2006年9月中旬
11日 伊賀は南伊勢とおんなじだってよ 新人国記
12日 あッ、きょうは火曜日だ 明智小五郎の悲劇
13日 水曜日わしは反省する 魔法人形
14日 木曜日は説教ばかり、金曜日に年譜の話 ゴシックの位相から
15日 人名魔境をひとり行く 探偵作家一本参る話
16日 分け入っても分け入っても人名魔境 子不語の夢
17日 ドクトル高橋繁盛記 岳父をしのんで
18日 ドクトル高橋とドクトル楡 江戸川乱歩ゆかりの坂手島
19日 ドクトル茂吉は国技館に黙しぬ 暁紅
20日 番附もくだりくだりし出羽ヶ嶽に捧ぐ 童馬雑文
 ■ 9月11日(月)
伊賀は南伊勢とおんなじだってよ

 『新人国記』は『人国記』に同時代の視点から説明を加え地図を添えたいわばリニューアル版。元禄14年、ということは江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよんだ年、西暦でいえば1701年に板行されました。著者の関祖衡は越前の人、伊藤仁斎の門下であったといいます。

 それではさっそく「伊賀国」の全文を。

 当国の風俗は、伊勢の国に等し。下伊勢の国に詳らかなり。されども、少しは意地の善きところもあり。その風、飾りを専らとして、根の遂ぐることなきとなり。

 按ずるに当国、四方皆山にして、川も亦多し、寒暑中正なり。民俗本書の説く所、今も違はず。

 ポイントはむろん、飾りをもっぱらとするという一点です。岩波文庫『人国記・新人国記』では「飾り」という語に「実質に関係のない、うわべだけの美しさ」との註が附されています(こんなこといったら関係各位からお叱りを頂戴してしまうことでしょうが、時節柄なんとなく上野天神祭で城下町をゆく美麗荘厳なだんじりが連想されてしまう次第です)。伊賀の国の人間はうわべだけを美しく飾り立てることを好み、実質はともなわない。うわっつらだけ飾ってればそれで満足、上機嫌。中味なんてどうだってかまわないのである。そんなことが書かれております。

 いかがでしょうか「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」関係者のみなさん。うわっつらだけ飾って喜んでいらっしゃったみなさんの愚挙は赤穂浪士による元禄の快挙が名を馳せた時代にすでに予見されていたことになります。『新人国記』おそるべし。しかも痛いのは「根の遂ぐることなきとなり」、つまり根がつづかなくてものごとを最後までやりとげることができないとも指摘されていることでしょう。伊賀の蔵びらきを契機として芽吹いたはずの地域社会の多様な可能性はいったいどうなったのかな。どうにもなってはおらんではないか。みんなどこかへ行ってしまったではないか。何もつづいておらんではないか。それも道理。三億円どぶに捨てていくらうわっつらを飾ってみたところで、そんなものが地域社会に根づくはずがないのである。なにしろうわっつらだけうわべだけ、足がしっかりと地に着いた話なんかでは全然なかったのであるからな。

 むろんこんなものは血液型による性格判断に似たようなもので、うわべだけ飾って根がつづかない、なんてことを指摘されたらたいていの人間は自分にはそういうところがあるかもしれないと納得してしまうものでしょうから、まともにとりあう必要はありません。もしもみずから省みて自身の欠点らしきものに思いあたったのであるのならそれを肝に銘じておけばいい、みたいな感じで読んでおけばOKでしょう。

 ところで、「当国の風俗は、伊勢の国に等し」と記されているその伊勢の国についてはどんなことが書かれているのか。やはり気になってしまいます。で、ここから先は──

  本日のフラグメント

 ▼1701年2月

 新人国記 林祖衡

 乱歩はそもそも伊勢の人ですから、『新人国記』の「伊勢国」のくだりは乱歩の気質気性を知るための参照文献のひとつということになるかもしれません。ていうか、『江戸川乱歩年譜集成』に『新人国記』からの引用があったりしたらなんとなく面白い気がする、といった程度のことしか私は考えていないのですが(うわっつら志向も甚だしいといわねばならぬか)、とにかく「伊勢国」全文を引いてみます。

 底本は岩波文庫。さらにその底本はというと元禄14年2月、江戸日本橋南一町目で書林を営んでいた須原茂兵衛によって出版された上下二冊本です。

 当国の風俗、南北各別なり。南伊勢の人、その心入れは、土にて作りたる器に、漆にてぬりて、その上に金銀の色どりをしたるごとし。誠に言葉の躰はしをらしく、山城の人に同じといへども、心底は甚だ欲ふかく、親は子をたばかり、子は親を欺く。万事につきて、きたなき意地なり。侍も心入れきたなく、下人を情けなく使ひ、下人はまた、主を当座の渡世に頼みぬると思へり。互ひに頼もしげなき風なり。

 北伊勢は、人の意地能き所も多し。これも譬へば、下地を雑木にて作り、上を漆にて荘るごとし。然れば、下地の土にて作るよりは、はるか勝りたれども、元来雑木の所あるなり。約を違へぬれば、赤面をする程の事はあるなり。

 婦人の形相は、上方にて、京当国と第一なりとぞ。

 按ずるに当国は、大底海浜つづきなり。但し南西は一面に山なり。川も亦多し。寒暑は暖気多く、温和なる地なり。民俗本書に詳らかなり。尤も軽く薄き風儀なり。

 乱歩の気質気性にぴったり重なるところはないようです。

 しかしひどい話ではないか。『人国記』に記されていた「下伊勢」は『新人国記』の「南伊勢」に相当するらしいのですが、伊賀の気質がそれとおなじであると説かれている南伊勢の人間の心映えはどんなものであったのかというと、土で器をつくってそれに漆を塗り、さらにそのうえに金銀の彩りをしたようなものである。なんていうのですからまさしく表面ばかりを飾り立ててやまぬうわっつら志向。そして言葉づかいは京都の人間に似てしおらしく、つまり優美であったり慎ましかったり殊勝であったりするのだけれど、しかし腹の底ではとっても欲が深い。親は子をたぶらかし、子は親をだます。万事において意地すなわち心根が汚い。侍といえども同様で、使用人をごく無慈悲につかうけれども使用人のほうだって腰かけ気分。つまり主従のあいだに信頼関係というものが存在しない。それが南伊勢の気風というものであり、伊賀の国もこれとおなじであるというのだからひどい話ではありませんか。

