ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊 2000,12.21
ラッコの道標
第4章 ラッコの赤ちゃん誕生


4-3 水族館を変えたラッコ 
 ところで、本当はそのサブプールには母子だけを入れることにしたかったのだが、プールを仕切るときに、モコモコも一緒に入ってしまった。 ところがモコモコは臆病で、一頭でそこから出られないのである。 結果的に、プックと赤ちゃん、それにモコモコが狭いサブプールに入り、やんちゃなコタロウと親代わりのエミが広いメインプールで暮らすことになった。 モコモコには気の毒な話である。

 ハーフミラー造りの窓がついたサブプールに入ったおかげで、母子の一般公開は、その数日後になった。 プレス関係にも公開され、全国にかわいいラッコの赤ちゃんが日々大きくなっていく様子が伝えられるようになった。
 ラッコがやってきたときからずっと追い続けていた動物番組では、毎週のようにラッコの赤ちゃん成長記録が特集され、ラッコの赤ちゃんが出れば、視聴率が上がるとさえ言われるようになった。
 そんな中で生まれた赤ちゃんの愛称募集が行われると、今度は前と同じ1ヶ月で、全国47都道府県すべてから、39041通にも上る応募をいただいた。 親たちの愛称募集のときの2割増しの応募数だ。 再び岡野薫子先生に最終審査をお願いし、応募作品の中から、チャチャと名付けられた。茶色の毛をしたお茶目な女の子という意味である。

 その年の夏は、ラッコの赤ちゃんチャチャを見ようという方々が、1ヶ月に30万人もお越しいただいた。 自慢じゃないが当時の鳥羽水族館は、現在の鳥羽水族館に比べると5分の1ほどしかない田舎の小さな水族館だったのである。 それまでは年間に100万人を超えることもなかったのだから、1ヶ月30万人という数がいかにすごい数かわかっていただけるであろう。
 その頃の鳥羽水族館は、他の水族館と同じように一筆書きの一方通行な順路が付いていたから、入ったら最後、人混みに押されながらトコロテンのように絞り出されるしかない。 ラッコプールの手前では30分以上待ちの列ができ、入り口で入場制限をせざる得なかったのは、それが初めての経験だった。

 私は、ラッコプールの観覧席を3段にすることと、ラッコ待ちの列ができるところにラッコのビデオを流すことなどを思いつき、夏前に急遽改造した。 おかげでなんとか多くのみなさんにご覧頂けるようになったし、チャチャが眠っていたり、ラッコが貝を割っていなくてもビデオによって満足していただけるようになった。 この階段式観覧席とビデオの方法もまた、その後にラッコを入れた他の多くの水族館で、そっくり取り入れられている。

 私自身も現在の水族館をつくるにあたっては、この時の経験から、順路のない広い通路とギャラリーを分けたつくりや、すべてのギャラリーに2段階の段差をつけて、ゆったりとご覧いただけるようにステップギャラリーという方法を開発した。
 鳥羽水族館で飼い始めたラッコは、その独特の生態によって、日本の水族館に新しい飼育技術や展示方法の開発を促しただけでなかった。 日本全国に新しい動物ファンを増やし、それまでの常識を超える来館者を生み出したおかげで、水族館の観覧方法にまでも見直しを迫ったのである。

 もし、あのときラッコが日本に来ていなかったら、またチャチャが生まれていなかったら、きっと日本の水族館事情は違っていたはずだ。その直後の港湾の再開発ブームで、水族館建設が盛んに行われた理由があきれるほどにふるっていた。「鳥羽のような田舎の小さな水族館でも、年間200万人の人を集めるのだから、水族館を作りさえすれば(ラッコを入れさえすれば)、再開発は成功したのも同然・・・・」というような記述が、表現こそもっともらしくはあったが、多くの再開発の企画書に記載されていたのを覚えている。 日本の開発計画とはなんと脳天気な連中がやっているのだとあきれたものだ。

 さらに、この頃にコアラがやってきたから、テレビでの動物番組は突然増え、動物本もたくさん出版された。 それはもう異常なほどで、ラッコブーム、コアラブーム、動物ブームという字があちらこちらで踊っていた。
 ラッコの売り出しに必死に取り組んだのは事実だったが、実際の話、私は「ブーム」というのにラッコが乗ってしまうのは嫌だった。 ラッコを認知してもらいたいのと、可愛いだけがクローズアップされてその場限りの流行モノにされるのとは意味が違う。 ブームはいつか必ず新しいブームに消されるのが運命なのだ。

 しかし、そんな私の考えは別にして、その頃に動物や自然界に目を向けてくれる人が格段に増えたことは喜ばしいことだった。 前出のラッコの入館当初から付き合いのあった動物番組は、タイトルやスタイルを変えながらも、今も真摯に動物の生態を追う番組として素晴らしい映像を送ってくれているし、その根強いファンも増えている。
 鳥羽水族館も移転して超水族館になり、動物に関心を持った多くの人たちに支えられている。 暗くてジメジメしたキワモノ博物館だった水族館のイメージは一掃されたのだ。

 考えてみれば、館長中村幸昭の決断は凄かったと思う。 館長はラッコをなんとしても入れると宣言しながら、実はラッコを見たこともなかったのである。
 その生態は一度テレビで観たことがあるという程度で、それが具体的にはどういうことなのか知らず、あるいは実際の大きささえ知らず、わずかな情報だけを頼りに、「ラッコが来れば、日本の水族館は新しい時代を迎える」と信じて、当時の鳥羽水族館には不釣り合いなほど立派なラッコ舎を建て、失敗など絶対にないという確信を持ってラッコの飼育を担当者に任せたのだ。
 それがここまで日本の社会に影響を与えるとは思ってはいなかっただろうが、とにかくその時の決断がなければ、今日の水族館状況が大きく変わっていたことは間違いないだろうと思うのである。



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(C) 2000Hajime Nakamura.

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