「大変革夜明け前」村岡兼幸著(1997年パロル舎刊)にて掲載
2025年、希望への旅

地球流民 

 ピピッ、ピピッ、アラームが鳴っている。
 ベッドの横にある緊急用エマージェンシーネットからだ。しかし村中徹は、慌てるでもなくそちらに寝返りをうって「おはよう」と答えた。村中にとってそれは珍しいことではない。

 はたして、音声によって自動的に入ったパソコンの画面から、「おじいちゃん、おばあちゃん、おはよう!」と笑う孫の顔が映っていた。子どもたち夫婦と南米に住んでいる孫は、よく緊急用のネットワークをいたずらして、村中を起こしてくれるのだ。
「こらこら、エマージェンシーネットを使っちゃいかんだろう……」村中の目はそう言いながら笑っていた。この機械が目覚まし時計がわりに使えるのは、日々が平和である証明だとも言える。

 5分後、すでに台所にいた妻と一緒に、食事をとりながら、壁掛け型パソコンのスイッチを入れ、メールを開く。デジタル化された顔が次々とメッセージを告げる。

『第27回全国ボランティアフォーラムの予定、次の通り。参加待つ…  <たてちん>』
『ハイパー水族館のNPO化決定した。めだかネットはお祝いにこいよ! <地球流民>』
 昔の仲間たちだ。
『先生、せんしゅうはたのしかったよ、きょうもまってるよ。 <ハッチ>』アフリカ系の少年の顔が映る。

そうか、今日は学校へ行く日なのだ。
 村中は、3年前会社を定年退職してから、いろんなボランティアに関わっているが、その中でも、まだ現役バリバリだった40歳の頃から、20数年続けているのが、近所の小学校での環境学習プログラムの講師だった。今日はその講義の日なのである。

最初は学校が休みの土日に、生涯学習として始めたのだが、2005年、地方分権によって学校のシステムも改革されると同時に、教育プログラムの方も一新された。その時に地域で行われている生涯学習で特に有用であると認められたものは、正規の授業として組み込まれてもいいことになっていた。
 村中たちの環境学習は、その頃世界で高まっていた環境保全への関心もあいまって、新しい正規プログラムに真っ先に組み込まれることになったのである。
 もちろん、村中たちの生涯学習が、NPOとして早くから活動していた実績も無視できないだろう。

「この子が、この間から話してたハッチだよ。2年前から日本に住んでいるのに、日本語が上手でね、この間、児童会長に選ばれたよ」村中は自慢げに妻に話した。
「最近、こんな田舎でも外国からの人が増えたわね。私がやってる介護ボランティアね、今ペアを組んでいるのはタイの方なのよ」

 妻の方は10年ほど前から、地域の老人介護のボランティアに参加している。
 妻も村中より3歳若い65歳なのだが、まだまだ元気だ。若いうちは社会に役立たなくちゃね、というのが彼女の口癖である。(もう、若いとは言えないと思うのだが…)
 とにかく、こうしてボランティアができるのは幸せだ。新しいボランティアシステムのおかげで、わずかばかりの年金を補って余るほどの収入もあるし、何よりも毎日に張りがある。
「そうだ、今日は彼女が、お昼にタイのトムヤンクンごちそうしてくれる日だわ」
 村中に代わって壁掛け型パソコンでスケジュールをチェックしていた妻が言った。

  かつての乱開発の後遺症によって食糧事情は、まだあまり芳しくはなかったが、全世界的な居住のグローバル化と自由貿易によって、さまざまな国の食材がまちで求められるようになっている。
 それぞれの家庭料理を持ち寄って、簡単なホームパーティーを開くのが、最近の流行だった。先日などは、村中も、共同農園で自分で育てたソバの実からソバ粉を挽いて、手打ちソバをつくってお隣の家族にごちそうしたのだ。これはなかなか評判がよかった。

 同じ会食でも、遠い昔毎晩のように、豪華な料亭の料理を胃薬と一緒に飲み下しながら、商談の相手の顔色を窺っていたのに比べれば、あたりまえで文化的で地球にやさしく、はるかに贅沢な楽しみである。なにより自分の体には、今の方がずっといい。

 思えば30数年前、あの狂乱のようなバブルの時期は、企業理念と富国を優先しながら経済の発展を目指してきた、戦後日本の最強選手たちによるラストスパートだったのだろう。人々は必死に走ってきたマラソンという経済戦争のゴールを目の前にして、次の競技種目の存在も知らずに全力で駆け抜けてしまったのだ。
 体力の限りを使い尽くした日本人は、競技に参加している意味をしばし忘れ、次なる行き先さえ見失っていた。

 しかしそれからほぼ10年、ちょうど今から20年前の2005年のころ、遅ればせながらも、日本は新たな競技にやっと参加することができた。
 村中は、その種目を新しい形のマスゲームだと感じていた。それは、すべての人が、それぞれの責任を果たしながら自由に演技をする。それでいて調和を大切にする競技なのだ。

 しかしなぜ、あの保守的な日本人にそんなことができるようになったのか?最強の企業戦士の一人であった村中は今でも不思議に思うことがある。それは期待されていた地方分権などのシステムの変化からのみ始まったのではなかった、さりとて市民団体が革命的な大活躍をしたり、予想されていたように企業がすべからく倒産してしまったわけでもないのだ。

 それはおそらく、国民ひとり一人が、先のマラソンの疲労から立ち直り、精神を浄化するにしたがって、新たな価値観をもった意識がひとつひとつ芽生え、それが国家や企業の精神にすばやく浸透していったからであろうと思うのだ。
 村中自身にしても、それまで企業戦士の意識しかなかったのが、知らぬ間にボランティアをはじめていた。利益のために地球の果てまで死にものぐるいで安い材料を求め、買い叩たいていた彼の会社の方針も、いつのまにか利益優先から一転して地球環境優先、生活者の要求優先という方針に変わっていた。そういったことが、最初は恥じらうように、ついでごく自然に日本中で始まっていったのだ。

 群で暮らす動物であっても、生命というものはすべからく利己の意識が強い。しかしその能力に限界があるために、結局群の結束は高くなり、利己は結果的に種全体の保存に役だっている。
 私たちの人の意識も、やっとそのことに気づいたのに違いないのだ。利己だけによる利己のための競争から、利己を活かした集団による個のための共創があることを……。


 朝食を終えて、村中は友人たちにメールを入れてから学校に向かった。
 角のカーポートには、いつものように誰でも自由に使える無公害のコミュニティーモービルが何台か並んでいた。10数年も前にガソリン車は全廃となり、今では自家用車という言葉さえも死語になってしまっていたのだ。そのかわり、まちにはあまりスピードは出ないが安全でしかも無公害の乗り物通称Cモービルが、乗り捨て自由の市民の足として安価で提供されていた。

 しかし村中は今日は歩いて行くことにした。あまりにも気分のいい青空だったから、Cモービルで学校に直行するのはもったいなかったのだ。
それに、この時間なら、学校までの道は、たくさんの近所の人たちと会うことができる。
 思ったとおり、すぐにポケットパークの花壇に水をまいている兼さんに会った。このまちの計画は、まだ若い頃の兼さんが中心になって、みんなで創ったのだ。彼はそれからずっとボランティアで花壇の世話をしてくれている。
「おはよう!兼さん」「やあ、おはよう」

 出会う人たちと会釈するたびに、村中は足が軽くなっていくような気がした。
「魂が想像する宇宙に誕まれ、信頼が創造するまちに生き、わたしたちが未来を創る……」
遠い昔、兼さんが好んで聴いていた歌を、村中は口ずさんでいた。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.