ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊 2001.5.22

ラッコの道標
第8章 ラッコの毛皮


8-2 鳥羽から出ていたラッコ船
 アイヌやイヌイットの人たちが、生きていくための必需品としてラッコの毛皮を利用していたのは別にして、ラッコが毛皮という商品になったのはわりあい古い。
 荒俣宏先生の「世界大博物図鑑」によれば、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」には、蝦夷人から交易によって持ち込まれ、最高級の毛皮なので長崎では中国にまで売られていたとの記述があるということであるし、「本草綱目」にもラッコの毛皮が高級であると記されているのだそうだ。
 和漢三才図会は1712年頃、本草綱目は中国で編纂された初刊が1578年というのだから、ラッコの生息域が北の果てであることを考えれば、ずいぶん早くから交易されていたものだと思う。

  実は、鳥羽水族館にラッコが来て有名になってから、鳥羽在住の方で、ラッコに関する写真があると持ってこられた方がいた。 それはその方の先々代の時代に所有していた船の写真で、その写真には驚いたことに、なんと「猟虎船」と記されていたのだ。 このラッコ船とは、ラッコを捕獲に行っていた船で、鳥羽の港から出ていたのだと言う。 その方が記憶していた先々代の話を要約すればこうだ。

 当時ラッコ船は二隻あった。 年に一度だけ北方の方へ猟に出かけたが、すでに条約で捕獲は禁止されていたので、ラッコのいる海域に到着すると、小舟を何艘か降ろして、すぐに沖合に出て別の漁をしていた。
 小舟には2人が乗っていて、一人が漕ぎ手、一人が鉄砲撃ちである。 ラッコは舟が近づくと逃げるので、小舟が降ろされるのは霧の多い日であり、漕ぎ手は普通とは逆に前を向いて漕いだ。
 また浮いているラッコを一頭撃つと回りのラッコが海中に逃げてしまうので、一番良いのは、陸に上がっているラッコを狙うことである。 彼らが海に飛び込む前に、霧に隠れて近づいて撃つのだ。
 舟が岸に近づいていると、ラッコは怖がって海の方へ逃げては来ないから、いくらでも撃てた。 そうやって一日の漁が終わると、迎えに来た母船に拾ってもらう。 これを何度か繰り返して、ラッコの毛皮でいっぱいになると、やっと鳥羽に向かって帰ることができる。
 北海の荒波の中で霧に紛れてする猟だから、小舟が沈んだり、母船に見つけられないことも数多く、帰ってくるときに乗組員の数は半分以下になっているのが普通だった。 しかし一回ラッコ漁に行って無事に帰ってくれば、一人一人が手にするお金は、家を建てて三年は働かずに暮らせるほどの大金だった。 そのため、ラッコ船に乗るのは、無籍者や入れ墨者、逃亡中の犯罪者が多かった・・・・。

 とまあ、こんな具合である。 写真の船は当時としてはかなり大きく頑丈に造られ、いかにも北方諸島にまで遠征にでかけられそうな立派な船だった。
 条約で捕獲が禁止されていたというのだから、1911年よりは後まで続いていたのであるが、密漁のためにこれだけ立派な船を造ったということは考えにくいので、条約で捕獲が禁止される前からラッコ猟を行っていたのだろう。

 鳥羽水族館から、ラッコに対するさまざまな理解を広げようと考えている矢先、この写真には少なからずショックを受けた。 しかし、それも過去のことである。当時はそれが過ちだとはあまり認識されていない時代だったのだ。 それよりもラッコ猟に出ていた歴史がある鳥羽に、今度は生きているラッコがやってきて、その存在をアピールしようとしているのだから、その因縁を大切にしようと思った。
 かつて毛皮にされたラッコたちの魂が、鳥羽水族館に生きているラッコ姿をみんなに伝えろと強く訴えているのだと思えてならなかった。




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