 しかし、しかし思いあたることがないでもありません。ただし名張市民のひとりとして異議を申し立てておくならば、言葉づかいが京都の人間に似ているのは旧上野市の話であって、言葉のうわっつらはやさしげだけれど性格的にはきわめて底意地が悪いという点で京都の人間と旧上野市の人間は似ているというのが伊賀地域一般でひろく認識されている事実ではあるのですが、そんなことで名張までいっしょくたにされてしまってはなあ。とはいえその点を別にすれば、どことなく心当たりがないこともないとお思いなのではありませんか伊賀地域住民のみなさん。

 で、気質ではなく「婦人の形相」すなわち容貌の話になりますと、上方で美人といえばまず京都と伊勢とが双璧でしょうな、とこの『新人国記』には記されているのですが伊賀はどうした。われらが伊賀はどうした。伊賀はどうなっておるのじゃいったい。われらが伊賀には美人の話はないのかよ。それはまあ、たしかにそうかもしれんのじゃが……。


 ■ 9月12日(火)
あッ、きょうは火曜日だ

 うっかり曜日を勘違いしていたせいで本日はあまり時間がありません。伊賀の国におけるうわっつら志向の話はまたあしたからということにいたします。それにしても、うわっつらのことにぼーっと気をとられてるあいだにわれらが伊賀の国はごみ捨て場になってしまうのかなと、「【伊賀】 伊賀の処理会社に搬入 大阪・能勢の汚染物質290トン」という本日付中日新聞の記事を読んでいささか不安をおぼえた次第なのですが、伊賀市のみなさん大丈夫なんでしょうか。

  本日のフラグメント

 ▼1979年7月

 明智小五郎の悲劇 小林久三

 朝起きて乱歩関係のニュースを検索したところ、小林久三さんの訃報が報じられておりました。私は小林久三作品の熱心な読者ではまったくないのですが、小林さんによるフラグメントということになるとまっさきに浮かんでくるのがこれです。

 歿後第二次の講談社版乱歩全集第二十巻『探偵小説四十年(上)』の巻末に収録されたエッセイです。

 これは別の場所にも書いたが、私は、五年前に乱歩賞を受賞したとき、池袋の乱歩宅をうかがったことがある。そのとき、乱歩未亡人は、「芋虫」が全篇削除を命じられたときのおもい出を語りながら、不意に、

 「国家に反逆する小説を書いてはいけませんよ、絶対に」

 と、諭すようにいわれた。未亡人の言葉に、私は異様なショックを受け、その衝撃感はいまもなまなましく記憶に残っているが、戦前の暗黒のなかで、一人二役の自己矛盾、自己分裂に悩みながら、日本の探偵小説の鼻祖となった乱歩。最近の時代の流れのなかには、乱歩未亡人の言葉が、ある現実感を帯びてくるような兆しがみえはじめている。明智小五郎の悲劇は、二度とくり返されてはならないだろう。

 二十七年前に書かれた文章ですが、いま読み返すと乱歩未亡人の言葉がいよいよ「ある現実感」を帯びてくるように思われるのは私だけ?

 小林久三さんのご冥福をお祈りいたします。


 ■ 9月13日(水)
水曜日わしは反省する

 きのうは火曜日でした。ラビなら激怒するところでしょうが私は教壇に立たねばならぬ日で、しかし10日の日曜日、この伝言板でもご案内申しあげました名張高校吹奏楽部の定期演奏会に足を運んで生徒や学校関係者に会ったものですから、それでなんとなく次の授業は一週間後だと思いこんでしまっていたのでしょうか。あッ、きょうは火曜日だと遅まきながら気がついて、きのうの朝は授業の準備におおわらわ、みたいな感じでした。

 さてうわっつら志向がもしかしたら伝統的な土地柄ってやつなのかもしれないこの伊賀の地で、名張市青少年センターのステージにおいて名張高校の吹奏楽部員たちがルパン三世のテーマやらなんやらを演奏した日の夜、いわゆる名張まちなか、名張旧町地区でさる会合が開かれました。といったことを私は翌11日月曜日の市中見回りのおりに聞き及んだのですが、ほんのちょっとした立ち話でしたから情報としてはごく曖昧なものであることを前置きしておはなしを進めますと、その会合というのは名張まちなかの商業者を主体とした集まりであったらしく、しかし会合のテーマがどんなことであったのかさえ私はよくは知りません。ただしその席で名張まちなか再生プランが話題になったことは事実のようで、しかもけっして希望や喜びにあふれた感じではなく、むしろ疑念や心配とともに語られたみたい。

 むろん私とて先日も記しましたそのとおり、

 「名張まちなか再生プランに期待してます」

 なんてこといってる人間には出会ったことがなく、例のプランにかんする名張まちなかの空気は冷え切っているなといった程度の認識はありましたが、そしてプランにひそかに異議を唱えている人間が存在していることも知ってはおりましたが、日曜の会合は事情がもう少し深刻だったようで、プランにもとづいて名張のまちに妙なものが新しくつくられるのは困ったものだ、乱歩文学館なんて具体的な運営内容はまるっきり白紙なのではないか、細川邸だけをどうこうしようという発想そのものに問題がある、といった声も出されたそうです。名張まちなか再生プランには地域住民のコンセンサスなど存在していないようだと私はあらためて感じ、単に冷え切っているだけでなくプランに明らかに反対している地域住民が少なからず存在しているらしいという事実にはじめて気がつきました。これはうかつであった。

 その席では私のことも話題にしていただいたとの由で、私という人間は名張まちなかの人たちからどんな眼で見られているのかといいますと、

 「こんなときにはおおいにその能力を発揮すべきだと期待されているにもかかわらず名張まちなか再生プランには、けっ、ばーか、と完全にそっぽを向いているやつ」

 聞いて大笑いしてしまいました。むろんその話を聞かせてくれた方に対しては、いまとなっては完全にそっぽを向いておるけれど、おれだってできるだけのことはしてきたわけね、ちゃんとルールにのっとって、しかし連中はそれに応えようとせず、インチキばかりを重ねやがった、外部の人間の話を聴く考えはないの一点張りでずーっと押し通してきてこのざまなの、みたいなことを簡単に説明しておきましたので、相手の方は眼をまるくして驚いていらっしゃいました。あんなプランはいまの時点ですでに失敗であることが明白である、ということでその方とは意見の一致を見たわけですが。

 それはともかく、私がうかつであったと思ったのは、名張まちなか再生プランにかんしては冷凍室のごとく冷え切っているけれど、名張市が名張まちなかに予算を投じるという点ではプランの実施を歓迎する、というのが名張旧町地区住民の平均的な意識であろうと踏んでいたことです。これはあるいは誤解であったのかもしれません。名張まちなかの人たちが自分たちのまちに抱いている愛着というものを、私はもしかしたら小さく見積もりすぎていたのかもしれません。そこがうかつであった。ばかであった。

