ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊 2000,11.11
ラッコの道標
第3章 いたずラッコ日本上陸


3-1 鳥羽にラッコがやってきた
 多くの方が、ラッコを日本で初めて飼ったのは鳥羽水族館だと信じておられるようだが、実は鳥羽水族館にラッコがやってきた1年前に、伊豆三津シーパラダイスという水族館で飼育を始めている。
 さまざまな事情で、ほとんど広報がなされなかったために、私が満身の力をかけて広報に努めた鳥羽水族館のラッコが、日本で初めてのお披露目のように思われるようになったのだ。
 しかし、先駆者としての三津シーパラダイスには敬意を表したい。 先駆者の苦労の経験があったからこそ、鳥羽水族館での飼育が成功したのである。

 鳥羽水族館でラッコの飼育責任者となったのは、鯨類のエキスパートで伊勢湾に住むスナメリの繁殖を、世界で初めて成功させた古田正美であった。 現在の飼育研究部の責任者である。
 鳥羽水族館にアラスカのラッコがやってくる前に、古田は四方八方に手を伸ばして、ラッコの飼育や生態について調べると共に、輸送についての問題点などを一つ一つクリアにしていった。 当初、鳥羽水族館へのラッコはアメリカのシアトル水族館から贈られることになっていたから、そのほとんどはシアトル水族館からの情報だった。

 彼が最も気をつかったのが、もちろん飼育プールである。 ラッコが住んでいるのはアラスカの海。 イルカやアシカに比べれば体は小さく行動範囲も狭いラッコだが、閉所恐怖症に陥るようなものではいけない。 さらにアラスカの海と同じ水温が望ましいし、気温もかなり下げなくてはならない。

 結局鳥羽水族館では、ラッコのために新しい建物を建てることにした。
 2階建てのビルで、1階はすべて水中、2階は水面と陸の観覧スペースである。 幅8.5メートル×奥行き5メートル×深さ3.5メートルのメインのプールと、幅4.5メートル×奥行き5メートル×深さ1.2メートルのサブのプールを用意した。 2つのプールは陸上と水中で繋がっているが、いつでも仕切を入れることができる。
 当時、ラッコの飼育プールとしては世界で最も大きく立派なプールだった。
 プールの水温は夏でも9度から12度に、室温も12度前後に保ち、さらにアラスカの気候に合わせていくつもの除湿器を入れて、プールのある部屋なのに湿度は低いという状態までつくり出した。
 水温や室温を下げるといっても、濾過槽まで入れると200トンもある大量の水だから、普通の冷房のように簡単にはいかない。 巨大な冷蔵庫を作るような設備が必要だった。

 実はアメリカではカリフォルニアラッコという、かなり南の方に住んでいるラッコがいるために、水族館で飼育するときにも、水温には気をつかうものの、気温に関してはオープンなスペースで飼育されていたのだが、古田と副館長の片岡は水温だけでなく気温にこだわった。 これも世界で初めてのことだった。

 ところで、せっかく水温を低くした海水も、ラッコたちがすぐに汚してしまう。
 だから常に濾過しなくてはならないのだが、濾過のためには濾過槽に濾過バクテリアを生かさなくてはならない。 ところが濾過バクテリアは低温では活発に働いてくれないのだ。
 さらにラッコは大量の毛をまき散らすし、エサからでる脂や、ラッコの大量で消化の悪い糞も通常の濾過では間に合わない。 そんな問題を一つ一つ片づけていったら、ラッコ舎は鳥羽水族館創立以来の大工事になってしまった。

 設備だけでなく、プールの中にはちょっとした遊び心もあった。 陸上部の床をプールに大きくオーバーハングさせて、直径1メートルほどの水中へ繋がる穴を開けておいたのだ。
 ケルプの森で遊んでいるラッコだから、こんな穴があればきっと遊びに使ってくれるだろうという飼育係の配慮だった。 この穴は思いの外ラッコたちに気に入ってもらえ、その後日本中にできた多くの水族館のラッコプールには、たいてい同じような穴が開けられていた。

 こうして出来上がったラッコ舎は、舎というよりもビルであり、多額の資金を銀行に借りねばならなかった。 果たしてこんな田舎にこれほどの設備をしても大丈夫なのだろうか?と心配もしたが、それを決断する館長は「ラッコのためなら、借金コンクリート」なんていう使い古された駄洒落を連発しながら、すべてを副館長と飼育係にまかせていた。
 もちろん飼育担当者にとって何より心配だったのは、ラッコがちゃんと飼育できるかどうかだったから、とにかく後先考えずに、最高のプールを用意することを最優先にしたのである。

 こうして、世界最高のラッコプールは完成したが、ラッコの飼育担当に選ばれた者たちは、だれもその飼育の経験はなかった。
 あまりにもバタバタとさまざまなことが決まってしまったので、鳥羽水族館の飼育例では珍しいことに、ラッコが住んでいる場所で観察や調査をする暇もなかった。
 いや実を言えば、責任者の古田をはじめ、全員がラッコを見たことさえなかったのだ。 古田はラッコ飼育に成功しているシアトル水族館と連絡を取り、さまざまなアドバイスを受けていたが、最終的にはラッコにだけ特別と思われる基本的な事項だけをしっかりと頭に叩き込み、それ以外に関しては、彼の今までの数多い動物飼育の経験と、友人の獣医の知識をフルに活用することに決めて成田に向かった。

