ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊 2001.6.3

ラッコの道標
第8章 ラッコの毛皮


8-3 商品としてのラッコ
 さて、アイヌ人との交易によって毛皮を得ていた日本の状況とはまた別に、ロシア、アメリカ、イギリスでは、大きなラッコブームが起きていた。
 1741年にロシア皇帝の命を受けたオランダ人ベーリングによって第二次になるベーリング海峡の調査がなされたが、その船は座礁し、ベーリング船長も壊血病で死亡する。 その後をついでドイツ人の医師で博物学者のG・ステラーが指揮官となり、乗組員は無事に生還したのである。
 その時にステラーは、ラッコやオットセイ(キタオットセイ)の群れや、巨大な海牛類ステラーダイカイギュウを発見し、それを大量の毛皮と共に博物学者らしい精密さで報告した。
 この報告が発端となり、ロシアはもとより、ヨーロッパ各国、アメリカのハンターと毛皮業者がベーリング海峡付近に集まったのである。
 いやはやヒトというのは行動が早い!それはそれぞれの国の国家的事業だったから、すさまじい勢いでラッコとオットセイは毛皮にされていった。

 日本はずっとアイヌ人との交易で毛皮を手にしていたが、1873年にアメリカのラッコ船が千島列島のラッコを狙って立ち寄ったのと、一人のイギリス人が8千頭にも上るラッコを密漁したのに刺激を受けたらしい。 その後の1895年に日本政府は外国からのラッコ船に対抗するため、ラッコ・オットセイ猟免許規則を公布して、日本人によるラッコとオットセイの捕獲を奨励しているからである。
 アメリカの船が千島列島にまでやってきたのは、ロシアや、カナダを領国とするイギリスとの間で毛皮の奪い合いがあったからで、これらの国々は巨額の富を生む毛皮の捕獲に血道を上げ、領土問題にまで発展するようないさかいが数多くあった。 

 こんな調子で、毛皮猟が近代的に行われていったから、無尽蔵にいると思われていたラッコもキタオットセイもみるみる減少した。 ラッコなどは20万頭いたとも言われているのが、わずか千頭といわれるほどにまで追い込まれてしまったのである。

 有名な話だが、この時に、ステラーダイカイギュウという動物が絶滅している。
 巨大なステラーダイカイギュウは、ジュゴンやマナティーとともに地球上に残っていた海牛類だった。
 ジュゴンなどよりはるかに大きく、体長は9メートル重さも4トンと伝えられているが、海にぽっかりと浮かび昆布を食べる、性格のおとなしい、ヒトなどのちっぽけな動物を怖れることもない動物だったらしい。
 この動物がいて新鮮な肉になってくれたからこそ、ステラーたち一行は、命をとりとめて帰国することができたのだ。でもその報告には、はっきりと肉が美味く捕獲しやすいと書かれていた。

 ステラーのこの報告は、毛皮業者やハンターにとって、ラッコやオットセイの毛皮とともに朗報だった。 それまではいかにも不味そうなオットセイの肉やら、かれらの食性には合いにくい魚料理を我慢して食べていたのだから。
 結局ステラーダイカイギュウは彼らに食べられるために捕獲され、もともと2千頭以内と考えられていたこの動物は、ヨーロッパ人が発見してからわずか27年間で絶滅してしまったのである。
 海牛類の海での歴史はおよそ5千万年と言われている。 それほどの時間をかけてひっそりと生きてきたステラーダイカイギュウの歴史が、27年という一瞬の間に閉じられてしまったのだから、ヒトの力というのは恐ろしく強大である。

 それにしても、当時、ラッコは20万頭とかステラーダイカイギュウは1〜2千頭とか、キタオットセイは100万頭とか、よく推測できたものだと思うのだが、そこまで推測できた彼ら欧米人に、なぜ引き算や割り算ができなかったのだろう。
 彼らはそれがゼロに近くなってから、あら大変だ知らないうちに減ってるよ。 それじゃあここらで捕獲禁止にしようかという計算しかできなかったのである。

 そしてそんな国の人たちに、彼らよりは計算のもう少しできる日本人が、捕鯨のことでとやかく言われなくてはならないのだから、これにも少々腹が立つ。
 私は個人的にはクジラを資源として考えたくはない一人であるが、それにしてもそういう問題は、実際に動物を利用してきた国の人が責任を持って計算し、動物に対する感情もその人たちの道徳の中で今一度議論して決めるべきであり、少なくともその動物と共に暮らすことのなかった人たちが、勝手に決めるものではないと思うのだ。

