ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊 2000,11.1
ラッコの道標
第2章 ラッコの文化、ヒトの価値観


2-4 ヒトの価値観
  磯ップ物語『残酷な食事』
なかむら はじめ

 二人のラッコが、テレビでアマゾンの特集を見ていました。
 たくさんのピラニアが、川を流れてきた動物の死体に群がっています。 みるみるうちに動物は白骨化してしまいました。
「うわー、ひどい!残酷な食べ方ね。私たち、アマゾンに住んでいなくてよかったわね。」女の子のラッコが言いました。

 次に紹介されたのは、ヘビがカワウソを食べるシーンでした。 アマゾンにいるヘビはみんな毒蛇ですから、狙われたカワウソは咬まれたらひとたまりもありません。
 ヘビに体をぐるぐる巻きに絞められ、毒牙でとどめをさされて、カワウソはぴくぴくと息絶えます。ヘビはそれを頭から丸飲みするのでした。
「ひゃー!こっちの方が残酷だよ。 ぼくらの仲間が、ヘビなんかに丸飲みにされるなんて見ちゃいられない。 なんて残酷な食事なんだ」
 男の子のラッコが両手で目を覆って叫びました。

 番組が終わったので、ラッコたちは食事の時間にすることにしました。
 今日は美味しそうなカニが捕れたようです。
「私はね、カニに鼻を挟まれるのが嫌だから、まずハサミをもいじゃうのよ。」
「ぼくはね、お腹の上から逃げだそうとするから、まず足をもいじゃうよ」
 ラッコたちのお腹の上で、ハサミをもがれたカニと、足をもがれたカニは、まだ生きたまま、食べられるのを待っています。
「さっきのテレビ、残酷だったね」
「うん、ピラニアもヘビも大嫌いよ。」
 ラッコたちは、残酷な食事の話しに夢中になりながら、哀れなカニに食らいつきました。
it's伊勢・鳥羽・志摩「磯ップ物語」第1話より


 いかがだろう?私たちには、この話しのような一方的な思いこみが多くないだろうか?
 ラッコたちは実に頭がいい。 カニやロブスターを食べるときには、まずハサミをもいでしまう。 カニは歩いて逃げないように脚をもぎ、エビは跳ねて逃げないように胴と尾を切り離す。 とにかくいきなりガブリとかぶりついたりはしないのだ。
 それは、私たちヒトの文化と似ていて興味深い。「わあっ!ラッコって可愛いだけじゃなくて、頭もいいのね!」となる。 俗っぽい私なんかは実にそうなのだが、ヒトと似ている動物には親しみが持てるのだ。 いや、もしかすると姿が可愛い動物には、ヒトに似ているところを無理にでも探し出そうとしているのかもしれない。

 そして逆に、ピラニアやヘビといったヒトとは異形の動物に、仲間のホ乳動物が食べられるのなんてどうしても許せない。 そいつらは残忍で冷血で憎むべき相手になってしまうのだ。 「凶暴なジャングルの人喰い魚ピラニア」というフレーズに、背筋が凍り、頭の中ではピラニア伝説がさらに広がっていくのである。
 だから、活劇映画の悪党の根城に池があれば、そこには必ず腹を減らしたワニかピラニアが飼われ、運悪い下っ端悪党が悲鳴を上げながら喰われるというのは定番となった。 それほどピラニアは「人喰い」として名前の通った魚だといえる。

 新米飼育係の頃の話し。 鳥羽水族館の入り口にどういうわけか、2匹の大きなピラニアが入っている水槽があった。
 先輩飼育係に、その水槽の中をスポンジで磨けと言われたときには心底ビビッた。鋭くむき出されたノコギリのような歯、三白眼、スキンヘッドを思わせる額、ギラつく鱗に喧嘩の古傷と、ピラニアの人相はすこぶる良くない。 しかも水槽に貼り付けられたキャプションにはご丁寧にも「ピラニアナッテリー。アマゾンの人喰い魚。ピラニアの中でも最も凶暴」などと書いてあるのだ。
 しかし、先輩飼育係はひるむ私を横目に、彼の手を水槽に突っ込んで磨き始めたのである。 えらいことが起こるぞ!と思う心は簡単に裏切られてしまった。 ピラニアは逃げ回っているのだ。 その時には「ピラニアは臆病な魚だ」と教えてはもらったのだが、それがなぜなのかは先輩も知らなかった。