 そして1983年10月3日、成田空港にラッコたちがやってきた。
 アラスカの地から13時間。 アメリカの海獣専門の獣医たちの手によって、空港まで運ばれてきたラッコたちを、ここからは陸路で鳥羽まで運ばねばならない。
 鳥羽水族館からは大型の冷凍車を用意していた。 飛行機から降ろされる荷物にビデオカメラのレンズを向けると、望遠レンズの向こうに、犬用の移動用ケージに入れられたラッコが見えた。
 鼻を上に向けてクンクンと臭いを嗅いでいるようだ。 彼女たちにとって初めての日本の空気なのである。

 近くで見ると、ラッコたちは思ったより元気そうである。 荷台の中の温度は2度に保たれて、めいっぱいの氷と、酸欠状態にならないための酸素ボンベが積み込まれていた。 迎えた飼育スタッフは古田を入れて6名。 交代で4名が冷凍庫に入る。
 当日はとてもいい陽気で、すれ違う車に乗っている人たちにはまだ半袖の人もいたのだが、鳥羽水族館のスタッフは全員分厚い防寒具に身を包んでいる。 パーキングエリアでトイレ休息するたびに、冷凍車の後からぞろぞろ出てくるイヌイットのような服装のスタッフに、まわりの人たちはビックリしていた。

 成田から鳥羽までの600キロ、トイレ休憩しか取らずにひた走りに走ってきたが、鳥羽水族館に到着したのは午後11時、成田から12時間、アラスカからは26時間の旅だった。
 プールに放されたラッコは、疲れていたはずにも関わらず、すぐにすさまじい勢いでグルーミングを始めた。 運んできたスタッフと鳥羽水族館で待ちかまえていた飼育係全員の緊張感が取れ、歓声が上がった。 そこに居合わせたほとんどのメンバーが、ラッコが泳ぐのを初めて見たのだ。

 ラッコの担当者になった若い石原良浩も、そんな初めてラッコを見る飼育係の一人だった。 彼は最初はスナメリの飼育を担当し、次いでバイカルアザラシを担当していたが、動物に対する細かい気配りに天性のものがあり、どんな動物も彼に安心して身をあずけるので、新しい動物ラッコの担当者の一人として選ばれたのだ。 当時のラッコ担当者で、今も変わらずラッコを担当しているのは石原だけである。 

 しかしその担当初日の石原には、初めて見るラッコに感動したり、見入ったりしている暇はなかった。 ラッコたちがグルーミングを終えるのを待って、すぐにエサを与えた。 彼はその時のことを今でもよく覚えている。
 アラスカからアメリカの獣医たちが持ってきたエサ用のイカはかなり状態が悪く、彼に言わせればイカの塩辛のようだった。 彼らがそんなエサをラッコに与えるのを、日本側の責任者である古田は我慢できず、用意してあった新鮮なイカを与えた。
 アメリカの獣医たちは、日本のイカには慣れていないからと快い顔をしなかったが、ラッコたちは喜んで食べてくれた。

 弱ったことに、そんなささいな事から、もっと大変なことまで、アメリカの獣医と鳥羽水族館のスタッフの間には、いくつもの見解の違いがあった。 それはアメリカから付き添ってきた獣医たちが、研究者ではあっても動物の飼育を経験していないことから起こるズレだった。

 次の日、後にプックと呼ばれるようになったメスのラッコが、ぐったりとしたまま全身を震わせ始めた。 鳥羽水族館についた時からあまり状態が良くなかったのだ。 お腹の毛が乾かずに濡れきっているままだ。
 古田も彼の友人である日本人の獣医も、このままでは肺炎にかかると考えた。 アメリカの獣医たちは、放って置いた方がいいという見解であったが、古田の頭の中には、シアトルからのアドバイスの一つが強くよみがえる「とにかく毛を乾燥させること」そして彼自身の多くの野生生物を飼育してきた経験が、動物がケイレンを始めたらもう時間がないと叫んでいた。

 古田は日本人獣医と相談し、反対するアメリカの獣医を押し切って、犬用の肺炎予防の注射を打った。 次いで送風機とタオルを使ってそのラッコを強制的に乾かしたのだ。
 アメリカの獣医たちは怒りを露わにして副館長に抗議したが、副館長は取り合わなかった。 現場で育ってきた彼は、現場の判断の正しさを信じていたのである。 結局、その処置はすぐに効果を現し、ラッコはみるみるうちに元気を取り戻していった。(後にアメリカの獣医はその処置の効果を認め、注射の処方を教えてくれと尋ねた)

 そんなアメリカからの獣医たちとのズレに焦燥感を覚えながらも、鳥羽水族館のスタッフは、それでもなんとか根気よく相手を説得し、問題点を解決していった。
 ラッコたちは長旅でかなり弱っていて、一歩間違えば死に至るところであった。 そしてラッコを見たことはなくとも、それまでの事前勉強と、なによりも様々な動物を扱ってきた飼育係の経験が、4頭のラッコたちをなんとか鳥羽水族館の飼育環境に馴染ませることができたのである。

 3日後、アメリカの獣医たちは副館長に、貴館のスタッフは優秀だと感想を述べて帰国した。 4頭のラッコたちは、やっと鳥羽水族館のスタッフの飼育下に置かれることになった。 そして飼育担当者たちだけによる、長い24時間観察体制が始まったのである。



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(C) 2000Hajime Nakamura.

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