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2006年5月上旬
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なんかもうばたばたしていて面倒ですから、勝手ながらあす3日から7日まで世間並みの連休ということにしてしまいます。どうもあいすみません。5月8日月曜日にまたお目にかかりましょう。よい連休をお過ごしください。
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5月8日にお目にかかるはずが、二日遅れとなってしまいました。ご心配をおかけしているのかもしれません。おかげさまでずいぶんと楽になりました。まずは掲示板「人外境だより」の引用にもとづいて経過報告をば。
要するに蜂に刺されたわけです。5月6日の夜に。 この日はなんだか変な日で、この投稿にもあるとおり知人と京都の先斗町へ遊びにゆくことになっていたのですが、知人から入るはずの連絡が前日になってもありません。当日になっても同様で、どうしたのかなと思いながらも終日名張で過ごす結果となりました。夜は外で食事をして、帰宅したのはまだ午後9時にはなっていないころおいだったでしょう。 当の知人から電話がかかりました。妙にこもったような声で、なんだかほがほがした喋り方です。聞いてみると、5月3日に近くの山をフィールドワークしていて崖から落ちてしまい、山中で一夜を明かしたあと、自力で崖をよじ登ってどうにか近鉄大阪線の駅までたどりついたのだといいます。駅員に救急車を手配してもらったのですが、骨折はなかったものの顔面に受けた傷を縫合しなければならず、口のなかも切れているからとても喋りにくいとのことでした。 ちょっと驚かされたのは、 「観音さんが見えましたんや」 というひとことでした。観音さんというのは観音様、観世音菩薩のことでしょうが、 「観音さんがいっぱい集まって、みんなでじーっとこっちを見てますねん。観音さん、なんでこっち来てくれへんねやろ思て、さみしいような気がしたんやけど、あれで観音さんが来てくれとったら、ぼくもう生きてなかったかもわからんね」 いわゆる臨死体験にあらずや。私は知人の説明を聞きながら、どういうわけあいか久生十蘭の「予言」に出てくる、 「おや、福助さんが出て来た」 という主人公のせりふを連想したりもし、こちらからあれこれ質問することはできかねる状態でしたから詳細は不明なのですが、もしかしたら知人は本当に九死に一生を得たのかもしれないなと思わざるを得ませんでした。 いずれ先斗町で全快祝いを、と約束して受話器を置き、そのあとのことはなぜかよく憶えていないのですが、たぶんウイスキーを飲みながらテレビでプロ野球を見て、やがて就寝。 右手の甲のあたりに何か違和感のようなものを感じて、眼を醒ましました。痛いといえば痛いのですが、むず痒いような感じもする。左手で右手をさすりながらまた寝入ったのですが、ときどきめざめては右手をかきむしる動作をくりかえしたことが記憶に残っています。 そして翌朝、7日の朝のことです。眼が醒めるとすぐ近くに蜂の死骸が転がっていました。死骸というか、わずかに動いているようでもある。そういえばと思い出して見てみると、7日付投稿に記したとおり「右手の甲から肘のあたりがすっかり腫れあがっております」といった状態でした。あ、蜂に刺されたのかと前夜のことが納得され、それにしても腫れようがなんだかすさまじく、ずきずきと疼きもしますから、近所の薬局で虫刺され用の塗り薬、ムヒアルファというのを買ってきて塗布してみたのですが、あまり効果はないようです。 その日の夕方には症状がさらにひろがり、右腕全体が腫れあがってしまいました。指はほとんど曲がらず、じゃんけんしてもパーしか出せないありさま。これはよほどのことなのではないかと警戒する気持ちになってきて、夜にはウイスキーをお湯割りで飲むという男の風上にも置けない行為に不本意ながら及んでみたところ、アルコールが体内に入ったとたん、腫れと疼きが一挙に増したような感覚がありました。こんなことで負けてられるか、と思って一杯目は飲み干し、二杯目に口をつけると、これには心理的な要因も大きくあずかっていることでしょうけれど、やはり右腕全体が一気にふくれあがるような気がしてくる。右腕はいまや野放図なほどに腫れあがって、さすがにそれ以上ウイスキーを飲むのはやめたほうがいいだろうと思われましたので、早々に床につくことにしました。 その夜も妙な電話がかかりました。弔辞が消えたという電話でした。4月29日、私は伊賀市で営まれた知人の葬儀に参列し、弔辞を読んで霊前に捧げてきたのですが、電話はその知人の奥さんからで、いくら探しても弔辞が見つからない、心当たりはないか、という用件でした。むろん心当たりなどなく、必要ならば原稿をプリントアウトすればいいだけの話なのですが、弔辞が見つからないというただそれだけの事実が、なにごとか深い意味をもっているのではないかとも思いなされてきます。 ──卯月四月も終わろうとする春の一日に、こうしてお別れを申しあげなければならないのはたいへん悲しいことです。行く春や鳥啼き魚の目は泪。芭蕉がそう詠んで奥の細道へ旅立ったのも、陰暦でいえば弥生の終わりごろ、もしかしたらきょうのような薄曇りの日のことであったのかもしれません。三百年あまりのときを隔てても、芭蕉が鳥や魚に託した惜別の念は自分のもののようにまざまざと、いまあらためて胸にあふれてくるようです。 葬儀の朝に書いた弔辞を思い出しながら寝入りもできず輾転反側していると、また電話がかかってきて、弔辞が見つかったとのことでした。それはよかったと答え、妙なことばかり起きるなと首をひねるような気分で蒲団にもぐりこんだものの、右腕が疼いて眠れたものではありません。だいたいが夜というやつは人の心に不吉な想念をかきたててやまないもので、私はとにかく酔っぱらうことで夜をやり過ごすのを常としているのですが、この夜はほとんどお酒を飲んでいませんでしたから、右腕の疼きがなかったとしても眠れない夜にはなったでしょう。 あ、と眠れない夜を過ごしながらぼんやりした頭で私は埒もないことを考えました。ときどきテレビのニュースで蜂に刺されて死んだ人のことが報じられているけれども、もしかしたらおれも蜂に刺されて死んだ人になってしまうのかもしれない、手の甲を刺されて、その腫れが肘まで、さらに腕の付け根にまで来ているのだから、このあとは肩に来て、頸、顔、頭、そこまで腫れてしまったらどうなるのだろう、とても生きてはいられないのではないか、死ぬなら死ぬでしかたないけれど、せめて『江戸川乱歩年譜集成』をまとめてからのことにしてほしかったなあ、まいったな、あ、このまま眠ったら夢のなかに観音様が出てきそうだ、おれが死んだら誰が弔辞を読んでくれるのだろう、へたくそな弔辞を読まれたらおれはなんだか恥ずかしいぞ、あ、腕がずきずきしやがる、みっともなく腫れあがって他人の手みたいであるというのに、これはやっぱりおれの手か……。 明けて8日の朝、私はいちばんで開業医に駈けつけ、医師の診断を乞いました。ゆくたては9日付投稿にありますとおり──
注射のおかげで疼きは嘘のように消え、腫れには変化がなかったもののそれ以上ひろがることはなく、9日の朝にはこの程度の投稿ができるまでに恢復を見ました。 けさはさらに楽になっていて、腫れはやや引いたかといった程度なのですが、リハビリテーションとしてこうして伝言板に書きつけることも可能になりました。いやよかったよかった。まだ多少の不自由は感じますものの、両手を自由につかえるというのはなんとありがたいことであるのかと、じつに素直な喜びを感じている次第です。 以上、リハビリかたがたご報告まで。 |