2005年4月下旬

●4月21日(木)

 おかしいな。どこへ行ったんだかどこからも出てきません。たかが文庫本一冊で大騒ぎしております。たしか新潮文庫。筒井康隆さんの『おれに関する噂』という本のことなのですが、先日もお知らせしましたとおりただいま書斎内が見事にひっくり返っており、段ボール箱に詰め込んで別室に運んでしまったあとなのかそうではないのか、それすらわからず困惑しております。

 この本の表題作、つまり「おれに関する噂」という短篇は三重県立名張高等学校総合学科マスコミ論の教材にぴったりですからけけけ、次の授業でとりあげてやれと思いついた次第なのですが、いくら探しても本というやつは探せば必ず出てこない、と日本語がおかしくなってしまうほど見つかりません。まあ本屋さんで新しいのを買ってくればいいだけの話なのですが。ちなみに、高校の授業で筒井作品を紹介していいものであろうか、などという煙草くさき国語教師みたいな懊悩煩悶は私には全然ありません。

 いやいや、煙草くさき国語教師、なんて存在もこの国ではそろそろ地を払おうとしているのかもしれません。三重県教育委員会の指示があったのかどうかは確認しておりませんが、わが名張高校は敷地内ではいっさい禁煙ということになっていて、仕方ありませんから先日など二限目と三限目のあいだの十分間の休憩時間、校門の外に出て一服つけるという情けない仕儀に立ち至りました。するとひとりふたり、同じようにぶらぶらと喫煙に出てくる先生があります。やみくもな親近感に駆られた私は思わず、いかがですか、授業なんかほっぽり出してそこらで軽くビールでも、と声をかけたくなったのですが、さすがに踏みとどまって職員室分煙化の必要性を説くにとどめておいた次第です。先生稼業もなかなか大変。

 それからここで結論をひとつ。高知県立文学館で開催中の企画展「日本探偵小説の父 森下雨村」の件ですが、私は23日の講演会を聴講し、そのあと講演会記念の集まれる人だけ集まろう大宴会で盛りあがって一泊してこようと楽しみにしておりました。ところが集まれない人になってしまいました。狙い澄ましたように雑用が立て込んで、名張の地から離れられないこの私。なんとも残念な話です。


●4月22日(金)

 いっちょ授業用のページをつくるか、と発作的に思いついて作業に着手しました。

 マスコミ論めいたものはネット上に氾濫しているはずで、げんにちょっと検索してみるだけで、たとえば堀江貴文ライブドア社長の発言を受けて、ジャーナリストの江川紹子さんが「「新聞・テレビを殺します」 〜ライブドアのメディア戦略」(2月10日)、「ガ島通信」のブロガー(という言葉の存在を初めて知りましたが)藤代裕之さんが「ライブドアのパブリック・ジャーナリズム」(2月23日)、毎日新聞社会部の渡辺雅春さんが「ライブドア堀江貴文社長への反論」(3月17日)を発表していることが知られ、ほかにもたぶん大量の言説がネット上をめまぐるしく駆けめぐっております。

 そうかと思うと、その名も「ネットは新聞を殺すのか blog」というブログでは某通信社勤務の湯川鶴章さんが参加型ジャーナリズムなるものをテーマに掲げ、さらに検索してみるとその湯川さんの「ネット化はジャーナリズム・メディアをどう変える?」なんてセミナーの内容や、あるいは先述の藤代さんによる雑誌連載「メディア崩壊の現場を歩く」なんかも公開されていて、まさしく百家争鳴。その手のページへのリンクを集めたページがあれば授業でつかえるだろうと思ってつくり始めてみたのですが、ついつい読みふけってしまうからまったく捗りません。けさもあちらこちらメディアやジャーナリズムを主題としたページを読みまくり、気がついたらもうこんな時間。

 すごく勉強になります。


●4月23日(土)

 なかなか終わりません。授業用のページがまだできません。来週月曜25日は第二限が「新聞というメディア」、第三限が「ジャーナリズムの問題点」と決め、インターネットをフルに活用して授業を進めるべく教材になりそうなページにリンクを設定しているところなのですが、リンク先がどんどんどんどん増えてきて収拾がつかなくなってしまいました。

 「新聞というメディア」には「新聞の歴史」という項目を立て、そのなかの小項目として「読売、瓦版から新聞へ」「大新聞と小新聞」「黒岩涙香と宮武外骨」といった具合に教えるべきことを思いつくまま列挙していったらばもうとめどがありません。