 つまり私は、自身のウェブサイトで名張まちなか再生プランを批判するだけでよしとせず、名場まちなかの人たちにもっと直接語りかけることを試みるべきではなかったか。名張のまちの歴史を語り、乱歩と名張の関係を語り、そしてこれは名張まちなか再生プランがまずそれを明示するべきであるにもかかわらず全然してないことなのですが、名張のまちを再生するためのアイデンティティの拠りどころをいったいどこに見いだすべきなのか、その点にかんする私見を語り、そうすることで名張まちなかの人たちがみずからの主体的な問題として再生に汗を流すためのひとつの方向性を提示する。

 もしかしたらおれはそれをしなければならなかったのではないか。もちろんこんなことは本来名張市がやるべきことなのであるが、名張市役所の人たちにそんなことができるか。できない。とてもできない。逆立ちしたってできない。百年たってもできない。できる道理がない。だったらおれがやるべきではなかったか。いやまいった。まったく気がつかなんだ。伊賀市のお寺にお邪魔してありがたいおはなしをお聴きいただくのもいいけれど、もっと身近な名張まちなかのみなさんに直接語りかけることをしなかったのはおれの怠慢であった。その怠慢のせいでおれはいま名張旧町地区住民の一部から、

 「おまえがついていながらどうしてこんなことになっちゃったわけ?」

 と難詰されているというわけだ。いやほんに役立たずですんまへん。なんやもう名張市役所のみなさんよりも役立たずな感じでおまして。いや面目ないお恥ずかしい。なんてこといってる場合かよ。

 しかしおれはここまで役立たずな人間でもなかったはずである。たとえばおれが提出したパブリックコメントなんて結構なレベルのものであったぞ。あんなのを涼しい顔してすっと出すことのできる人間なんてそうごろごろはしておらぬ。名張のまちをアイデンティファイするのはかなり困難な作業であり、これはおとなりの旧上野市とくらべるとよくわかることなのであるが、あちらは近世における城下町のおもむきがアイデンティティの拠りどころとなっているうえ、近代に入ってから乱歩の恩人でもあった川崎克の手で天守閣と俳聖伝というふたつのキラーコンテンツが建設されておる。アイデンティファイにおける具体的な核の必要性を理解していた川崎克というのは相当に頭の切れる男であったのだろうとおれは思う(そうしたアイデンティティが旧上野市に近世的世界を色濃く残存させているのはまたべつの問題である)。それに比較すれば個性が稀薄であり印象が散漫でもある名張のまちにどのようなアイデンティファイが可能かを考え、しかも乱歩という唯一のキラーコンテンツを巧みに利用してまちなか再生におけるひとつの具体的な方向性を示したのがおれのパブリックコメントだったのであるが、それがまあなんだかなあ。

 むろん手遅れである。取り返しはつかない。なんかどさくさまぎれに組まれてしまった観すらあるプラン関連予算をさかのぼってゼロにする、すなわちプランを仕切り直すというのは現実的にはほぼ不可能である。もしも仕切り直しができたら即座に神認定みたいな話になるであろうが、実際には名張まちなか再生プランなるインチキプラン、ご町内感覚となあなあ体質を閉鎖性排他性で二重三重十重二十重にガードした密室のなかでうわっつらのことしか考えられぬ連中がこそこそまとめたインチキプランが実施に移され、このままで行けば2008年度には赤字団体になってしまうらしい名張市は財政の硬直化とシステムの硬直化とをまざまざと露呈しながら名張のまちに取り返しのつかぬ改変を加えることで赤っ恥をかいたり地域住民の信を失ったりまあえらいことになるのであろうな。わしゃ知らん。

 わしゃ知らん、とはいえぬか。おまえがついていながらどうしてこんなことになっちゃったわけ? とおっしゃる名張まちなかのみなさんに対してわしゃ知らんなどといえるわけがないか。しかしおれにはもう手だてがないのである。いまさら名張まちなかのみなさんに直接語りかけたって手遅れなのである。しかしまあ、名張まちなかの再生にかんするおはなしくらいいくらでもいたしますからご希望があればお寄せくだされ、ということだけは申しあげておこうか。そこで地域限定の告知である。

寺 子 屋 歴 史 講 座

大超寺に眠る先人達(第1回)

日時10月15日(日曜日)午後1時30分−3時

会場大超寺本堂(伊賀市上野寺町)

テーマ田中善助と「新しい時代の公」

講師

入場料無料

主催大超寺

 これではありません。以下に掲げます。

名 張 ま ち な か 出 前 講 座

手遅れじゃがしかたがない
名張まちなか再生プランその他について語ろう

 ご注文をいただけばご指定の会場にお邪魔しておはなしをいたします。名張市が実施している出前トークのようなものだとお思いください。テーマは、名張のまちの歴史、乱歩と名張の関係、名張まちなか再生ブランの欺瞞性、まちなか再生の方向性、その他、みたいなことになっております。

講師

講師料無料

 本来であれば名張まちなかの人たちに対して、いやもう全市民を対象ということでもいいのだが、名張市なり名張まちなか再生委員会なりがプランにかんして直接語りかける場を設けるべきであったとおれは思う。何をいっても手遅れではあるがな。けっ。ばーか。

  本日のアップデート

 ▼2005年2月

 魔法人形 江戸川乱歩

 乱歩の少年ものでは異色の一篇と呼べるでしょう。

 これはいまだ部外秘なのかもしれませんが、伝統の「SRマンスリー」誌が乱歩のベスト作品を選出する試みに挑戦しております。じつはこの私、ありがたくも光栄なことに10月に発行されるというその乱歩特集号に何か書くようにと編集部からお声をかけていただき、僭越ながら末席を汚すことになりました(むろん原稿が採用されるかどうかは不明なのですが)。そこで少年ものではこの「魔法人形」をセレクトし、8月末日と聞いていた締切を厳守して原稿を送付した次第であったのですが、締切を過ぎてから原稿執筆にとりかかるのが「SRマンスリー」の伝統であるらしいとあとになって知りました。おそるべしSRの会。

 例によって巻末解説から引きます。

解説 見まがう眼、見分ける眼 佐藤宗子
 たしかに「人形」は見なれた親しい玩具です。その一方で、日本人形の髪が伸びた……といった怪談もよく耳にします。内田善美のマンガ『草迷宮・草空間』は、日本人形が命を持つ話ですが、精巧につくられた人形は文字通り「人」の「形」をとり、ひょっとして息づいているのではないかと疑わせるほどの存在といってよいでしょう。本作品登場の人形たちもまた、あまりに見事で、ひきつけられるとともにこわい……そんな思いを抱いた人も多いはずです。 