 後にアマゾンに行ったとき、アマゾンで生まれ育った船のクルーにその理由を教えてもらった。 ピラニアは川にウジャウジャいる魚で、アマゾンの中では、海のイワシやアジのように食物連鎖の底辺を支えているのだ。 だから大きな動物の影がやってきたら、一目散に逃げなくてはならない。
 そしてアマゾンには彼らが食べるエサというのがほとんどないのである。 時折流れてくる、死にそうになっているか死体となっている動物が彼らのご馳走だ。 こんな時には、固い皮も、骨と骨の間のわずかな肉片でさえ食べあさらなければならないから、あのむき出した大きな歯が必要だし、堅い額が大切なのである。
 ピラニアにとっては、生きていく上で必要な顔であって、他人様を恐怖におとしいれるための形相ではない。
 ただ、ピラニアが危険な時もある。それは、乾季の時などに川が干上がって、小さな池や淵に残されたピラニアたちである。 食べるものもなく飢えて狂ったようになったピラニアの群の中に足を踏み入れると、一瞬のうちに白骨にされてしまうというのだが、そんなところに好んで足を踏み入れるヒトなどいないだろう。

 なんということか、ピラニアは、私がそれまで20数年間信じていたほどに凶暴でもないし、積極的に人喰いをしている魚でもなかったのだ。
 ここまで話しても信じられない方は、鳥羽水族館のピラニア水槽で飼育係が掃除をするところをご覧いただくといいだろう。 お決まりのように水槽の中には白骨がディスプレイされてはいるが、水中マスクをつけた飼育係は、水槽に頭を突っ込んで掃除するのである。 その間ピラニアたちは、あっちへウロウロこっちへウロウロしながら、困ったような顔で途方にくれているだ。

 さて、そんな臆病なピラニアと、カニのハサミや脚をもいでから食べるラッコ、いったいどっちの食事の方が残酷なのだろうか?言うまでもなく、食べられる側の気持ちになれば、ラッコに食べられる方がつらい。
 しかし、「残酷な食事」のラッコたちと同じように、私たちはそれを素直に受け入れることはなかなかできないのである。
 同じ食事なのに、一方の動物は可愛くて頭がいいと言われ、もう一方の動物は残酷で冷血だと評される。 それは、ひとえに、ラッコの方がヒトの常識に近い動物であり、さらにいえば常識的に可愛いからである。

 サルやイルカがいかに利口なのかを実験するために、鏡を与えたり、道具を与えたり、あるいは言葉を教えたり、つまりヒトにいかに近いかを試すことがある。 そして数の概念を認識したり、ヒトの言葉を覚えたりすればもう、天才チンパンジーちゃんとか、天才イルカくんとして脚光を浴びる。
 確かにその子たちの学習能力は絶賛に値するし、物事を重ねながら思考していく力に、彼らの潜在能力のすごさを感じる。 また、言葉を教える方法を考え出した学者たちにも尊敬の念を抱く。一 昔前ならマッドサイエンティストの仲間入りであるが・・・・。それが役に立つ役に立たないは別にして、ヒトや動物の能力を探求してみたくてしょうがない人たちなのである。 何を隠そう私は、そういう話がすごく好きなのだ。

 しかしである、だからといってサルやイルカが、利口だとか天才だとかではないだろうと思うのである。 数が計算できても、ジャングルや海ではなんの意味もないし、ヒトと意志疎通することができる程度なら、犬や馬の方がはるかに理解しあえる。だいたい、学者たちがチンパンジーに言語を教えるのは、別に天才チンパンジーをつくったり、ターザンとチータのような関係を作ろうというのではなくて、ヒトの言語についての謎解きをしたいためなのである。

 天才とは天賦の才。 それならチンパンジーの天才度はやっぱり木に登ることだろうし、イルカの天才度も、泳ぐことや音波でエコーロケーションをすることである。 もちろんミミズが土地を耕す才能とか、犬がかすかな臭いをかぎ分けられる才能なんかは、もう超天才的な能力である。
 ヒトもそろそろ、常識やものごとの判断の基準を変えるべきだと思う。 金儲けの天才とか計算の天才なんて、ヒト以外の動物たちには、ほとんど価値のない才能である。 もしかしたら試験で100点とか、暗記の天才とかも、クイズ番組で商品をゲットする程度の才能でしかなくなってきたのかもしれない。

 チンパンジーのアイちゃんほどにも日本語が理解できない外国人が、日本に住んで日本の未来に貢献することが必ずあるだろうし、ミミズのように畑を耕す天才は、ヒトが人類であろうとする限り必要な天才である。 今までの常識に縛られていると、本当に大切な才能が見えなくなる。 新しい才能の芽を踏みつぶしてしまわないためにも、「ラッコは賢い、ピラニアは残酷」的な思いこみだけは捨ててしまいたいものだと思うのだ。



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