「大変革夜明け前」村岡兼幸著(1997年パロル舎刊)にて掲載
2025年、孤独への旅

地球流民 

 ピピッ、ピピッ、アラームが鳴っている。8年前60才の誕生日に村中徹の息子たちが買ってくれた健康管理機のアラームだ。
 室温が下がりすぎているのか、体重が減りすぎているのか、あるいはここのところ気象庁から毎日のように発せられる高紫外線警報をキャッチしたのか。部屋にくまなく配置された探索機と、国の機関に接続された通信網によって、私の体調から始まって、部屋のコンディション、そのうえ屋外の環境まで、健康に関わる警報を四六時中出してくれるのはありがたいのだが、1時間おきに鳴る上にそのどれもが同じピピッ、ピピッでは危機感もないというものだ。

 もちろん、なんの警報か分かったところでしょうがない。体重を増やしたくても配給されてくる食事では十分な栄養などとうてい望めないし、部屋の温度を上げようにも燃料のないストーブなどなんの意味もない、紫外線にいたっては外出をする気さえおこらないのだからどうでもいいことだ。

 「ああ、おはよう、警報確認した」村中は機械の方に寝返りをうって、いつものように答えた。声を探知して警報は鳴りやむ。
 「ほらみろ、おまえなんか、それほど俺を心配しているわけじゃない…。」こうして機械に毒づくのもいつものことだ。村中は知っている、この機械は本当ならこれを買ってくれた息子たちとかかりつけの医者のモニターにつながっていて、警報があるたびに電話の一本でもかかってくるべきものなのだ。

 しかし子供たちのことを悪く思うつもりもなかった。子供たち一家はずいぶん前からいくらかでも食料事情のいい中米に仕事を見つけ移住していた。けっきょくあいつらも自分たちが生きていくのに必死なのだ。明日のない私のことにかまっている暇があるのなら、かわいい孫のために時間を使ってもらったほうがありがたい。
 
 西暦2025年、世界は最悪の時代に突入しようとし、68才になった村中にとって豊かな老後、バラ色の第二の人生は望むべくもないものとなっていた。
 村中はぼんやりとした頭でこの20数年の酷い時代を思い浮かべた。それは地獄へ向かう日本の歴史でもある。

 考えてみれば、ちょうど40才を迎えた1997年のころからその兆候は現れていた。産業革命以来200年に渡って爆発的な成長を遂げた経済は、資源の不足というあまりにも当たり前の壁によって、90年代に終焉を告げたかのように思え、その経済論理をよりどころにして豊かな生活を実現してきた資本主義国家の体制もまた先が見えてきたかのように語られていた。事実、欧米ではいち早く経済構造や国家体制を変換することによって、この大事態を乗り切ろうという動きがあり、それらの国の人たちは果敢に新しい社会への適応を果たしていったのだ。

 経済的に欧米社会の延長にあった日本もその運命は逃れようがなかった。国家は経済の低迷に加え、国家中枢の相次ぐ不祥事を契機に、あえぎながらも大規模な行政改革に乗り出そうとしていた。しかし国民にとってそれは人ごとでしかなかった。

 バブル崩壊以降の長かった経済の低迷を補おうと、経済界からは今まで以上の経済政策強化が要求され、産業資源とマーケットは世界の隅々まで求められた。今まで以上に豊かでバラ色の生活を政府に求める国民は、消費税をはじめとする間接税を容易に認め、公共投資は各地で引っ張りだことなった。
 一部の為政者の憂いとは裏腹に、税金は国家経済の存続と国民の生活水準の上昇のために使われ、事実いっとき日本は再び輝けるアジアの至宝となったかのように感じられた。頑張れば豊かになる…その神話が再びアジアを席巻しはじめたのだ

 しかし、それが幻想であったことをじきに痛感することになった。資源が底を突きかけボーダレス化の広がる時代に、そんな政策が続くべくもなかったのだ。様々な産業を支えるはずであった国家の巨大プロジェクトは、十分に利用されることもなく多額の借金を残して90年代のモニュメントとなった。地域の生活水準を上げるために立てたはずの未来志向の公共施設は、かつての地域間競争を象徴するかのように、今では無駄な維持費の赤字競争を続けていた。