 ■ 9月14日(木)
木曜日は説教ばかり、金曜日に年譜の話

 もっぺん告知しとこっと。

名 張 ま ち な か 出 前 講 座

手遅れじゃがしかたがない
名張まちなか再生プランその他について語ろう

 ご注文をいただけばご指定の会場にお邪魔しておはなしをいたします。名張市が実施している出前トークのようなものだとお思いください。テーマは、名張のまちの歴史、乱歩と名張の関係、名張まちなか再生ブランの欺瞞性、まちなか再生の方向性、その他、みたいなことになっております。

講師

講師料無料

 いくら告知したって反応なんかあるわけないのですが、私には自分でどこかの会場を借りて(可能であれば敵陣深く細川邸あたりが面白かろうが)こういった講座を主催する力などとてもありませんし、そのためのモチベーションだって結構あやしい。しかし依頼を受けて喋るくらいは朝飯前なのであって、それにそうさな、おまえがついていながらどうしてこんなことになっちゃったわけ? とおっしゃるみなさんにはまずもって頭のひとつも下げねばなるまい。私には名張まちなかのみなさんに詫びを入れつつ経緯を説明することが暗黙のうちに要請されているのかもしれません。

 むろん名張まちなか再生委員会が報告会を開いてもいいのである。いや、開くべきなのである、といったほうがいいであろう。名張まちなか再生プランがいったいどうなっておるのか、名張旧町地区住民に報告する義務がこら委員会おまえらにはある。名張市の広報紙にわずか一ページ記事を載せたくらいで義務が果たせたとは思うな。名張まちなかにはいいかこら、おまえらがプランにかんする情報を開示しようとしないことに不信の念をつのらせている人がいる。いまの時点でプランがどの程度まとまっているのか、細川邸がどのように活用されるのか、乱歩関連施設がどのように整備されるのか、そうした整備が名張まちなかの風情をぶっ壊すものなのかそうではないのか、そうしたことを知りたがってる人たちがいる。おまえらにはそれに応える義務がある。おれのいってることがわかるか。わかるだろうな。それならば名張まちなか再生プランの報告会のひとつも開いてみろという話だ。

 なんてこといっててもしかたないか。ダンゴムシみたいにまるまって何いわれても反応せずに税金いいだけどぶに捨ててろ。なんてこといっててもほんとにしかたないからひとつだけいっといてやる。おれにはいまさらみなさん方のお相手をするつもりはさらさらありませんけれど、よっぽど思案に余ることがあったらいつでも正直に申し出ておいでなさい。話を聴くくらいのことはいくらでもしてやろう。「こんなときにはおおいにその能力を発揮すべきだと期待されているにもかかわらず名張まちなか再生プランには、けっ、ばーか、と完全にそっぽを向いているやつ」であるおれがそういっておるのだ。ありがたいと思ってちっとは素直になってみろ。そうでもしないとおまえらそのうち名張のまちを歩くこともできなくなるんじゃないの。ま、よく考えてみることだ。

 といったところでインチキプランの話題はひとまず終了し、あしたはひさかたの光のどけく『江戸川乱歩年譜集成』の話題でもつづりたいと思います。

  本日のアップデート

 ▼2006年9月

 ゴシックの位相から 高原英理

 巽孝之さんと荻野アンナさんの編による評論アンソロジー『人造美女は可能か?』に収められました。

 巽孝之さんの「はじめに──人造・美女・エンサイクロペディア」では、「人造美女」なる概念をあえて選んだ理由がこう説かれています。

 ──いわゆるロボットやサイボーグといった枠組だけでは必ずしも包括しきれない中世以来のゴシック的な錬金術的イマジネーションが、なぜか二十一世紀初頭において息を吹き返しており、それが今日の人工生命をめぐる最先端テクノロジーと融合しつつ、さまざまなサブカルチャーに浸透し、「技術」と「芸術」とがほんらい識別不能だった啓蒙主義以前の文脈を再認識させるからである。

 ならば現代において「人造美女」が秘めている可能性はいかようなものか。それをめぐって昨年12月に開かれたシンポジウムにもとづき、より徹底的な再検討を試みるために編まれたのがこの評論集一冊。

 恥ずかしながら執筆陣にははじめて眼にするお名前もあるのですが、乱歩ファンにも親しい名前の筆者による一篇がこれです。『ゴシックハート』の著者がフランケンシュタインから語りおこし、和洋の人造美女なるものを俯瞰概説しながら最後にはやはり(といいますか、期待にたがわずというか、待ってましたというか)われらが乱歩にたどりつきます。

 出たばかりの本から長々しく引用するのはどうにも気が引けますので、とりあえず「3 江戸川乱歩による人形化願望の物語」の冒頭二段落をどうぞ。

 日本文学史上、「人形愛」「人形化への願望」を最初に描いた作者が誰か、今私には特定できない。ただポピュラリティという意味から人形への性愛を日本文学上のテーマとして広く認知させたのは江戸川乱歩と言ってよいだろう。『人でなしの恋』は人形愛という「人間ならぬ」(=人でなしの)恋を描いた小説として記憶される。『押絵と旅する男』がそうであったように、生身の女性に興味を持たず、いわば人造の美女にのみ惹かれる男性の心理を、乱歩は反復して描いたとも言え、またその愛の向かう先が人形や押絵ではなく死体であった場合には『蟲』のような展開となった。

 これらは当時、「信じられない異様な性愛」として猟奇的に受け取られたかもしれないが、現在からすれば、描かれ方はいくらか特異であっても、大抵の人が意識下に持つであろう願望の愚直な形象化と見ることは難しくない。むしろ現在拡大しつつある傾向を物語化した先駆けとも言えるだろう。

 以下、ゆくりなくもきのうからの縁つづき、「魔法人形」を中心として乱歩が描くところの人工の美女が語られるのですが、全文はお買い求めのうえ(お近くの図書館をご利用いただいても結構です)お読みください。版元である慶應義塾大学出版会オフィシャルサイトの紹介ページはこちらです。


