ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊
ラッコの道標
第1章 ラッコが日本にやってきた


1-3 ラッコって何者?
 「ラッコは、腹の上の石で、貝殻を割って食べる」誰もが知っていることだが、この短い19文字で記された当たり前の文章には、実に多くの驚くべき事実が表されている。 まず、ラッコは貝を食べるのである。他にも貝を食べるホ乳動物と言えば、セイウチがいるが、これはかなり珍しい部類だ。
 そしてラッコは、その貝を腹の上に乗せるのだ。自分の腹を食卓代わりにするなんて……。 小学生の頃、生まれて初めて見た白人というのが、大阪万博で後に並んでいた女性だったが、彼女はなんと、立ち食いしているミカンの皮を、自分のおっぱいの上に置いていた!
 その光景のインパクトの強さといったらない。 今でも私は、白人はとてつもなく大きいという先入観を払拭することができないのだ。 しかし少なくとも、お腹の上を食卓にするラッコは、その白人女性をはるかにしのいで驚くべき動物である。
  しかも、ラッコはそれを海の上でするのだから、仰向けになって泳いでいるということである。 仰向けになって泳ぐような動物は、ヒト以外には考えられない。 ヒトだって毎日仰向けに泳いでいるのは、世界の人口に比べたらごくわずかな特殊な人たち、背泳の選手に限られている。 ここまでくると、珍しいどころか、不思議な動物としか言いようがない。

そしてあろうことか、ラッコはさらに、石で貝を割るわけである。
 石は貝を割るためにお腹に乗せているのだから、偶然にあったわけではなく、ラッコの食卓用道具なのだ。 また、石を使うためには、ひらめきや体験だけではどうにもならない。 つかむための手が必要だし、そのつかみ方や使い方を練習しなくては、修得することはできないだろう。
 普段、私たちが当たり前のように言っているラッコの生態は、実はこれほどに常識外れの生態なのである。 もし、金田一耕助が、ラッコはホ乳動物である…程度の知識しかなくて、「ラッコは、腹の上の石で、貝殻を割って食べる」の19文字を読んだとしたら、きっと混乱し、叫びながら走り回るに違いない。「八墓村の祟りじゃ〜!」
だから、そんなことは当たり前だなんて思わずに、今一度、ラッコのことを確認してみよう。 ラッコの常識はずれた生態は、新たにさまざまなことを気付かせてくれるはずである。

 ラッコは海のホ乳動物「海獣」である。 他に海獣と言えば、イルカやクジラの仲間である「鯨類」、ジュゴンやマナティーの仲間である「海牛類」、アシカやアザラシの仲間である「鰭脚類」の3つのグループがある。 ラッコだけが他の海獣のように、海獣としてのグループをつくっておらず、陸上にはたくさんいる食肉目の中の裂脚類、イタチ科に属した変わり者の海獣である。(ちなみに、世界中の水族館で、この3グループ+ラッコの、4つのグループすべての海獣に会うことができるのは、鳥羽水族館だけだ)

  さて、鳥羽水族館に来て、それらの海獣を比較してもらえばよくわかるのだが、ラッコは、他の海獣に比べると、海の動物としてそれほど洗練されていない。 イルカやジュゴンは、もうホ乳動物ということさえ一目では分からないほどに、水中での生活に適した魚類型の体を持っているし、アザラシは陸上ではゴロゴロと転がっているだけだが、水中に入るととたんに紡錘型の潜水艦のように巧みに泳ぐ。 犬のような顔のアシカの仲間も、海に入れば大きなヒレを鳥の翼のように使って、水中を自由自在に泳いでいる。 そのどれもが、水中の暮らしによくあった体を持っているのだ。

 ところがラッコときたら、水面にぽわんと浮いているだけ。 時々水中に潜るが、体をクネクネしながら泳いでいる姿は、お世辞にも素早いとは言いがたい。 後ろ脚が大きくなって水かきがついているのが、わずかに推進力を得るのに適しているようではある。前脚にいたっては、ヒレどころか指が短くて、まるでドラえもんの手だ。 

