ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊 2000,12.11
ラッコの道標
第4章 ラッコの赤ちゃん誕生


4-2 母親の母性本能
 しかし、赤ちゃんが生まれた翌日、ラッコのプールでは大事件が起きたのである。
 メスのラッコたちは、プックに赤ちゃんが生まれたことにそれほど感心を示さなかったが、男の子のコタロウだけは、プックのお腹に乗っている赤ちゃんに異常に興味を持っていた。
 プックが持っている不思議な物体はなんなんだ?プックはずいぶん大切そうにしているし、時々ピーピーとか変な音も立てる。 きっとめちゃくちゃ面白いオモチャなんだ・・・・などと考えていたのだろう。 隙を見ては赤ちゃんに手を出そうと、何度もプックのそばに近づいていたのである。 その度に、プックに撃退されていたのだが、コタロウの好奇心は納まらない。

 そして、プックが自分のグルーミングのために赤ちゃんをそばの水面に浮かべたとたん、古田の目の前で事件は起こった。
 隙をうかがっていたコタロウが、ついに赤ちゃんをさらうことに成功したのだ。 プックは慌ててコタロウを追うが、コタロウも取られてなるかと、ものすごい勢いで水中に潜ってしまった。

 古田は青ざめた。今までラッコの赤ちゃんは、一度も水中に潜らされたことがなかったからである。 この一瞬の間に、赤ちゃんはすでに水を飲んでいるかもしれない。 しかしすぐにプックは赤ちゃんを取り戻した。 赤ちゃんは無事だった。
 古田はすぐさま、母子とコタロウを隔離することを決断した。母子を何かあればすぐに水が抜けるサブプールのほうに入れるのだ。 サブプールが深さ1.2メートルと浅く造られているのは、すわ一大事というときに、飼育係がプールの中で立って作業ができ、かつ水を抜くのに時間がかからないようになっているのである。
 また、サブプールの方は、窓がハーフミラーのガラスになっていて、中から観客席が見えないのだ。 いつか赤ちゃんを公開しなくてはならないので、それも好都合だった。

 しかし、本当の事件はそれからだった。 石原がプック母子をサブプールに追い込もうとしたとたん。 プックは突然怯えて赤ちゃんを抱いたまま潜ってしまったのだ。
 さっきコタロウに奪われたばかりである。 今度は飼育係が大切な赤ちゃんを取り上げようとしていると思い込んだのに違いない。 プックの怯え方はあまりにもすさまじく、顔を出したと思ったら、またすぐに潜るということを繰り返すのだった。

 赤ちゃんは苦しくてキィー!キィー!と泣きわめくが、プックにはそれも聞こえないか、それとも恐怖心を募らせる原因になっているのかますます興奮するばかり。 古田たちはプックに落ち着けと祈るが、10分たっても20分たってもその行動は終わらなかった。 ついに30分後、赤ちゃんはぐったりとしてもう声をあげることもなくなってしまった。 言葉を失った古田たちの前で、悲しい母親プックはまだ潜り続けた。 そしてその10分後やっとプックの興奮は納まった。

 我を取り戻したプックは狂ったように赤ちゃんのグルーミングをするが、赤ちゃんはぐねぐねになったまま壊れた人形のように形を失っていた。 生まれたばかりの体力のない時に、40分も潜水をさせられたのだ。 途中まで鳴いていたのさえ奇跡だと言える。 5分ほどすると、赤ちゃんはいつものフワフワの毛玉に戻ったが、それは魂のない毛玉だった。
 観察日記にはこう記されている 「ついに赤ちゃんは、本当のヌイグルミになってしまった」と。 しかし、その時、肩を落とし今後の処置を考える飼育係の耳に、キィー!という声が届いたのだ、弱々しくはあったが、確かに赤ちゃんの声だ。
 「生きてるぞ!」赤ちゃんは動き出した。 プックの必死のグルーミングが奇跡を起こしたのだ。



 ラッコの道標目次に戻る          次を読む 

essay
rumin'essay表紙へ

rumin@e-net.or.jp
home
地球流民の海岸表紙へ

(C) 2000Hajime Nakamura.

禁転載