 ■ 9月15日(金)
人名魔境をひとり行く

 『江戸川乱歩年譜集成』の話題です。

 この本は名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブックも数えて四巻目として発行される予定なのですが、先日来お知らせしておりますとおり名張市の財政状態はもはや瀕死の状態、2008年度にも赤字に転落しようというありさまなのですから、たとえめでたく編纂が終了してもそれを出版するための予算は当面つきにくかろう。乱歩の書誌などという市民生活に何の関係もないものに名張市民の税金を支出するのは私としても心苦しく、とはいえ従来どおりの贅沢な造本を維持しても予算はたぶん三百万円程度であり、しかも名張市は名張まちなか再生プランを実施して乱歩記念館だか乱歩文学館だか、ろくに乱歩作品を読んだこともない連中が絵図を引いた乱歩関連施設に無駄な予算を投じることになるわけですから、私としても名張市が税金の無駄づかいをきちんと精査したうえで『江戸川乱歩年譜集成』の予算化にだめが出されるのならいいけれど、それをすることなく乱歩文学館はOKだが『江戸川乱歩年譜集成』はNGであるなどと決めつけられるのはあまりにも心外。不本意である業腹である。だいたいが無駄づかいを抑えるというのなら無駄に養ってる無能力管理職をまずなんとかしろなどともいいたくなってくるのですが、こんなこといってると叱られるのかな。

 ただしまあ、『江戸川乱歩年譜集成』の編纂を進めていて実感されるのはこれは一年や二年でめどのつく話ではないなということなのですから、したがって現実には予算化のことなんかまだまだ先の問題、まずは当座眼前の作業を粛々としてこなすのが先決でしょう。なんてことは百も承知の二百も合点と来ているわけではありますが、しかしやんなる。やんなっちゃう。まーあ遅いの。はかどらないの。なかなか前に進まないの。コールタールのなかを歩いてるみたいでほんとやんなる。やんなっちゃう。

 当面の作業というのは『探偵小説四十年』を年表化することで、それだけならまだいい。しかし現在の構想では『探偵小説四十年』に登場した人名はその生歿をすべて『江戸川乱歩年譜集成』に落としてゆくことにしておりますので、つまり乱歩と人生の軌跡を交錯させた数多くの人間がいつ生まれていつ死んだのか、そのデータも年譜にはぜひ盛りこみたいものだと考えておりますので、新たに人名が出てくるとその生歿、しかも年のみならず月日まで調べてゆく必要があるわけね。だから人の名前がずらずらずらずら列記されたページ、たとえば平凡社の現代大衆文学全集全六十巻の作家名は次のとおりであるなんて感じで作家の名前ばかりが十何行も無慈悲冷酷にならんでいたりした日には、私は思わず『探偵小説四十年(上)』をぱたりと閉じてしまう。そのまま家を出て放浪の旅に出てやろうかとさえ思う。

 しかも私はそのうえに、憂きことのなおこのうえに積もれかし、『探偵小説四十年』に出てくる小説その他の作品名もみーんな『江戸川乱歩年譜集成』に記載してやるぜと意気込んでおりましたのですが、これはやっぱり至難のことみたい。とくに「新青年」に掲載された海外作品の初出なんてまずわからない。国内作品に眼を転じても、乱歩はたとえば『大衆文芸傑作選集』と『大衆文学集』の収録作品をすべて列挙しておるわけですが、いわゆる大衆文学作品の初出なんてまずつかめません。インターネットの検索でなんとかひっかかってくるのは長谷川伸とか直木三十五とか、せいぜいそのあたりなものでしょうか。逆にいうと探偵小説というのはえらいもので、インターネットと手近な書籍、たとえば「新青年」関係の資料集や光文社文庫の探偵小説雑誌シリーズなどで初出くらいはほぼ判明しますから、このあたりにも探偵小説というジャンルの特異性を見るような気がする次第なのですが、作業を進めるうちアンソロジーに収録された作品の初出をいちいち年譜に落としてゆく必要があるのかという疑問もおぼえ、乱歩がそれに言及している作品ならばともかくとして、ただ機械的に羅列されただけの作品は無視してしまっていいのではないか(ていうか無視するしかないのではないか)と考え直したりもいたしましたあげく、『探偵小説四十年』に登場した作品名は取り扱いに差を設けるという方向で前向きに善処することになるだろうと思っております。

 しかし人名、これははずせぬ。『探偵小説四十年』に登場した人名はすべてカバーするという原則は今後もキープしなければなるまいと考えております。もちろん乱歩とは面識がなかったのではないかと思われる人物もおり、具体例をあげるならばたとえば乱歩より二十何歳年長の井上剣花坊という人物がいて、『探偵小説四十年』には探偵趣味の会が発行した「探偵趣味」の執筆者のひとりとして機械的に名前が録されています。この人は明治3年6月の生まれですから、『江戸川乱歩年譜集成』の明治3年のページの6月のパートにはこんなふうに記されることになります。たぶん。

3日 井上剣花坊、長門の国に生まれる。本名、幸一。川柳作家。大正十五年七月「探偵趣味」に寄稿。昭和九年九月死去。

 つまりまあこれも年譜なわけです。生歿となりわい、それから乱歩との関連(大正15年に「探偵趣味」に寄稿したというただそれだけのこと)のみを抜粋したものにはすぎないけれど、これだって井上剣花坊という人物の年譜であることにはまちがいない。そして乱歩の年譜を集成するということは乱歩とかかわりのあったあまたの人間の年譜を集成することでもあると気がついて愕然とし、そのとたん耳の近く遠くに蜂の羽音が幾重にも層をなして渦巻いているような幻覚をおぼえて喪心してしまいそうになった今年の夏。なんかもう大変なことだぞ実際。

  本日のフラグメント

 ▼1927年10月

 探偵作家一本参る話 江戸川乱歩

 まったく大変です。なんかもうほんっとに大変なことです。

 登場する人名をチェックしてゆくのはしかし二次的な作業であり、『探偵小説四十年』に記されているところを年譜に落としてゆく作業がまず必要。ところがほかの随筆と照合してみると記述に矛盾の見られるケースがないでもなく、たとえば大正15年のことでいいますと、『探偵小説四十年』には大正14年の1月に名古屋駅でかっぱらいに遭ったことが記されているのですが、これは『子不語の夢』の村上裕徳さんの脚註でも指摘されていたとおり大正15年1月のまちがい。

 しかも仔細に見てみると、

 ──名古屋駅の待合室で袴をしめ直しているすきに、そこのベンチへ置いた懐中物を盗まれてしまい、無一物となった。探偵作家カッパライに遭うというのは、まことに汗顔のいたりで、交番に届ける勇気もなく、そのまま自動車で小酒井邸に行き……

 と『探偵小説四十年』には記されているのですが、昭和2年に現代大衆文学全集の月報に発表されたなりどこにも収録されていないこの随筆では、事件のゆくたてがこんなぐあいに報告されています。

 昨年江戸川が大阪から上京の途次小酒井氏訪問の為に名古屋に下車し、停車場で財布をスラれて了つた。汽車の切符から荷物のチツキまですつかりなくなつてどうすることも出来ない。駅の巡査をせめて見ても一向泥棒の見当がつかない。金は確か二百円ばかりだつたが、旅行が続けられないので弱つた。さしづめ小酒井邸までの自動車賃もない〔。〕仕方がないので、駅前のタクシーで小酒井氏の宅へのりつけて玄関へ小酒井氏を呼んで早速借金の申込み二円だつたか借用してタクシーに払つた。