 リンク先はと申しますと、たとえば早稲田大学図書館の「瓦版について」なんてのがあるかと思えば、なんと皮肉な巡り合わせなのでしょう、本来ならきょうお邪魔して夜には思いきり盛りあがっていたはずの高知県立文学館の「黒岩涙香と万朝報」、それからこれも奇しき縁か、先日わざわざ名張までお越しくださった河上進さんが略伝と作品解説を書いていらっしゃる青空文庫の「作家別作品リスト:宮武外骨」とかいろいろあって、「新聞の歴史」だけで一年間は充分授業ができそうな勢い。

 いえいえそれはなりません。5月に入ったら入ったで、「客観的に記事を書く」だの「メディアと広告」だの「自分のメディアをもってみる」だの「インターネットの可能性」だの「コミュニケートできない大人たち」だのといったテーマを予定しているわけなのですから(ちなみに「コミュニケートできない大人たち」の授業では、お察しのとおり二〇〇四伊賀びと委員会と例の掲示板封鎖事件を取りあげるつもりです)、「新聞というメディア」のなかの「新聞の歴史」ばかりにかかずらってるわけにはまいりません。

 つづく「ジャーナリズムの問題点」におきましては、ジャーナリズムの使命は国民のために報道と論評によって権力を監視し批判することにあるんですよ、日本新聞協会の「新聞倫理綱領」には「国民の『知る権利』は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい」なんてもっともらしいことが書いてあるんですよ、みたいなことも喋らなければならず、ああもうなんか忙しいなとじたばたして地元権力の監視を怠っておりましたところ、名張市オフィシャルサイトに「名張まちなか再生プランを策定しました… NEW」という告知が出ておるではありませんか。

 ありゃりゃ。さっそくその「名張まちなか再生プランを策定しました」というページを閲覧してみたところ、プランは原案に何の修正も加えられることなくすんなりと策定されてしまったようです。あっと驚く意外な事実。いや全然意外ではありませんけど、とにかくあれあれいつのまに、と私はいささか驚きました。

 それでは私が提出したパブリックコメント「僕のパブリックコメント」はどうなったのか。あわてて確認してみたところ、「《パブリックコメント結果》「名張地区既成市街地再生計画 名張まちなか再生プラン(案)」」というページにコメントの要約が掲載され、「意見に対する名張市の考え方」が述べられているのですが、これがまたひどい。じつにひどい。権力はいったい何を考えておるのか。いや、権力にはものを考える能力がないのか。こんな権力を相手にしなければならぬのは甚だ不本意なことながら、しなけりゃならぬが身の定め、しなけりゃならない身の不運、よーし、徹底批判を展開してやるか、けけけけけっ、と私は決意いたしました。ていうかものすごく腹が立ってきましたし。

 いやいかん。いかんいかん。あまり腹を立ててはいかんのだ。気を鎮めるため突然ですがお知らせを一件。丸尾末広さんのフィギュア「人間豹と少年探偵」限定五百体が6月8日に発売されるそうです。4月26日まで予約受付中。ある方からメールでお教えいただきましたので、取り急ぎお知らせ申しあげる次第です。詳細は「タコシェ」でどうぞ。


●4月25日(月)

 いやすっきりしたすっきりした。非常にすっきりいたしました。書斎に一冊の本も存在しないという夢のような状態が、きのうようやく現出いたしました。本棚から本を出して段ボール箱に詰め、満杯になったら両手で抱えて別の部屋に運ぶという単純作業の退屈さに耐えかねたあげく思案投げ首、試みにご近所在住の大学生をアルバイトに雇って作業を手伝ってもらいましたところ、きょうびの大学生というのはなかなかたいしたものらしくわずか一日で作業が片づいてしまいました。昨日夕刻に撮影した書斎の写真をご覧ください。

 画面左側の壁なんか本棚に隠れてまったく見えない状態だったのですが、じつに久方ぶりで壁面全面と対面を果たし、壁よ壁よ、S・カルマ氏を知らないか、などと莫迦なこといって久闊を叙した次第。いやいや、そんなことで喜んでる場合ではありません。光陰は矢のごとくに過ぎ、一週間は夢のごとくに去って、きょうはもう三重県立名張高等学校でマスコミ論を教える日ではありませんか。急いで予習しなければ。

 授業用のウェブページもいまだ不完全な仕上がりなのですが、時間がありませんから見切り発車するしかないようです。それからご心配をおかけしました筒井康隆さんの新潮文庫『おれに関する噂』、じつに思いもかけないところから出てきましたのでさっそく表題作を読み返してみましたところ、作中に「その夜森下さんはオナニーを二回した」ですとか「そしておれはその夜、明子とホテルに一泊した」ですとか、そういった文言が出てくることが判明いたしました。しかしまあ、これといった差し支えはどこにもないでしょう。

