ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊
ラッコの道標
第1章 ラッコが日本にやってきた


1-1 ラッコとの出会い
 私がラッコに会ったのは、いやラッコという動物の存在を知ったのさえも、鳥羽水族館で働きはじめてからのことだった。 それまでの記憶の中にはテレビでも本でも思い浮かべることができない。だから、ラッコの話しを聞いたときには、話半分くらいにしか信じられなかった。そんなわけで、生まれて初めてアメリカにでかけることになり、そこで初めてラッコという動物に会ったときの妙な気分は今も忘れられない。

 水族館の水槽にポワンと浮かび、こっちを見ているラッコは、話しで聞くよりはるかにインチキ臭かった。 水の上だというのに、そいつはまるでヌイグルミのようなふさふさとした毛をして、仰向けになったお腹の上に手を揃えて、とぼけた顔で水槽に浮かんでいたのだ。
 Sea Otter、という名前と、生息地が地図の上に書き添えられていたが、その姿には厳しいアラスカの海に住む野生動物の生活感などまるでなかった。「なんだこれは?」私はそう呟いていた。きっとそんな動物の存在自体が信じられなかったのだと思う。
 するとそいつは、私の気持ちを見透かしたように、突然動き始めた。 くるっと回ったと思うと水中に潜っていき、あっけに取られている私の目の前にプカリと浮かび上がる。なんだなんだ?と思っていると、次の瞬間には猛烈な勢いで頭をかきはじめた。それは見事にシャンプーをしている様子にそっくりだったので、私は大笑いをしてしまっていた。 次いで体を洗い始める。その間にもクルクルクルクルと体を横回転する。私は笑うのを止める機会を失って、笑ったまま目を見開いていた。そしてついに目が回ってしまった。

 目を回しながらも、この仕草がグルーミング、つまり体の毛をきれいにし毛の間に空気を蓄える行動であるのだと、出がけに読んできたテキストを思いだす。 しかし文字で書かれているのと目の前にするのとではえらい違いだった。
 しかもそれで彼の舞台が終わった訳ではなかった。それから飼育係が入ってきて、エサを与えたときの感動といったら・・・・。彼らは驚いたことに両手でエサを受け取っていた。 飼育係は、日本からわざわざ水族館のスタッフが来てくれたからと、貝のエサを与えてくれた。ラッコたちは両手でいくつも受け取った貝をお腹に抱えたまま、グルグルと嬉しそうに回転をするのだが、一つとして貝は水中に落ちはしない。

 驚きはそれだけではなかった、突如腹に置いた貝に別の貝を打ちつけて、貝殻を割り出したのだから・・・・。そんなのラッコだから当たり前だろうと言わないでほしい。ラッコの存在を知らなかった私がそれを見ているのである。それは牧場の牛がいきなり立ち上がって前脚で花を摘み始めるのを見るほどに新鮮な驚きだったのだ。
 とにかく、そのヌイグルミのようなやつは、私が水槽の前にいる間中、体全体を使ってさまざまな格好をし、その一瞬一瞬が、時間を忘れるほどに興味深かった。 そしてもうしばらくすれば、この動物が鳥羽水族館にやってくることを思い出した。
 それはたいへんなことだ。こんな動物が日本にやってきたら、えらい騒動になるに違いない。ちょっと考えただけで、私はひどく興奮していた。

 ところが、その興奮をそっくり日本に持ち帰ったつもりで、さっそくこのビッグニュースを伝えてみれば、冒頭の「ラッキョでっか?」である。 もう見事に途方にくれたものだ。もちろんそれは当然のこと。私自身が信じられなかったものを、見たことも聞いたこともない人たちに伝えられると思っていることがすでに間違いなのだ。

 さんざん考えた末、誰も知らないラッコを、写真一枚で伝えることなどできはしないという結論に達した。そこで懇意にしていたイラストレイターに、撮ってきたビデオを見せ、その時の様子を手振り身振りを交えて説明し、一枚のイラストでラッコの可愛らしさや面白さを伝えることにした。
 あの、水面にポワンと浮かびながら、とぼけて可愛いヌイグルミのような顔、そして水面をクルクルと回るしぐさに、貝をお腹の上で割る驚くべき行動。そんなめいっぱいさまざまなことを一発で伝えるイラストである。 イラストは1ヶ月以上もかけて、何度も書き直しながら出来上がった。
 出来上がったイラストはとても可愛かったし、手に持たせた大きな貝をお腹の石で割る仕草も、実によく表現されていた。 しかしそれでも、十分と言うにはまったく足りないことは分かっている。なんせラッキョなのだから・・・・。それで次はビデオ作戦の登場である。