 ごらんのとおり『探偵小説四十年』ではかっぱらい、「探偵作家一本参る話」では掏摸と記されていて、要するに矛盾が見られる次第です。それはまあ、どっちだっていいような些細な矛盾ではありますが。

 ここで厳密に考えておくならば、『探偵小説四十年』にあるように「ベンチへ置いた懐中物を盗まれてしまい」というのであれば、それはかっぱらいというよりは置き引きと呼ぶのが正確であろう。私は置き引きには一家言ある人間であるからこの点だけは譲れないように思うのですが、そんなことはともかくといたしましても、「交番に届ける勇気もなく」という状態だったのか、あるいは「駅の巡査をせめて見ても一向泥棒の見当がつかない」という事態にまでいたったのか、この点には明らかな矛盾が存在しています。

 つまりおなじく乱歩が書いたものであっても、ふたつの文章の記述内容に微妙な齟齬が見られるなんてことがなくもないわけです。いや、結構あるというべきか。とにかくそういう意味でもなんだか大変。大変っていうかもう超大変なことなんだぞ実際ほんとにまったくよー。


 ■ 9月16日(土)
分け入っても分け入っても人名魔境

 まず続報。伊賀の人間がうわっつらのことばっかぼーっと考えてるあいだに伊賀の国はごみ捨て場になってしまうのかという懸念を抱かせた9月12日付中日新聞「【伊賀】 伊賀の処理会社に搬入 大阪・能勢の汚染物質290トン」の続報ですが、昨日付朝日新聞に「能勢ダイオキシン汚染物「搬入一時中止を」 三重県要請」、本日付中日新聞に「焼却前に県が検査 大阪・能勢の汚染物質処理」が掲載されております。これは結構大変なことで、能勢といったら催奇形性や発癌性を有する塩素化合物ダイオキシンによる環境汚染で一躍全国に名を馳せたところなのですが、伊賀市はそのあとを受けてダイオキシン日本一の座をねらってでもいるのかな。しっかりしようね伊賀市のみなさん。ていうかこうした問題には制度上の問題がまずあるみたいな感じなのですが。

 さて、乱歩というのは記録したり体系化したり、言葉をかえれば目録をつくることがとても好きな人でしたから、きのうも記しましたように全集や叢書が出たときには『探偵小説四十年』にもその全巻構成をちゃんと書き入れておくのがいわば習性でした。書誌に携わる人間にとってはまことにありがたい話なのですが、しかし私みたいに『探偵小説四十年』をベースとした書誌をつくろうとしている人間にとりましては、乱歩のこういった目録好きな性格というのがときにほんとにやんなっちゃう。ときにというかもうしょっちゅう、下手すりゃ連日やんなっちゃう。

 とはいうものの、『探偵小説四十年』に登場した人物の生歿年なんて一度調べればそれで済むわけですから二度目以降はそうした作業が不要になり、羅列された人名に対する恐怖も年を追って薄らいでゆく感じです(この場合の「年」というのは『探偵小説四十年』のなかを流れている時間のことなのですが、私にはときおりそうした時間と現実の時間、ふたつの時間を同時に生きているような錯覚が生まれることがあります)。たとえば昭和5年、乱歩は天人社の世界犯罪叢書と平凡社の世界猟奇全集にどちらも代作ながら名を連ね、したがって『探偵小説四十年』にはこれらふたつの叢書の全巻構成が記されているわけなのですが、世界犯罪叢書全十巻の著者のうちこれが初出となるのは四人だけ。著者のすべてをチェックする必要はないのですから楽といえば楽な話です。

 だけれども楽でないっちゃあ決して楽ではなく、四人のうち生歿年の調べがついたのは松谷与二郎と小牧近江のふたりだけでした。しかも私は律儀というか粘着というか、人名と同時にシリーズそのもののチェックを進めるうちにある恐ろしい疑惑にたどりついてしまいました。この天人社という新興出版社から出た世界犯罪叢書なるシリーズは、ほんまに完結したのかいなという疑惑です。インターネットを利用してそこらの図書館の蔵書を検索してみても、たとえば国立国会図書館にさえこのシリーズは五巻しか所蔵されておりません。立教大学の乱歩旧蔵図書にいたっては全十巻のうちわずか一巻、つまり乱歩は自分名義の『変態殺人篇』しか所有していなかったようで、それならば『探偵小説四十年』に記録されている全十巻の構成は何に依拠しているのかというと、『貼雑年譜』にスクラップされた世界犯罪叢書の新聞広告だというではないか。

 危ない危ない。そんなものをうかうか信用することはとてもできない。できるわけがない。下手をすれば実際には刊行されるにいたらなかった巻が『江戸川乱歩年譜集成』では出版されたことになっている、みたいなことになりかねません。ですから世界犯罪叢書にかかわりのある人名では──

 まず明治13年の6月。

4日 松谷与二郎、石川県に生まれる。政治家。昭和六年一月「世界犯罪叢書」第一巻『思想犯罪篇』を刊行。昭和十二年三月死去。

 これは出版が確認された巻ですからこう書けるのですが、刊行されたことが確認できない場合はこうは行きません。

 明治27年5月。

11日 小牧近江、秋田県に生まれる。本名、近江谷(おうみやこまき)。評論家。昭和五年刊行が開始された「世界犯罪叢書」の新聞広告に第六巻『暗殺篇』著者として名が見える。昭和五十三年十月死去。

 現時点ではとりあえずこんなふうに書いておくしかありません。なんか妙だけど。

 しかし生歿年の調べがついたのであればまだいい。上々である。世界犯罪叢書の著者にはあとまだふたり初見の人物がいて、これはもう生歿年すら確認できません。前田誠孝というのは警察関係者らしいのですが、それ以上のことはいっさい不明。もうひとりの永松浅造にいたってはどこの馬の骨やら見当もつかぬ。まいるぞまったく。

 いやいやまだいい。それでもまだいい。まだいいではないか。上等だばーか。前田誠孝にしたって永松浅造にしたってちゃんとフルネームで出ておるではないか。『探偵小説四十年』には姓しか書かれてない人物だっているのであって、そんなものをいったいどうしろというのだ。興信所に頼んだってどうにもならんぞ。