 といったところで時間がなくなりました。じつは本日、お詫びを一件書き記そうと考えていたのですが、あすに先送りいたします。


●4月26日(火)

 それでは予告先発のお詫び一件とまいります。

 ある日の暮れ方のことであったかどうか、それは知れません。東京都千代田区永田町にある国立国会図書館でのできごとです。雑誌関係のカウンターにひとりの男性が足を止めました。いや、もしかしたら女性であったのかもわかりません。とにかくひとりの日本人が、というかたとえば赤道ギニア共和国の人がこんな問い合わせをする可能性はそれほど高くないはずで、やはり日本人であっただろうと推測される次第なのですが、その日本人は一冊の雑誌を手にしていました。

 一冊の雑誌、といった表現はあるいは不正確かもしれません。国立国会図書館では雑誌のたぐいは合冊にして保管するのが一般的ですから、この男性だか女性だかわからないがたぶん日本人だと思われる国立国会図書館利用者も、十中八九は合冊を手にしていたのだと推測しておきましょう。合冊になった雑誌の名前は「小説宝石」(Z13-901)。それを開いて1979年8月号を示しながら、彼または彼女はカウンターに居あわせた雑誌担当スタッフに尋ねました。

 「この号に鈴木幸夫の『小説・江戸川乱歩の館』というのが載ってるはずなんですけど、どこを探しても見つからないんです」

 スタッフが確認すると果たしてそのとおり、「小説・江戸川乱歩の館」という作品はどこにも掲載されていませんでした。

 「この号に掲載されているということはどこでお知りになったんですか」

 ここで唐突に名張人外境が登場してきます。スタッフの質問に答えてその利用者が打ち明けるには、当サイトの「乱歩文献データブック」で鈴木幸夫の「小説・江戸川乱歩の館」が「小説宝石」昭和54年8月号に掲載されていることを知り、一度読んでみたいものだと国立国会図書館まで足を運んできたとのことです。

 それを聞いた雑誌担当の女性スタッフは、これは間違いなく女性なのですが、これまでの経験から素早く目星をつけると、試みに十年前つまり昭和44年の「小説宝石」8月号をチェックしてみました。案の定、そこには「小説・江戸川乱歩の館」が掲載されているではありませんか。書誌情報の誤りを見抜く図書館職員の眼力には驚くべきものがあります。

 それで結局、男性女性のいずれかであろう図書館利用者は望みどおりに鈴木幸夫の「小説・江戸川乱歩の館」を閲覧し、雑誌担当の女性スタッフは「乱歩文献データブック」の誤りを指摘するべく名張人外境の開設者にメールを送信し、それを受け取った私は恥ずかしさのあまり顔面に朱を散らしながら冷や汗三斗の思いで「昭和54年●1979」のページにあった「小説・江戸川乱歩の館」のデータを「昭和44年●1969」のページに移動して、それをこうしてお知らせしているというわけです。

 その親切な女性スタッフの方からは「小説・江戸川乱歩の館」のコピーを送ってやろうとの申し出もいただいたのですが、コピーは当方の手許にあるはずで、つまり刊本『乱歩文献データブック』(名張市立図書館発行)をつくるとき「小説宝石」の本文全ページと奥付のコピーを入手しているはずですから、送付の儀はご放念いただきました。

 それにしてもどうして「小説・江戸川乱歩の館」のデータを十年もずれて記載することになったのか。あの本をつくったときのことは熱病の記憶のようにしか思い出せませんから確たることは何も申しあげられないのですが、とにもかくにもじつにとんでもないことでしてどうも相済みません。

 男性であれ女性であれご迷惑をおかけした国立国会図書館利用者の方と同館資料提供部雑誌課運営係の親切な女性スタッフの方と、もしかしたら刊本ならびにウェブ版の「乱歩文献データブック」で同じ経験をされた方がいらっしゃったとしたらその方にも、いやもういっそ乱歩と図書館を愛するすべてのみなさんに平身低頭跳梁跋扈、心からお詫びを申しあげる次第です。


●4月27日(水)

 ちょっとした誤りが散見されぬでもない「乱歩文献データブック」の1994年のページをようよう掲載いたしました。きょうはそれだけ。


●4月28日(木)

 まさか齋藤孝さんの著作を購入することになろうとは夢にも思っておりませんでした。しかし乱歩がらみとあればためらう理由などありません。「RAMPO Up-To-Date」にも記載いたしましたが、『齋藤孝の朝読おすすめガイド10+100』という書物を買ってまいりました。「朝読」は「あさどく」と読ませるそうですが、そも朝読とは何ならん、朝日読売の略かしら、と訝っていたところその読売新聞のオフィシャルサイトにこんな記事が。

