ラッコの道標:中村 元著/パロル舎刊 2001.8.12

ラッコの道標
第8章 ラッコの毛皮


8-4 水族館のラッコも商品?
 寂しい話だが、水族館でラッコを飼うことも、欧米人たちの毛皮の価値観と同じように、ラッコを商品として扱っていると捉えられることがある。
 熱狂的な動物愛護主義者にとっては、攻撃できるものはなんだっていいのだ。 それどころか、動物園や水族館は必要ないという議論さえもある。

 しかし、ここまで述べてきた、先住民の動物に対する考え方と、文明人の動物に対する考え方の違いでわかってもらえるだろうが、同じ動物に対しても、動物だと思っていれば動物、商品だと思っていれば商品なのである。
 「ラッコを商品として扱っている」と言える人は、ラッコを商品だと考えられる人に他ならない。 しかし、多くの動物園、水族館にはそう考えることのできる人はいない。 それが証拠に、人気がなくなったから裏の海に捨ててしまわれた動物などひとつもいないのだ。

 ちょっと前に、ウーパールーパーという動物が突如脚光を浴びたのを憶えているだろうか。 真っ白なとぼけた顔に、洒落た耳飾りのような真っ赤な外鰓を付けた動物だ。
 動物番組はもちろんのことコマーシャルなどにも引っ張りだこで一躍有名になった。 それに目を付けたイベント業界は、各地でウーパールーパー展を開催し、一部の水族館でも特別展を行って、けっこうな集客もあったらしい。
 鳥羽水族館にもひっきりなしに問い合わせの電話が掛かってきた。 「ウーパールーパーはいますか?」と。

 それはなかなか難しい質問だった。
 ウーパールーパーはいないが、ウーパールーパーという名前を付けられてしまったアホロートルという動物は、もうずっと昔から鳥羽水族館にいたからだ。
 けっこう律儀で正直者の私は、一応そう答えるようにしていた。 つまり、ウーパールーパーは芸名(商品名)なのである。
 本来の呼び名はアホロートル。 実は話はもっとややこしくて、アホロートルも種名ではなく、両生類であるトラフサンショウウオ科のいくつかの種の幼形成熟したものにアホロートルという名前が付けられている。
 つまり、ある種のサンショウウオがオタマジャクシの姿のままで成熟することがあり、その成熟した姿をアホロートルと呼ぶのだ。 子供の姿のまま大人になるのだから、それはまあ可愛くて無垢な感じがしないでもない。

 ところが、そのアホロートルをテレビデビューさせるのにあたり、原産地であるメキシコで呼ばれている「ウーパールーパー」の名前の方が断然いいというので付けられたのだ。 確かにアホロートルでは、阿呆でロートルという、上品な会話にはあまり使っちゃいけない言葉が盛りだくさんな名前ではある。
 実際のところ、鳥羽水族館にもいたわけだから一時期はかなりの人気者として注目を浴びた。 さらに動物番組などにも出演したから、おかげで多くの方々が両生類に興味を持ってくれたことは間違いない。
 しかし、繰り返すが、鳥羽水族館にはそれ以前からアホロートルは飼育されていて、今でも飼育されているのだ。 別に人気が出たから客寄せのために飼ったのではない。 人気があろうがなかろうが、ウーパールーパーなるアホロートルは、鳥羽水族館で展示されていたのだ。 それはなぜか?アホロートルは水族館の展示のために必要な飼育動物であり、商品として考えてはいないからである。 

 鳥羽水族館でラッコを飼育し始めたのも、ジュゴンを飼育し始めたのも、あるいはクラゲの展示を始めたのも、彼らが商品として売れるからと考えたわけではない。
 その証拠に、鳥羽水族館がそれらを飼い始めるまでは、それらの動物は有名でも人気があるわけでもなかった。 もちろん、どこかの水族館で人気が出始めたから、マネをして売り出すという水族館だってあるが、そんな水族館は、もともと再開発の中心になることを目的にしたとか、集客施設として建設されたとかいうアミューズメント施設であって、本来の意味の博物館とは似て異なモノなのだからしょうがないのだ。

 そして、もし動物愛護の精神があるのなら、ラッコとアホロートルを一緒にするのはおかしいなどとは言い出さないで欲しい。 全ての動物に一つ一つの命があって、そのどれが大切でどれが大切でないとは言えないのだから。 さらに付け加えれば、アホロートルだって保護動物なのである。