 たとえば志垣という人名が出てきます。昭和2年の「ソ連作家キム」の章です。乱歩は「平凡社の支配人(あるいは編集長か)の志垣氏」と書いているだけで、どこにもフルネームは記されておりません。だいたい『探偵小説四十年』におきましては出版社の社員あるいは新聞雑誌記者あたりに姓だけの人物が多く、またそうした人たちは出版人やジャーナリストとしてよほど大成した人物でないかぎり、いまから生歿年や略歴を調べようったって雲をつかむような話です。

 それでも泣く泣く志垣という姓だけを手がかりに調べてみますと、編集者にして教育評論家、むろん平凡社に勤務した経験もある志垣寛という人物が浮かびあがってきて、これは『探偵小説四十年』にある「この人は下中さんと同じように教育界の出身で」という記述にも符合するようですから、昭和2年の「大衆文学月報」第五号に「ソヴェート作家乱歩氏を推賞す」を書いた志垣なる人物は志垣寛であったと同定してもほぼまちがいはないのではないか。しかしこんなのはまれな幸運、超ラッキーなレアケースというべきであって、姓しか記されていない人物の調べなどはまず無理であると諦めるしかありません。

 あまり乱歩に関係のなかった人物であればまだいいのですけれど、乱歩と仲のよかった知人友人となりますと、生歿年すら判明しないのはちょっとつらい。しかしかりに乱歩のご遺族にお訊きしてみたところで(いずれそうするつもりではいるのですが)、縁戚関係はともかくただの友人の場合には消息なんてつかめないことでしょう。代訳代作を担当した井上勝喜だの、助手を務めながらのちに袂をわかった二山久だの、あるいは出版界では結構な顔になったらしい本位田準一にしたところで、あっちこっち調べてみても何もわからぬこのつらさ。

 有名人でも知人でもない単なる一般人、なんていうのも『探偵小説四十年』には登場してきます。高橋研三もそのひとり。昭和3年1月、乱歩の扁桃腺を剔出したお医者さんなのですが、尋常一様の調べ方ではさっぱりひっかかってこない人名です。

  本日のフラグメント

 ▼2004年10月

 子不語の夢 脚註=村上裕徳

 高橋研三という正体不明の開業医にかんしては、村上裕徳さんが『子不語の夢』に収められた昭和3年1月2日付小酒井不木書簡の脚註で、乱歩が高橋研三の手術を受けるにいたった経緯について微細にわたる推測を展開していらっしゃいます。

 不木書簡によれば、乱歩は鼻茸、扁桃腺肥大、蓄膿症という耳鼻咽喉関係の三重苦みたいな病気について八木沢教授なる医師の診断を乞い、その結果を手紙で不木に報告したようです。不木は親身に相談に乗り、自分が住んでいる名古屋で手術を受けることも提案して、

 ──東京では名医がいくらもありますけれど鼻茸や蓄膿や扁桃腺肥大の手術は、少し経験の積んだ人なら誰でもよいと思ひます。

 と乱歩に書き送ったのですが、その脚註。

ところが、そうではなかった。乱歩は不木の言葉に従い、誰でもいいと考えて、小比木医師のところへは行かず、下谷の高橋病院に入院する。乱歩はこう記している。「院長の高橋研三という人は、ドイツでドクトルを取った民間学者で、大学系の学者からは、山師のようにいわれていた。高橋ドクトルは堂々とこれに反駁して、学会などで、盛んに自説を主張し、著書もあった」。乱歩は、こういうタイプにとても弱い。在野の反骨精神に、つい共感してしまうのだ。「どういうきっかけで、この病院を選んだのか、今では忘れてしまっているが」と、前置きがありながら、絶対に、この高橋ドクトルの「著書」を読んでいたのに違いない。そして、かなり共鳴したのであろう。特にこの高橋ドクトルが乱歩を惹き付けたのには理由があった。自伝によれば、「高橋院長の説では、頬の骨を鑿で削る在りきたりの手術は全く必要がない。鼻腔内の軟骨と粘膜の歪みを整形さえすれば、蓄膿症は自然に快癒するものだというので、あのコツコツと鑿で削られる苦痛を我慢しなくてもすむというところに魅力があった」と記している。本文では二度も書いているように、鑿のコツコツが想像するだけで苦手なのだ。この高橋療法を、乱歩は、「どこかでこの話を聞いて」と、とぼけているが、雑誌の宣伝記事ないしは「著書」で読んだのに違いない。乱歩自伝で、探偵小説に関係ない在野の人にページをこんなに割いている箇所は他にない。高橋ドクトルは四角な縁無し眼鏡をかけた五十年配の人で、乱歩は、そんな眼鏡を初めて見て、さすがはドイツ帰りらしいと考えている。さて、診断の結果は、やはり高橋の見立てどおり鼻腔の歪みから来ているから、蓄膿症の手術をしなければならぬという。しかしその前に扁桃腺を取るのが先決らしい。そして「このへんの記憶がハッキリしない」うちに、強引に入院させられてしまう。普段はそんなことで入院などする乱歩ではないが、ちょうどその時、扁桃腺炎のために熱があることも、乱歩を気弱にした。さて、このドクトルの手術だが、「先ず、一方の扁桃腺を剔出すると、夥しい出血で、それがゴボゴボと喉へ流れこみ、息も出来ない状態となった。院長は、ビクともせず『喉の奥の方で息をして、静かに静かに』といいながら、看護婦に命じて、縫合器を持ってこさせ、私の喉をパチンパチンと縫い始めた。三針ぐらいだったろうが縫わなければ血が止まらなかったのだ」。そして乱歩は、看護婦二人に病室のベッドまで抱えられ、夫人と友人の岩田準一に介抱されたまま、四、五日は物も言えず食事もできない状態で、一週間目にやっと粥を食べ、少し声も出るようになり、半月かかって、かろうじて退院することができた。退院したというよりも、逃げ出したというほうが正解だろう。

 あすにつづきます。


 ■ 9月17日(日)
ドクトル高橋繁盛記

 昭和3年1月、乱歩は扁桃腺の剔出手術を受けました。本当の目的は蓄膿症を治すことにあったのですが、診断の結果まず扁桃腺を取ったほうがいいだろうということになって、乱歩は自分でも何がなんだかよくわからないまま手術台に身を横たえる仕儀となりました。といったあたりまでは『探偵小説四十年』で知ることができるのですが、『子不語の夢』に収録された小酒井不木の昭和3年1月2日付書簡を読むともう少しくわしいことが判明します。それによると、乱歩は治療のことでまず小此木という医師の診断を受けてみたようです。

