないところだった。知らずにいたら落ちてしまうところだ。
 そいつは続けて言った。「そっちのアリ、エサあるか〜?俺は腹減ってもうすぐ死ぬ〜」
 男はもう一つの問題を知らされることになった。「エサは、ない……」

 男はしかし、すでにアリの勤勉さも持ち合わせていたらしい。絶望することなくすぐに行動を起こし始めた。
 6本のよく動く脚と、アリ特有の力強さを使って、床に転がっている木や石で、穴を登るための足がかりをつくり始めたのだ。
 これはうまくいった。どんどん足場ができていく。人間だったころ建築関係の仕事でよかった。これでも男は一級建築士なのだ。アリの力と勤勉さ、そして一級建築士の頭脳があれば、たいていのものはつくることができる。
 足場が高くなる度に期待は広がる。頭上にある世界がいかにすばらしい世界なのか……。 男はついに穴から外に出るための足がかりを完成させた。そして一歩一歩踏みしめながら、頭上の明るい光に向かって登っていった。

 しかし、外に脱出しようと壁の上に顔を出した男が見たのは……。
 期待していたバラ色の世界ではなく、見渡す限り赤茶けた荒野だった。そして、その荒野一面にオオアリクイがひしめき合っていたのだ。
一匹のオオアリクイが、男を見つけ、長い舌で舌なめずりをして近づいてきた。男は反射的に身震いした。オオアリクイの好物がアリであることを、男の意識のアリである部分がよく知っているのだ。

 オオアリクイの長く赤い舌が男に向かってのびてくる。男はそのとたん足場を転げ落ちた。 間一髪だった。しかしオオアリクイの細長い舌は穴の中まで入ってきた。よくしなる鞭のように身をくねらせぬらぬらと光りながら男を捜している。
 男は必死で逃げ回った。アリはあの舌に触れるとからめとられてしまう。
 そこで、おや?と思った。
「そうだ、確かに俺はアリだ、アリならこんなときどうするんだ?あの真ん中の穴!」
 男は迷わず中央にある暗い穴に飛び込んだ。

底なしだと思っていた穴だったが、気持ちのいい風が下から吹き上げ、男はふわっと着地をした。着地したところは苔むした静かな広場だった。
 何匹かのアリが穏やかな表情で立ち働き、そこかしこで楽しそうに談話をしているのが見えた。そしてよくみると、それはアリではなく男の知った家族の顔だった。
 長女が男に気づいて駆け寄ってきた。
「お父さん!お父さんもここにこれたんだね、もうみんな来てるよ。」
「ああ、そうか」
「よかった。あの穴の中でね、明るい天井だけが出口だっていう人間の常識を捨てて、アリの常識で出口を探した人だけがここにこれるんだって。ここは楽園だよ、お日様がないのがちょっとさびしいけどね」

 男は、自分が一度は頭上に向かっていったことを言おうと思ったがやめた。
 あのオオアリクイがひしめくおぞましい世界のことを、長女に聞かせたくはなかった。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.