 実際、私などは、自分でラッコのマネジャーだったと言っているくらいだし、鳥羽水族館にできるだけ多くの方々に来てもらいたいと思って仕事をしているわけだから、ラッコを人気者にしたいと思っていなくはない。
 しかし、その目的は、鳥羽水族館としての野生生物や地球に関して考える信念を伝えるために、一般の人たちが見たいことを実現し、さらに鳥羽水族館という博物館を魅力的な博物館にするためなのである。

 そしてここにやってくる動物たちは、彼らの存在や生活をヒトに知らせ、彼らに生命としての魂が宿っていることを代表して知らせに来ているメッセンジャーなのだ。 それはまあ、志願してきたわけではないということくらいは私だって知ってはいるが・・・・。

 水族館にラッコを連れてくることを、自然界のラッコの数が減っているとか増えているとかの議論で論じるのもはるかに無意味である。 実際には今はかつて最も多かった頃に近いほど資源量は回復しているし、10万頭単位の数の中で、1頭、2頭のラッコの減少は、その1頭が大勢のみなさんと会うことで成し遂げることに比べれば、ほとんど気にならない。

 それよりも、未だに毎年かなりの数のラッコが密漁されて、チョッキや襟巻きになって流通していることの方が大問題だ。 ラッコの毛皮を流通させているヒトも、それを最終的に買い求めるヒトも、きっとラッコたちの生きている姿に感動したことなどないのだ。

 そして、もし動物園や水族館がなかったら、もしそこで人々がラッコたちに実際に会うことができなかったら、もし彼らをテレビや図鑑や剥製でしか見ることができなかったら、きっと今ほどに、動物に興味を持つ人は多くなかっただろうし、地球のさまざまな環境に対しての興味も芽生えなかっただろう。 もちろんラッコを毛皮としてしか考えられない人もなくなりはしない。

 実に単純な話なのだ。 ラッコに会ったことのない人が、ラッコが好きだなんて真剣に考えられるはずがないではないか。 もし会う前に好きになっていたとしても、好きになったとたんに会いたくなるはずだ。 そして、もしそのどちらでもないのにラッコが好きな人がいても、ラッコのことは誰よりもよく分かるなんて言う資格はない。

 以前パネルディスカッションで、素潜りの偉人ジャック・マイヨール氏とご一緒したことがある。 楽しいディスカッションの後、近頃ではイルカよりも長い潜水時間を持ってイルカたちと一緒に泳いでいるという彼に、うちの水族館に来ませんか?と誘ったが、彼は申し訳なさそうにこう言った。
「イルカがとても好きだが、ボクは海で一緒に泳ぐことができる。 その彼らが狭い水槽の中にいるのを見たくはないんだ。 でもだからといって、水族館を否定しているわけではない、水族館のイルカを否定するということは、ボクと同じことができない全ての人を否定することだから」
 そのとおりである。だれもがジャック・マイヨールになれるわけがない。 いや、イルカを好きな人全員が、もし彼と同じことができるようになったら、イルカは迷惑でしょうがないだろう。

 野生のゴリラを見るツアーで、排泄やら交尾行動までのすべてを、大勢のヒトに見られているゴリラたちが、どれだけ神経を使っているか想像できるだろうか? しかし、他人の行けないところに行きたいと思う心に、そんなゴリラの気持ちは分からない。
 シーラカンスを研究するには潜水艇で彼らの生息地に行くのが一番と言っている研究者は、逃げることのできない生息地に何度もやってこられ、ライトを当てられるシーラカンスたちに影響がないとでも思っているのだろうか?
 もちろん、研究者にとっては、その映像や研究成果が高く売れるたびに、シーラカンスの迷惑はチャラになるのだ。(実は、鳥羽水族館でもロボットカメラによるシーラカンスの映像は持っているが、今まで一度だってその映像を有料でテレビ局に売ったことなどない。それが水族館の展示の姿勢だ。)

 水族館の動物たちは、ある意味で商品でありタレントでもある。 しかし、それは金を生むためのタレントではなく、ヒトの社会と自然界とを繋ぐタレントであり、研究の対象というタレントであり、彼らの将来を考える研究者や活動家を育て、研究成果を生み出すための大切なタレントなのである。



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