 しかし、それでも彼は海獣なのである。 他の海獣のように体を海の生活に合わせて大改造していないだけで、海の上だけでも暮らすことができる。 それはそれで大したモノだと言わざるを得ない。 鯨類が海の暮らしを始めたのは今からおよそ6千万年前、アシカはおよそ2千5百万年前、ところがラッコはわずか500万年前だというのだから、他の連中と比べるのが無理なのだ。 それに上手に泳ぐから立派だというものでもありはしない。 そんなことだけで立派さが決まるのだったら、陸上では脚の速いチータが一番偉くて、ヒトはかなりマヌケな部類になる。

 ラッコに最も近縁な動物はカワウソだ。 どちらもイタチ科の動物だが、カワウソも陸上のホ乳類の中では、潜水の最も得意な動物だから、ラッコはカワウソの海バージョンと考えてもいい。 ちなみに英語では、カワウソのことをotter、ラッコのことをsea otter(海カワウソ)と呼ぶ。 実に安直な命名ではあるが、その相関関係は分かりやすくていいではないか。 鳥羽水族館にはコツメカワウソもいるから、こちらも見比べてもらうといい。 カワウソが水中を泳ぐ姿は小型ラッコのようだし、ラッコが時折陸上を走る姿は、大きなカワウソのようである。

 一つだけ言えることは、カワウソはどんなに大きな種類のカワウソであっても、ラッコより重くはならないということだ。 おそらく川で獲れる獲物や、陸上に住むライバルや敵の多さに比べて、海で獲れる獲物の方がはるかに多く、ライバルや敵ははるかに少なかったからだろう。 その点では、ラッコの選択はカワウソの選択よりも正解だったのかもしれない。

 とにかく海は生命の故郷なのだから、種類も数も、川よりはるかに多い生物たちが暮らしている。 そしてラッコはその恩恵に十分あずかっている。 彼らの好物を上げてみよう。カ ニ、エビ、アワビ、二枚貝、ウニ、タコ、イカ、ヒラメ・・・。 なんとまあ豪勢なこと。お寿司屋さんで「時価」と書いてあるのは、たいていラッコのエサなのだ。

 そして、ラッコは、これがまたえらい大食漢ときている。 一日に自分の体重の5分の1から4分の1ほどのエサを食べまくる。 その量は、体重60キログラムの私が、一日に特大ステーキを10枚と、ご飯を100杯食べているのに相当するのだから半端じゃない。
 もちろん、水族館で、そんな量の寿司屋のネタばかり次から次へと上げていたら、我々職員の方がメザシさえ食べられない苦境に陥るから、通称大アサリと呼ばれるウチムラサキという貝と、スルメイカと、白身魚の切り身、それにエビの4種類に限っている。
 なんてセコイと思わないで欲しい。この3種類にしたって、そこいらのスーパーマーケットで、閉店1時間前セール!とかやっているのとは訳が違う。 そのまま寿司ネタにできるほど新鮮な奴を選んでいるのだ。 かつて館内のレストランで「ラッコ定食」という、大アサリやイカなどをセットにしたものを企画して超人気メニューになったことがあるのだが、その食材の仕入れ値よりも、ラッコのエサの仕入れ値の方が二倍近く高かったという逸話が残っている。

 ラッコは、こんなに高カロリーのモノを、毎日大量に食べていても、肥満や糖尿病などとは一生無縁だ。 それどころか、海獣にしては信じられないほど痩せていて皮下脂肪も少ない。 毎日クルクル回って運動しているから?まあそれもあるかもしれないが、最も大きな理由は住んでいるところが、あまりにも寒いアラスカの海だからである。

 寒冷地のしかも海上という条件の悪いところに住んでいるラッコだが、悲しいかな他の海獣に遅れをとって海に来た新参者である。 クジラやアザラシのように皮下脂肪をためてぬくぬくと暮らせる体に仕上げている暇などなかった。 それで代わりに、素晴らしい毛並みを利用した防寒方法にプラス、体の中で絶えずエネルギーを燃やしておくという方法を取ったのだ。 だから、たくさん食べても、それは体の熱を維持するのに使われるだけで、体に蓄積していく暇もないのだ。
 
 どれだけ食べても太らないって?それはなんて画期的な! と思われているみなさんもいらっしゃるだろうが、そういう方は、思い切り寒いところに行って暮らすというのはどうだろう。 食べたカロリーの多くは奪われた熱を作るのに使われるはずだ。 ただし、ラッコの場合は食べないと凍え死んでしまうのだから、命がけのダイエットではある。




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