 極端な例を上げれば、イヌイットとアザラシの関係は、アザラシの生態と、その自然環境の食物連鎖などを体験的に知っているイヌイットたちが行ってきたから、資源数(資源という言葉自体好きではないのだけど)としては、アメリカなどが過去に獲りすぎて絶滅寸前に追い込んだ頃に比べて、奇跡的というほどに増えているという報告がある。
 さらに、イヌイットはアザラシの生と死を身近におくことで、その命に尊厳があることを十分に知っている。 ところが、自然のことは何も知らずに、シーチキンの缶詰なんかを愛犬に食わしているような方たちに、イヌイットのアザラシ猟は野蛮だから止めさせなさいと糾弾されているのだ。

 アイヌの文化のために活動しておられ、アイヌの物語を多く本にされているアイヌ人、萱野茂さんと、何度かお話をさせてもらったことがある。
 アイヌの昔話では、良いことをした人はすべて「それから、何を欲しいとも、何を食べたいとも思わすに暮らすことができました」となっている。
 それに興味を覚えて尋ねていったのが最初の出会いだ。 日本の昔話だと良いことをした人には、大判小判が土の中から出てきたり、翌朝には蔵が建っていることになるのだが、アイヌにはそんな嬉しいご褒美は何もない。

 もしかしたらアイヌには幸福の基準があるのか?という私の質問に、萱野さんはこう答えてくれた。
「アイヌには、大判小判なんてないものね。 それに蔵もないの。 アイヌの蔵はね、裏の山や近くを流れる川なの。 その蔵はみんなの蔵、みんなというのは、部落みんなのでもあるし、森でくらすキツネやカラスもみんなと言う意味ね。 そして、その蔵はね、その日に必要なものだけ出してくれば、中にあるものがいつまでもなくならない蔵なの・・・・」

 何を欲しいとも思わなくていい幸福感。 その日に必要なものだけ出していれば、モノが無くならない蔵。 地球というのは本当にそういう蔵なのかもしれない。
 ところが文明社会では、その蔵から、モノを余分に出して誰かに売って、大判小判に換えたいと思うから、そしてその大判小判をできるだけたくさん持っていたいと考えるから、蔵はすぐに空っぽになってしまうのだ。
 
 実は、ラッコの悲劇は、この話しそのものなのである。
 イヌイットと共存していたラッコは、イヌイットにとっては生きるために着る上質の毛皮を得る相手だった。
 その理論は、ヒトが食を得るために、他の生命の命を奪わなくてはならないのと全く同質の理論だ。
 ところが、その毛皮が金に換わるようになったところで、ラッコは共存すべき動物から、ただの商品になってしまったのである。 その商品の生産は自然がしてくれるのだから、商人としてはできるだけ大量に仕入れた方が勝ちだ。 もうそこには、ラッコの動物としての存在などない。

 そうして、いつの間にか、イヌイットの知らないところで大型船を使った毛皮猟さえも行われるようになり、気が付けば彼らが保ってきたはずの数の動物はいなくなっていたというわけだ。
 それなのに、動物を共存する相手として付き合おうとしている先住民が、今は攻撃を受けている。
 イヌイットがアザラシの捕獲で、アリュート人がキタオットセイの捕獲で、アボリジニーがジュゴンの捕獲で・・・・。
 彼らは自分自身をヒトという生命として生態系の一部に組み込んでいるから、どのようにすれば互いに生き残っていけるのかを計算できるのである。
 しかし、オットセイやアザラシがただ可愛いからという理由で、殺すな獲るなと叫ぶ人たちには、間引きをされない野生動物群がどうなるかを知りはしない。
 そしてきっと自分が食べている牛は命ではなく肉として作ったものなのだと信じているのだ。
 さらに、生きるためのイヌイットの猟を禁止するのは、シャチにイルカを食べずに生きてゆけと言っているようなものだということなのに、そんなことはまるで無視している。

 今、先住民の人たちが昔のように猟ができなくなってから、仲間同士で過剰競争をせねばならなくなった野生動物は再び数が減り、かれら自身も、何をもって生きるというのかがわからないような境遇に追いやられているのである。
 それぞれの民族には、歴史があり文化があり、そしてそれに則った道徳がある。
 人道に外れるようなことは別にして、それぞれの文化や道徳を尊重することからすべては始まる。
 「野生生物は可愛い、殺すのは野蛮」という考えを正義と決めつけて、全世界の民族に押しつけようとするのは、自分たちの教義と文化こそ絶対教義として繰り出した十字軍の再来である。
 そんな主張のごり押しよりも、まず、余分なものを欲しいと思わない幸福感のあった先住民に、動物は商品という世界観を植え付けた、自分たちの文化を恥じるべきなのではないだろうか。




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