ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊
ラッコの道標
第1章 ラッコが日本にやってきた


1-5 ラッコのハンドパワー
 なんだか、ラッコの食事にまつわる話ばかりを書いてしまったが、別に「ラッコの魅力は食事にあり!」という訳ではない。 確かに最初の頃は、やっぱりそう思っておられる方が多くて、「エサを食べるところを見に来たのに、なぜエサを食べていないのだ!金返せ!」とか、「せっかく食事の時間まで待っていたのに、イカしかあげていないのはイカサマだ。貝にしろ!」などという苦情も何度もいただいたものである。

 それはまあ確かに、貝を割るラッコは面白いのだが、それよりももっと飽きない時間だっていくらもある。 その一つがグルーミング(毛づくろい)の時間だ。 きっとこの本を買ってくれたくらいラッコ好きのみなさんなら、賛同してくれるだろう。
 ラッコが発見された当時の記録に、「この動物には寄生虫が多いようで、すべての個体が体を激しく掻いている」とまで書かれていたという不思議なグルーミング。もちろん、体がかゆくて掻いているわけではない。

 グルーミングしているラッコの不思議さといったらない。 とにかく回る回る、グルグル回る。 横にも回れば縦にも回る。 横と縦を同時にやってねじって回ることだってある。 回り始めたら、どこで止まるのかさえわからない。 止まったと思ったら、頭を自分の股ぐらに突っ込んでいたりする。
 さらに、そうやって回っている最中に、手は体を掻く掻く、めちゃくちゃな速度で体中をこすっては掻き、こすっては掻き。 そして回るのを止めると、両手はますます早く器用に動き始める。 一部をつまんではこすりつまんではこすり、時には口でふーふーと空気を吹き込んだりもする。
 そして、なんと言っても圧巻は頭と顔のグルーミングだ。 頭をグルーミングするさまは、美容師さんも唸るほどの見事なシャンプーさばきで、何度見ても思わず笑ってしまう。 さらに顔をグルーミングし始めたら、もう笑いは止まらない。 百面相といえばいいのか、福笑いのオカメ顔と言えばいいのか、表現のしようがないほど顔をつぶしてみせる。 まるで顔の皮がたるんで頭蓋骨から外れてしまったかのようなのだ。

 たとえ貝を割っているラッコを運良く見たとしても、このグルーミングを見ずして、ラッコを見たとは言ってはいけない。 そしてさらに言えば、グルーミングラッコを見たとしても、なぜこんなパフォーマンスをしてくれるのかを知らずに、ただ面白かったで済ませていたら、やっぱりラッコを知っていることにはならない。 だから、今度はちょっとグルーミングの話である。

 ラッコは冷たい海で暮らしているにもかかわらず、皮下脂肪が非常に少ない海獣だ。 もちろん、それを補うために、カロリーの高い食事を大量に摂るのではあるが、それだけでは零下何十度という風や、凍る寸前の海で生きていくことはできない。 そこで、ラッコは希にみる上質な毛皮をまとっているのだ。
 しかし、服を着たまま海に飛び込んでみれば分かるが、衣類にしても毛皮にしても水に濡れてしまうとその意味を成さない。 ウールのセーターが暖かいのは、毛が暖かいのではなくて、毛と毛の間に閉じこめられた空気が、温度を伝えにくい層をつくり出していているからだ。 おなじみのダウンジャケットや羽毛布団だって、羽毛自身にはなんの暖かさもないのだが、その羽毛が捕まえている空気の層があるから用を成すのである。

 すると、ラッコのように年中海に暮らしている動物であれば、朝起きて潜ったとたんに、ほとんどの保温力を失ってしまうはずなのだ。 そこで、ラッコはこの毛を常に万全の状態にしておくために、グルーミング(毛づくろい)をしなくてはならない。
 器用な手は、グルーミングをするのにも最適である。 そして、仰向け泳ぎも意味がある。毛を乾かす為のグルーミングを水中でしてもしょうがないから、両手をグルーミングのために使おうと思うと、仰向けになるしかないのだ。 また仰向けでいれば、頭だけはとりあえずずっと水面上に出しておけるから、余分なグルーミングをしなくて済むだけ得なわけなのである。