 当時、私はビデオを使って広報をすることに成功していた。それまでにもイルカの仲間であるスナメリの出産を撮影して、全国の家庭に放送されたばかりか、映画館のニュースや飛行機の機内ニュース、そしてイギリスのBBCでまで放送されたこともあったのだ。それでビデオを撮ってテレビ局や雑誌社を回ることを計画したのだった。
 ありがたいことに、その計画に合わせるかのように、ある家電メーカーがアタッシュケースにすっぽり入るビデオとモニターのセットを販売しようとしていたから、すぐに2セット注文した。 おそらくあのセットの初めての利用者が私ではなかったのかと思う。なんせそのセットを持っていくだけで、どこにいっても驚いてくれ、ラッコのことはともかく、部屋中の人たちが集まってくれたのだから。

 そしてもちろん、ラッコのビデオを初めて見る彼らははさらに驚いてくれた。「これは本物ですか?」当たり前だ。ヌイグルミでそんな映像を作ってわざわざ見せに来るほど暇ではない。
 本物だと確認した人たちから次々と取材が相次ぎ、ラッコは突然毎日のようにメディアに登場するようになった。そして全国に貼り出されたイラストのポスターとともに、ほぼ1ヶ月で、鳥羽水族館にやってきたラッコは全国に知られることとなったのだった。ラッコのデビューと共に、死語となっていた言葉「ラッコ」の劇的な復活である。

 さらにその数ヶ月後、鳥羽水族館のラッコのうちの一頭が突然赤ちゃんを産んだ。それは、一気にスターに上り詰めたアイドルが、引退もせずにとびきり可愛い赤ちゃんを生み、そのまま親子でステージに上がったようなものだったから、「ラッコブーム」と名付けられるほどのことになってしまった。

 当時から懇意にしていた動物番組「わくわく動物ランド」は、毎週のように鳥羽水族館のラッコ便りを放送し、ラッコを主人公にした本は何冊も出版され、歌だって2曲できた(今でもNHKのみんなの歌で時々かかっている)。
 ビデオを持って説明に回っていたのが嘘のように、今度は取材のスケジュールを調整するだけで毎日をすごすことになった。私の1年間のほとんどはラッコのマネージャーをやっているようなものだった。

 その間にいろんなラッコモノも考え出した。 ラッコに一目会いたいと願うみなさんのための「ラッコ列車」に「ラッコバスツアー」。 ラッコのエサを体験学習してもらおうと考案した食事「ラッコ定食」に「ラッコランチ」。 急なことでまだラッコの土産さえできていなかったから、生写真をプリントして売ったらお客さんにありがたがられたし、着グルミが必要だろうというので、裁縫の上手な部下と二人で夜なべしてラッコ着グルミまでつくった。それは今でも世代を重ねて使われている。まだまだある、ラッコの電話台、ラッコのゴミ箱、ラッコのポスト・・・・今でも健在のものばかりだ。

 電電公社時代のテレフォンカードに、ラッコのイラストが採用され、次いで写真で作ったラッコのテレフォンカードがあまりにもよく売れたというので、NTTからラッコに対して感謝状と金一封をもらったこともある。金一封は、ラッコへのスペシャル食事イセエビに変えて食べてもらった。

 おかげで、当時の小さかった旧鳥羽水族館に、突如として年間200万人近い人々が訪れてくれるようになった。三重県の端っこにある鳥羽市の人口は2万6千人なのに、一日の入場者数が2万9千人ということまであった。旧鳥羽水族館は、一日最高1万人を想定して建設されていた水族館だったから、ゴールデンウィークや夏休みには、ラッシュ時の山手線を彷彿させる混雑となった。 よくもまあ、あんな状態でみなさん文句も言わずに訪れてくれたものだと、今考えると本当に感謝する。

 もちろん、それから、各地の水族館でラッコを飼い始めたのは言うまでもない。だれかが成功するとすぐに真似をしたがるのはこの国の特色なのだ。しかし、二番煎じだろうが、三番煎じだろうが、全国には鳥羽水族館まで来られない人がごまんとおられるのだから、それはそれで正しい選択だったのだろう。
 今では芸をするラッコに育てられたのもいるし(見ているだけで興味深いラッコが芸人にまで身を落とさなくてもいいだろうにとは思うのだが)、一度などは、たまたま訪れたまちのはずれにあった、初めて名前を聞く小さな水族館で、ラッコに会ったことがある。
 昔、白いオープンカーのムスタングが走り去るのを見て「スゲー!」と追いかけていた子供の頃の思い出。その故郷ではいつの間にか軽トラックの横にベンツが並んでいるのが不思議ではなくなったように、ラッコは、どんなまちでも、どんな場所でも、普通に見かける動物となっていたのだ。現在では、日本全国28園館に95頭のラッコがいる。結果的に、日本中のかなり多くの人が、どこかの水族館でラッコの姿を見かけることになった。 その数はきっと、ラッコの生息地である北アメリカに住む人でラッコを観たことのある人の数より多いに違いない。



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(C) 2000Hajime Nakamura.

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