 その頃、村中はいくつかの大手メーカーの下請けで、それなりに立派な工場を営んでいた。父親の代からのモットー「材料を安く仕入れ、付加価値を付けて高く売る」は、ある意味で高度成長期の日本を表しているともいえ、その技術力と安い原料を探してくる世界的なネットワークは業界では高く評価されていた。不景気の中でも村中の会社はますますその方針を強化し荒波を乗り切ろうとしていたのだ。

 しかしそんなときに、人口の多いアジアの国々の工業化が、ついに世界経済と資源問題に火を付けたのである。低賃金の労働力と排出基準のない工業化、そして高い技術力という3拍子が揃えば製品は当然安くなる。さらに工業国が多くなったおかげでその材料となる資源の奪い合いあいも熾烈をきわめた。製品が安くなり資源が急騰したら製造業は二重に首を絞められるようなものだ。
 資源のリサイクルを世間への申し訳程度に行ってた業界で、村中の会社は新時代の構造不況をまともに受けた。幸いにも村中は原料調達のための世界的なネットワークによって、いち早く異変に気づき、自分の工場をつき合いの深かった大手メーカーにたたき売るように手放し、そこの資材部に迎え入れられた。

 村中の判断はある意味で正しかったのかもしれない。1年後製造業界の構造不況はますます深刻なものとなり、日本中の企業がばったばったと倒産した。その影響は日本経済の全てに及んだ。すでに円は暴落し賃金さえも安くなっていいたが、それは貿易に対してもう何の意味も持たなかった。資源自体が世界で不足しているのだ。弱い円では何も買えない。
 政府は国民に質素な生活の勧めを説き、リサイクル産業による内需拡大を遅ればせながら進めていた。しかし豊かな生活にどっぷりと浸かり、しかも収入が減っている国民の協力が得られるはずもなく、リサイクルシステムの構築は進むべくもなかった。

 もともと少なくはない債務を背負っている国だったが、それは加速度的に増えていった。世界で最も多かった国民の預金も、倒産が日常のこととなった銀行を目にしたとたんみるみるうちに引き出されていった。
 次々と出される政府の対策がすべて空回りをはじめた。それでも高給を得ている役人に国民の羨望と憤懣が集中し、国民は口々に政府の批判をしたが、批判もまたなんの解決策にもならなかったのは言うまでもない。

 打つ手を失った政府は、ここにきて地方分権を見事に成し遂げた。それは国民の要望でもなんでもなかった。とにかく批判の矛先を変えたかったのに違いない。いやあるいは国家を牛耳ることにあまりにもうまみが無くなったせいかもしれない。しかしそれは単に地方行政を苦しめる結果としかならなかった。わずかに観光や新産業で潤っていた地域も、委ねられた権限に対する責任の大きさに呑み込まれた格好でしだいに沈んでいった。

 そして2015年、あの恐るべき食料危機が突然やってきたのだ。
 いや、突然というにはあまりにも無責任かもしれない。それはいつか来るものと叫ばれていたのだから……。世界中の全ての人が、あの頃の日本人や欧米人のように豊かすぎる食事をしていたら、すぐにでも食料はなくなることは分かり切っていたのだ。それでも当時の先進国の国民はもっと豊かな食生活を望んでいた。そしてそれは富の集中の下でしかあり得はしなかった。
 しかし勃興してきたアジア諸国の経済力は富の集中を拡散させ、当然のごとく食料の奪い合いは始まった。

 日本が世界でも有数の食料自給率の低い国であったのは、誰もが知っていたことだが、国民はそれを国家のせいにするだけだった。しかし村中は覚えていた。80年代以降自給率を減らす減反計画が国家的プロジェクトとして推進されていた。その経済理論による考え方を受け入れたのは自分たち国民ではなかったのか?

