ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊
ラッコの道標
第1章 ラッコが日本にやってきた


1-4 道具を使うラッコ

 ラッコの食事といえば、二枚貝をカンカンカンと打ちならして、貝殻を砕く食事風景があまりにも有名だ。 初めてご覧になったときには、きっとだれもが衝撃的だっただろう。
 エリマキトカゲが直立して二本脚で走る姿もある意味では衝撃的だったが、あれはまさに一瞬芸。 ところが、ラッコの貝割りはなんといっても石という道具を使うのだから、インパクトありまくり。旧石器時代の人類はかくや!とさえ思ってしまう。
 ところで、もしかしたら勘違いされている方がいらっしゃるかもしれないので、一つ確認しておきたいのだが、ラッコは石で貝を割るのではない。 正しくは、石をお腹の上に据え付けて、その石床に両手で持った貝を叩きつけるのである。 道具というからには、ハンマーと思い込むのが私たちなのだが、実際には、石ころなんかハンマーとして使うよりは打ち付ける台に使った方がうまくいくのだ。 それは、毎日使っているラッコの方が、ヒトよりもよく知っている。

 しかし、彼らは場合によっては、石をハンマー代わりに使うことだってある。 それは、好物のアワビを捕るときである。 そっと近づいてヒョイと持ち上げることもあるが、それに失敗すると岩に堅く貼りついたアワビは、どんなことをしても剥がれない。 まあアワビの立場から言えば、簡単に剥がれてしまったら、巻き貝のくせにあんなに平たくなっている意味がないのだが……。
 鳥羽の海女さんたちはアワビを磯ガネという鉄製のヘラを使って剥がしてくるが、旧石器時代のラッコに鉄の文明はないから、石をハンマー代わりにして、アワビの殻を砕いてしまうのだ。

 感心するのは、ラッコたちはその石を、必要になったときに慌てて探して間に合わせるだけでなく、お気に入りの石を自分のポケットに入れて持ち歩いていたりすることだ。 道具に対するこだわりさえも彼らは持っているのである。
 ところで、彼らがお気に入りの石を入れておくポケットとは、ダブダブの毛皮を脇でたぐりよせるといういい加減なつくりなのだが、これがけっこう良くできている。 みなさんも簡単に試せるから、ラッコになったつもりでちょっと作っていただこう。 大きめの服を着て(Tシャツとかセーターがいい)、脇のたるみの一部分を両手でつまみ上げ、そのまま上に持ってきて折り重ねる。 それを脇下でぎゅっと締めれば、ほーらラッコのポケットの出来上がり。

 ラッコたちは、このポケットをけっこう重宝して使っている。 お気に入りの石を入れておくだけでなく、海底でいくつも貝を見つけると、両手には持ちきれないから、ポケットに入れるんだ。 石やエサじゃなくても、貝殻の破片とかがらくたとか、気に入ったオモチャをずっと持っていることもある。
 試しに、アサリをいくつまで持てるものなのかと、欲しがるだけどんどん与えたら、なんと27個のアサリをポケットにしまい込んだ。 しかもそのうちの半分以上は外からは見えないのだからすごい。 ラッコの欲張り意識にも恐れ入るが、ポケットの能力にも感心した。 大きな金庫を持っている人ほど欲張りだと聞いたことがあるが、確かにラッコの欲張りは、このポケットの大きさに比例する。

 さて、ラッコが石を道具に使ったり、ポケットを作ったりできるのは、ただ頭がいいからというわけではない。 何にもまして手が器用なのだ。 普通、動物の場合は、前肢とか前脚とか言って、「手」なんていう言葉を使うのはおかしいのだが、ラッコの場合は逆に、前脚と表現するのがピンとこないほど、ヒトの手に近い働きをする脚なのである。
 ちょっと見ただけでは、ドラえもんの手(お腹に秘密のポケットもあるし…)。 でも、ドラえもんがあの手でタケコプターでもなんでも持てるように、ラッコの手も不思議なくらいに上手にさまざまなモノを持ち、毛づくろいをするのである。

  ラッコは時々、「やあ!」といっているような感じで、手を顔の横に上げたりしてくれるので、その時によく見てみるといい。 私が手だとか手のひらとか表現しているわりには、指は申し訳程度にしか存在せず、手のひらもなんかボテッとして、とてもじゃないが器用に何かができるようには見えない。 しかしこのボテッとした手のひらが、器用さの秘密である。さらによく見てみると、手のひらのボテッはちょっと複雑な凹凸を持っているのが分かる。 いくつかの谷に分断された隆起といえばいいだろうか。その隆起した部分は、ずいぶんざらざらとした感じである。
 この手のひらの隆起を「肉球」と呼んでいるが、肉球こそラッコにとっての指の役割を果たすものなのである。 両手を使ってはさみ込んでしまえば、隆起のざらざらがモノをしっかりと押さえることができるのだ。 ざらざらは、粒だっているのではなく、細かい筋が縦横にひび割れているためにそう感じる。

 飼育係はエサをあげるとき、ラッコとのちょっとした挨拶に握手をしている。私もそれをさせてもらったところ、表面的には堅くてザラッとして、でも中は柔らかく、吸い付くような不思議な感触だった。 それに思ったよりも両手ではさむ握力(?)は強い。私の指にぶら下がるような勢いである。
 この小さな手で持つ貝はその3倍もある。 そいつを石に叩きつけて割るのだから、よほどしっかりと持つ必要があるし、皮膚だって相当堅くなければならない。 いや、貝だけではない。 堅くて強い棘のある大きなカニや、それこそ棘だらけのウニだってラッコは食べるのだ。 もし、丈夫な顎を持ったライオンやオオカミに大型のカニやウニをあげても、嫌な顔をするに違いない。 手の使えるサルだってきっと面食らうだろう。 そう考えると、ラッコの小さな手は実によくできた手である。 そしてラッコの生活にとって、その手はヒトの手と同じくらい重要な部品であることがよくわかる。