全校で「朝の読書」、小学8割中学7割…文科省調査
 活字離れに歯止めをかけようと、全校一斉の読書活動に取り組む公立学校が増え、始業前に行う「朝の読書」は小学校の約8割、中学校の約7割で実践されていることが27日、文部科学省の調査で分かった。一方、学校図書館で国が定めた蔵書数の標準値をクリアした小・中学校は3割台にとどまった。
読売新聞 YOMIURI ON-LINE 2005/04/27/22:54

 さらに詳しいことは Google 検索「朝の読書」あたりでご確認いただくことにして、関連ページをささっと閲覧してみたところ、この朝読なるもの、みんなでやる、毎日やる、好きな本でよい、ただ読むだけ、以上の四つが基本だそうで、そういえば全国の学校でそんなことが流行しているという話を聞いた憶えがあるような気もいたします。昔の朝読は四書五経の素読と相場が決まっていましたから、世の中ずいぶん様変わりしたようです。

 それでこの本では「朝読おすすめガイド10」の一冊に「怪人二十面相」が取りあげられているという寸法なのですが、それ以外には星新一、山中恒、夏目漱石、芥川龍之介、斎藤隆介、清水義範といった感じのラインアップ。『盲導犬クイールの一生』なんてのも挙げられています。しかしここまでしてやらねばならんのか。わざわざ朝読タイムを設定し、いちいち読む本まで指南してやらなければならんのか。どうしてそこまでして子供に媚びねばならぬのか、私にはもうひとつよくわかりません。少なくとも乱歩作品などというものは、子供がそこに何かを嗅ぎつけてみずから手に取り、むさぼるようにして読みふけるはずのものではないのかと思い返される次第です。

 試みに引用を少々。

 むかしの子どもがわくわくしたようなものを、小さいうちに読んでおくといい。やっぱり、いまの時代のおもしろいものとセンスがちがうので、風情がある。それは、木のかおりがするかんじだ。登場するたてものや常識も全部ちがうわけだから、ふーっとむかしの絵のなかに、まぎれこんだようなおちつきがえられる。みんなはコンクリートでできたたてものよりも、木がいっぱい使われているものに包まれたほうがホッとするだろう? 古いものに囲まれていると、おちついてくる。むかしのものにはむかしのものにしかないよさがある。たいへんなものですよ、江戸川乱歩のかおりかたは。

 へっ。「むかしの子ども」で悪かったな。いえそんなことはありませんが、乱歩の少年ものに嗅ぎあてられた「木のかおり」、なんてのは普通の乱歩ファンにはなかなか思いつけない比喩に相違なく、これはこれで乱歩の本質の一側面を指し示す指摘であるのかもしれません。「むかしのもの」である乱歩作品がなぜいまも生きつづけているのか、その点の考察は完全に欠落しているにしても(そんな考察が必要な本でもないでしょうけど)、さらには少年ものであるか否かは別にしても、「江戸川乱歩のかおりかた」はやはり「たいへんなもの」であるということには私も異論がありません。

 そして最後は「ここだけの秘密だけど、ちょっとエッチな作品もたくさん書いているから、おとなになったら読んでみてください」と結ばれるわけなのですが、ここで私はひとりの教育者として私見を差し挟んでおきたいと思います。えー、こんなこといってはいけません。何をいっておるのか。教育的見地から見て非常に好ましくありません。子供はあくまでも自分の嗅覚に導かれて乱歩の「エッチな作品」(なんと品格のない表現か)にたどりつくべきであり、「おとなになったら」ではなくて大人になんぞなる前に親や教師の目を盗んでそれを耽読すべきです。間違っても声に出して読んだりしてはなりません。

 さるにても、なんかいつのまにか身も蓋もない世の中になってしまったなという嘆きを禁じ得ない次第です。


●4月29日(金)

 いよいよ黄金週間の開幕です。とはいえ私はきょうあしたと自宅にへばりついている必要があり、連休の谷間の5月2日月曜にはピンポイントで狙い澄ましたように三重県立名張高等学校での授業が待ち受けておりますから……

 と書いて思い出しました。高校生だけを相手にしているわけにはまいりません。名張市役所のお相手も務めなければなりません。高校生の前で権力はつねに監視され批判されなければならぬのである、などと偉そうなことほざいている人間が権力の監視と批判を怠ってどうする。さっそくまいりましょう。