 とにかく、自給率の低かった日本にとって、円の暴落は致命的であったとさえ言える。どの国でさえ立派なコンピューターより今日の食いぶちが欲しいのだ。安い円でどれほどの穀物が買えるだろう。その年、まさかというような飢餓が日本を襲った。あの豊かだった日本に住んでいながら飢餓で人が死ぬのを見るなんて村中は考えたこともなかった。しかしそれは、まだまだプロローグにしかすぎなかったのである。

 2020年、それまで緩やかに続いていた温暖化が牙を剥き始め、オゾンホールが悪魔の翼を広げ始めたのだ。
 すでに温暖化は陸上の植生をことごとく変えてしまっていた。過去の穀倉地帯は乾燥化し、昔ながらの土地の作物を作ろうとすれば人工的に水と温度を調節した室内でないと無理だった。
 そして、オゾンホールが地球に始めた仕打ちはもっとすさまじいものだった。紫外線に対して全ての動物は無防備である。人はサングラスと紫外線よけのクリームで身を守ることができたが、すべての家畜にサングラスをかけることはできはしない。まず、南半球のオーストラリアや南米の牧草地帯で家畜の生産量がひどく落ち込み、それはじきに北半球の牧草地帯にも広がった。
 川や湖はすでに酸性雨によって魚の住めない環境になっていたが、強烈な紫外線は最後の望みである広大な海にも影響を与えた。まず海面付近のプランクトンや魚類の稚魚が死滅し、それをエサにはじまる生態系の多くが絶望的な打撃を受けた。

 本格的な飢餓が世界を襲った。知り合いが飢えて死ぬなんてたいした驚きでもなかった。だいたいいつの頃からか、会社でのつき合い以外に知り合いなんて周りにいなかったのだ。親戚やかつての友人の死亡通知が届いて手を合わせるのはまだいい方で、隣の家の前に生花をを見つけてから「どなたが亡くなったのですか?」と聞くのが普通だった。

 今から3年前、この頃のだれもがそうであるように、村中はわずかばかりの退職金も出し渋られて会社を退職した。
 約束されていたはずの年金は考えていた額にはとても及ばず、今の物価でどうやって生きていけばいいのか見当もつかなかった。当時政府が、年金の半分の交付を辞退することとの引き替えに食糧配給を受けるというシステムを薦めていたので村中はそれを選んだ。もちろんそれは同時に、不足する食料をぎりぎりの範囲で押さえようというのが目的だったから、合成食材によって腹はふくれるものの、栄養が充足するというものではないのはしかたのないことだ。
 しかし、そんな食事はいままでも同じ様なものだったのだからたいして苦にはならない。なによりも村中にとって辛かったのは、毎日が退屈であるということだった。

 よく考えてみれば、それまで会社人間であった村中は、マンションの住民の誰一人と会話を交わしたこともなかった。いや、勤めのなかった妻でさえもそうだったようだ。「毎日が何もない、近所に気の合う話し相手もいない」いつもそう愚痴をこぼしていた。 たった一つの楽しみは中米にいる孫とテレビ電話で話すことだったが、生まれてからすぐに日本を出ていった孫にとって、一緒に散歩一つした記憶もない祖父母と話すのが楽しいわけはない。妻は相手の迷惑そうな顔が嫌だと次第に通信をしなくなっていった。

 1997年、あの頃の兆候にだれかが気づけば、もっと違った社会になっていたのかもしれない。こんな社会がくることをもっと早く予測していれば、貧しくとも幸せな暮らしができたのかもしれない。だれかが失敗したのだ、そしてそのだれかとは村中を含めた過去の自分たちに他ならないのだ。

 村中はベッドから抜け出すと、小さなゴミ袋を持って1週間ぶりに外に出た。
 空は異様なほど青く澄み渡っていたが、さびきったブランコが揺れる公園にはだれもいない。それもそうだ公園のほとんどはすっかりゴミ捨て場になってしまって嫌な臭いを放っている。マンションの前には使われなくなった車が捨てられて、その上にもゴミが山積みになっている。いったいいつからゴミ回収車は来なくなったのだろう。
 ぼーっと立って考えている目の前を車が駆け抜け、ツンとした臭いのする水しぶきが村中にかかった。下水口に枯れ葉がつまり、酸性雨の大きな水たまりができているのだ。

 村中はふと、それまでずっと記憶の底にしまい込んでいた60年も前のことを思い出した。「親父と家の前のどぶさらいをしたっけ…」毎年夏前になると、近所の人たちと大騒ぎしながらの一家総出の溝掃除があったのだ。村中の父親はいつも、隣に住んでいた老夫婦の家の溝も掃除した。老夫婦の「すまないねえ」という言葉が村中にも誇らしかった。
「もう昔のことだ…」かぶりをふって歩き始めた村中のサングラスの奥で涙が光った。

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(C) 1996 Hajime Nakamura.