 ヒトの進化を簡単に表せば、サルの祖先たちと一緒に木の上の生活をしていた頃から前脚が発達していたが、やがて直立歩行をするようになってからは、その器用な前脚を自由に使えるようになり、しだいに道具を使うようになっていったのだろうと想像されている。 ラッコの場合も、海に入って仰向けの生活を送るようになってから、もともと器用に使っていた前脚が自由に使えるようになった。 ラッコの手が道具が使えるようになったのは、彼らが仰向けの生活をするようになったからなのだろう。
 そして、そのラッコの仰向け泳ぎこそ、彼らを不思議な動物にしている現象である。いったい仰向けで生活をしている動物など他にいるのだろうか? どこまでが頭かどこが背中かさえもわからない無脊椎動物は別にして、ホ乳類にも、鳥類にも、爬虫類にも、両生類にも、そんな動物は思いつかない。 魚類にはいた、その名もサカサナマズ。 こいつは常に腹を上にして泳ぐアフリカの小さなナマズだ。 あ、もう一ついた。アマゾンで見たナマケモノも仰向けになって木のてっぺんにぶら下がっていた…が、あれが仰向きになって暮らしていると言えるのかどうかはちょっと疑問である。

 ちょっと待てよ……、いったいぜんたい、動物は普通なぜ仰向けになって暮らさないのか? まず、当たり前の理由なのが、普通の陸上の脊椎動物の祖先であった古代の魚類が、みんなお腹を下にしていたから。 そのまま地上に上がってくるとなると、お腹を下にするのは当然で、しかも地上では前に進むための推進力は、地面を蹴るしかないから、お腹の側のヒレが脚に変化して、結果、ますますお腹と背中の位置関係がはっきりとなっていったということだろう。 なんだ、すごく簡単なことではないか。
 しかし、すると今度は、なおのことラッコが仰向けになっているのは何故なのかが益々疑問である。 海獣だからというのは理由にならない。 クジラもジュゴンも、アシカもセイウチも、みんなお腹を下に背中を上に泳ぐ。 クジラの仲間など、そのために鼻の穴を頭のてっぺんまでずらしたほどなのだから、それがいかに大切なことだったのかがわかるというものだ。 ただ、水の中ではあまり天地のことは考えなくてもいいのも確かではある。

 例えば、鳥羽水族館の海獣の王国というゾーンは、鰭脚類と呼ばれるアシカやアザラシの仲間のための大きなプールなのだが、この水中ギャラリーから水中を覗くと、彼らは観覧用の窓に向かってくるときには必ず仰向け泳ぎなのである。 そして、どういうわけか向こうに戻って行くときには、必ず普通の状態で泳いでいく。 カリフォルニアアシカ、アフリカオットセイ、オタリア、ゴマフアザラシ、どの種類であろうが、この法則は変わらない。
 想像の範囲を出ないが、きっと彼らは窓に向かってくるときには、ヒトの顔を見ていたいのだと思う。 しかし、普通に泳いでくると、大きな目が上にくるので、海面が眩しくてしょうがないのではないだろうか。裏返っていると、目は影になるから、しっかりと目を見開いていても、あまり眩しくない。そんなことがそろって裏返り泳ぎで近づいてくる理由なのだと個人的には納得している。

 まあ、その真偽はともかく、なにせ彼らも水中で仰向けになることにはなんの抵抗もないようだ。 さらに、オットセイたちは、水面に浮かんでボーっとしているときなどは、脚を空に上げてみたり、横になってみたりと、ラッコに近い姿で海上に浮かぶことがよくある。もちろん普段泳ぐときには、お腹を下にした普通の泳ぎ方なのだが、プカプカ浮かんでいるだけの時には、仰向けもありなのである。
 どうやら、ラッコは浮かんでくらしているから、仰向け泳ぎが楽なのだということらしい。 よく考えればラッコだって水中を泳ぐときには、仰向けではなく、背中を上に、顔を前方に突き出して泳ぐ。 ただ海面に浮かぶ時の格好だけが仰向けなのである。 私たちヒトも、水面に浮かんでいるだけの姿勢をとれと言われたら、仰向けになって浮かぶだろう。 それはひとえに、腹を下に向けたままで浮いていたら、首を横に向けない限り窒息するからである。
 普段、浮かんでいることの多いラッコである。 泳ぐこともないのに、うつぶせになって浮かんでいたら、呼吸するたびに首を上げなくてはならないから疲れてしまう。 よく空気は必要だけどあまりにも当たり前すぎてその大切さに気付かないなんていう言われるが、その通り。 海獣だって呼吸をするために特別なことをしていては困るにきまっている。
 一言で言えば、ラッコが仰向けでいる理由は、「楽して浮かんでいたいから」というわけである。 仰向け泳ぎは、手を使える環境を作り、お腹の上をテーブルにしたり、調理場にするという高度な生活戦略に無くてはならないもので、ラッコは最初からそんなことを狙っていたわけではないのだろうが、それらの要因が重なって、仰向け浮かびへの進化の道を歩み始めたのだろうと思うのだ。




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