 しかしながら実際には、これは監視の批判のとご大層なご託を並べるほどの問題ではさらさらなく、高校の教壇でマスコミ論を教える立場から申せばまさしくコミュニケーションの問題。どうやら深刻なコミュニケーション不全に陥っているらしい名張市役所のみなさんに、高校生でもすんなり理解できるコミュニケーションのいろはを教えてさしあげることから始めなければなりますまい。

 なんてこと書くとまるで名張市役所の人たちは高校生以下だみたいな感じになってしまいますけれど、システムに完全に埋没してしまった人間なんざコミュニケーションの可能性という一点において明らかに高校生以下の存在でしかないでしょう。たとえば野呂昭彦さんとかおっしゃる三重県知事を筆頭に、「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」事業の関係者は私の知るかぎり官民ともに全員が全員そうしたたぐいの人間でした。平たくいえばあほでした。常住坐臥日常不断に馴れあいもたれ合いのなあなあ体質フルスロットルでへらへらへらへら生きてると、これはもうほぼ不可避的にそういった種類の人間ができあがってしまうみたいです。

 ですから名張市役所の人たちには(むろん三重県庁の人たちにも、というかたぶんすべてのお役所の人たちには)徹底した体質改善が必要なのですが、無理無理とても無理、体質改善なんてたぶん一生無理でしょう。それでもせめて、自身に向けられた真摯で正当な批判をこそみずからの支えとする、みたいなことが世の中には実際にあるのだということくらいは憶えておきたまえ。それができて人間ようやく一人前なのだということを肝に銘じておきたまえ。身近なところで具体例を挙げておきますと、先日「乱歩文献データブック」の誤りをある方からメールでお知らせいただいたことをお伝えいたしましたが、こういった誤謬の指摘こそすなわち正当な批判であり、それが私にとっては何よりの支えであるといったことになります。こんなのはごくごく当たり前の話なのですが。

 それにいたしましても、「乱歩文献データブック」の誤謬を訂正してくださったその図書館業界の方からは、名張市立図書館有志でこんなに大変充実し、利用価値の高い資料とデータベースを作成され、その英知には恐れ入ります。これからも、多くの人も魅了する資料を管理維持下さいますように、今後のご活躍をお祈り申し上げます、と思わず無断引用してしまうほどありがたいお言葉を頂戴した次第なのですが、当サイトの内実はと申しますと私がひとりの確信犯として著作権法を軽々と無視し、名張市立図書館が著作権を有している刊行物の内容を無断勝手に掲載しつづけているというひどい話なわけなんですから、名張市立図書館もいい加減に私を処罰しなければいけません。私の違法行為を許すな。名張市立図書館は私を許すな。お役所が犯罪者を野放しにしてどうするの。

 みたいな話はまたあらためてぶちあげることにして、そろそろ本題に入りましょう。名張市が策定した「名張まちなか再生プラン」の件です。まずは経緯の確認から。プランの「はじめに」から引いておきます。

 都市を取り巻く社会経済情勢の変化を背景に、地方都市における既成市街地の求心性や活力低下が大きな問題となっており、本市においても例外ではありません。

 こうしたなか、「名張らしさ」を輝かせた名張地区既成市街地(以下、「名張地区」という。)の個性あるまちづくりが期待されています。新しい総合計画においても、名張地区に残された歴史・文化・自然などの地域資源を活用し、市民、事業者、行政など多様な主体の協働により、文化の薫りをいかした集客交流、商業振興や福祉の充実など、誰もが暮らしやすいまちづくりに取り組む方針を「まちの顔づくりプラン」として位置付けています。

 で、この「まちの顔づくりプラン」とやらを実現するために昨年6月、名張地区既成市街地再生計画策定委員会とかいうものが結成され、今年1月24日にその委員会が名張市に対して「名張まちなか再生プラン」たらいうプランの原案を提出しました。これを受けて名張市は2月21日から3月22日までの期間でパブリックコメントを募集。私がそれに応えて名張市の建設部都市計画室に「僕のパブリックコメント」を提出したのが3月15日のことで、3月31日にはパブリックコメントの結果が名張市オフィシャルサイトに掲載されたのですが、私はそんなことにはまったく気づかず、4月21日に発表された「名張まちなか再生プランを策定しました」との告知によってようやく、原案にいささかの修正も加えることなく名張まちなか再生プランが策定されたことを知りました。

 そしてきょう4月29日、2005年の黄金週間の開幕と軌を一にして、情け容赦もあらばこそ、怒濤のごとき名張まちなか再生プラン徹底批判の火蓋が切って落とされたという寸法です。さーあ、ばんばんかますぞー。