 ラッコの毛皮はミンクよりも上等だとされているが、それは空気の保存機能が非常に高いからである。 ラッコの毛は、一つの毛穴から、一本のガードヘアー(上毛)と、70本程の綿のようなアンダーファー(下毛)が生えている。ガードヘアーは普通に見えている毛で、少しごわごわして、どちらかといえば体を守るための毛である。
 そしてアンダーファーが(アンダーヘアーでもないし、下毛はシモゲではなくシタゲと読んでいただきたいのだが)、空気をため込み、保温のための空気の層を作っている毛なのである。
 オットセイなども同じような造りにはなっているのだが、ラッコのアンダーファーは8〜10億本と数が多く長いから特別性能がいいのだ。 この空気の層は、ラッコが水中に潜るときに、水圧で小さな泡となって絞り出されることで見ることができて、水中深く潜っても、水が直接肌に触れることがないほどの空気がしっかりとアンダーファーに保たれている。

  そしてラッコは、そのアンダーファーの性能を保つために、一日中常に毛づくろいに追われているというわけなのだ。 特にお腹は、調理場のマナ板兼食事のお皿がわりに使っていて、使うたびにエサの体液や脂で汚れてしまうから、その汚れがこびりつかないようにしなければならない。 だから食事の最中にもしょっちゅう、お腹を掻きながらグルグルと回り続けているのだ。
 食事が終わると、すっかり汚れたお腹と、すっかり濡れてしまった背中をきれいにして乾かすために、それはそれは必死になって体を洗う。 それがクルクル回りながら体を掻く図なのである。 寄生虫がたくさん付いている不潔な動物どころか、世にも珍しい潔癖性の動物だと言った方がいい。

 毛を乾かすのには、もちろんドライヤーも乾いたタオルもないから、自分の手を使って、素早く毛を手入れしていく。 まず濡れた毛を束にしてぎゅっと握って水を絞り出す。
 ついで撥水性のある毛をもみしだき、さすることで乾かしていくのだ。 なかなか乾かない毛があると、口を近づけてふーふー吹きながら、息をドライヤーがわりに使うこともある。
 濡れたハンカチを乾かすのでも一苦労なのに、体中の毛を乾かすなんてことは、水に浸けたセーターを乾かすのと同じくらいとんでもないことだと思うのだが、健康なラッコの毛は水をよくはじくし、アンダーファーがためている空気の層がよほどしっかりとしているのだろう。彼らの毛は見る見るうちに乾いていく。

 ラッコのグルーミングは、適当にやっているように見えるが、かなりの技を要するものらしい。 ラッコが病気や老衰で弱ると、自分でグルーミングができなくなるので、そんな時には飼育係が代わりにやってあげるのだが、どうやってもうまく乾かないのだ。
 飼育係が行うときにはドライヤーまで使うというのにである。 もちろん健康なラッコの毛はそれ自体撥水性が高いということもあるのだろうが、やはりヒトの手はラッコの手にはかなわないというのが実感なのだ。
 飼育スタッフの一説によれば、ラッコの手のひらの細かいひび割れにその秘密があるのではないかという。 細い毛が細かい筋に入って、一瞬のうちにエサの脂などの汚れを取り、さらに水を搾り取るのではないかというのだ。 その真偽はともあれ、彼らはこれを「ラッコのハンドパワー」などと呼んでいる。

 しかしそれにしても、水分がすっかり取れたときには、いいかげんぐったりしているから、ラッコはすぐに眠りにつく。 もちろん仰向けになって水面にプカプカ浮くのである。 きれいにグルーミングした後の眠っているラッコの毛は、よく乾いてつやつやとしている。
 濡れていたころよりも三回りほど大きくふっくらと感じるのは、グルーミングが上手くいって毛が立っている証拠だ。 また、アンダーファーにため込まれた空気は、寒さを防ぐ以外に、体の浮力を増やしてもいる。 つまり、ラッコはアンダーファーというライフジャケットを着ているようなものなのである。



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