 この小此木なる人物は明治20年生まれの耳鼻咽喉科医師、小此木修三であろうと判断されます。大正13年に慶應義塾大学の教授となり、昭和9年に辞任して開業していますから、乱歩は昭和2年の12月ごろ、おそらくは慶應義塾大学病院を訪ねて(ということは最近では福岡ソフトバンクホークスの王貞治監督が胃の手術を受けたあの病院のことでしょう。開設は大正9年であったといいます)、四十歳前後だった小此木修三の診断を受けたという推測が成立するでしょう。

 しかし翌年1月下旬、乱歩は慶應病院ではなく下谷黒門町にあった高橋耳鼻咽喉科病院に入院して手術を受けました。院長であった高橋研三が執刀したのですが、これがなんとも正体不明。手許の調査ツールで身元が割れたのは小此木修三までで、高橋研三なる開業医にたどりつくことはできませんでした。

 そこで一計を案じました。毎度おなじみ古書販売サイト「日本の古本屋」で検索を試みてみましたところ、なんかもうばかみたいに簡単に解決しました。『高橋研三追憶の記』という本が出ていて、どうやら高橋耳鼻咽喉科病院が発行した本らしく、要するにいわゆる饅頭本のたぐいかと踏んでさっそくお買いあげ。気になるお値段は千円ほどであったでしょうか。

 すぐに届いて、見込みはたがわず高橋研三の一周忌を期して縁戚知人の文章を集めた一冊でした。発行日は昭和49年2月24日。高橋研三の死去は前年の1月2日。生まれたのは明治8年6月2日だといいますから、この先生は満九十七歳で天寿をまっとうしたことになります。まさしく天寿と呼ぶべきでしょう。

 経歴もなかなかに興味深く、福井県の片田舎に生まれて明治27年に勇躍渡米(長崎から船に乗ってアメリカ大陸に到着するまで三か月を要したといいます)、一時帰国をはさみながらアメリカのみならずウィーンやベルリンの大学でも学び、帰朝したのは大正元年のことであった。東京大学に籍を置くよう懇望されましたもののそれは固辞し、大正3年には「高橋式鼻内整形術」なるものを創案して本郷に開業。同9年には台東区西黒門町に病院を移転し、同12年の関東大震災で病院は被災いたしましたが、焼け跡に施設を新築して再興を果たしました。

 『探偵小説四十年』にはこの病院が非常に繁盛しており、「建物も大きく、堂々たる大病院であった」と記されているのですが、これは震災後に新築された病院のことです。さらにドクトル高橋にかんしては、きのうご紹介した村上裕徳さんの脚註にも引用されておりましたが、

 ──ドイツでドクトルを取った民間学者で、大学系の学者からは、山師のようにいわれていた。高橋ドクトルは堂々とこれに反駁して、学会などで、盛んに自説を主張し、著書もあった。

 と乱歩はそこはかとない親しみの念を示しています。そこで『高橋研三追憶の記』から──

  本日のフラグメント

 ▼1974年2月

 岳父をしのんで 飯田収

 『高橋研三追憶の記』に収められた回想です。筆者はドクトル高橋研三の「三女の女婿」とあります。

 乱歩が述べているドクトル高橋と大学系の学者との対立が記されておりますので(より正確にいうならば、両者の対立における学者側の所業を告発した「日本及日本人」の掲載記事が引かれているわけなのですが)、そのあたりをちょこっと。

 十数年間にも及ぶ外国遊学から帰朝し、その構想を血の滲むような努力でまとめて体系づけて実行に移したものがこの手術法で、大正三年にはすでに完成させていた。つまり、鼻の固有疾患を治すためには、それまで行なわれていたような方法では駄目で、先天性の鼻の基礎構造から治すことによって可能となることを説いたもので、これは独自の手術機械を用いて行なう難かしい手術が付随していた。

 この学説やその他の研究を国内で発表して賛同する者を求めたが、なにしろ一開業医対官学の戦いは容易でないものがあったことが窺える。

 この事情が、忽滑谷快天博士の書いた日本及日本人(大正七年七月一日発行)に生々しく紹介されているので、少々長くなるが引用して見よう。

 タイトルは「ドクトル高橋研三君と東大派耳鼻学者の対抗及びその反感」とあり、文章は次のようなものである。

 「嶄新なる知識と技能とを以って相互に衒誇なるは医学者に限ることではないが、ことに彼等の間には、この傾向が強いようである。高橋君が、扁桃腺全剔出の新法を発表して、米国の外科学者よりも優れたる手腕あるを示してより、東大派の耳鼻学者と高橋君との間に暗に表に競争の起ったのは自然の勢である。されど東大派の棟梁たる医学博士岡田和一郎君等は扁桃腺の剔出を以って有害無益なるが如く想像し、之が研究を忽にして、未だ嘗てこの新法を実行するに至らなかった。然るに高橋君に警醒せられて始めて此方面に着眼したのであるから、少くとも此点に就ては高橋君を先覚として仰がねばならぬ苦境に陥るのである。……(中略)

 本年四月上旬(筆者註大正七年のこと)第五回日本医学会が東大内に開催せらるるや、耳鼻咽喉科会もまた開かるることとなり、同会の幹部より高橋君に一場の講演を試むるよう慫演したので高橋君は特別演説として三時間を要求し、この要求をして容れられざれば出演せざる旨を通告した。是において幹部は熟議の上、三時間は余りに長きに過ぐべしとて一時間半の特別講演を許すことを決して高橋君に通知したので、高橋君も止むを得ず一時間半にて鼻科学上の新発見を概説して世に公表すべき腹案を立て、原稿を起し、以って開会の日を待っていた。しかし、当日となって高橋君が講演会に臨むや、会頭たる岡田君は、『高橋君の特別講演を許したに就いて故障の申し立があるから成るべく簡単に述べてくれ』といい、閉会前僅かに三十分に至りて高橋君の登壇を許したのである。

 高橋君の特別講演はプログラムにも印刷されて確定しているにも拘わらず、会頭の唐突にして乱暴なる時間の変更によりて、高橋君は原案を述べ尽すことの不可能なるはいうまでもなく、無原稿のまま講壇に立つの止むを得ざるに至った。しかれども、僅か三十分を利用してその発見にかかわる呼吸気流の経路より説き起して慢性鼻炎主因に及び、現状の進度においては大多数は根治の不可能なるを指摘し、高橋式新案の手術を公表したが、副鼻腔の治療等については辛うじて数言を費すのほか、時間なくて思うところの一班をも尽す能わずして壇を下りた。

 忽滑谷快天博士の義憤に充ちた告発はまだつづき、ドクトル高橋が学会での不本意な講演を終えて帰宅したところ、周囲を黒枠で囲まれた一枚のはがきが届いていた。しかしてその文面は、

 ──『高橋研三君。君は今日の学会で大部味噌をつけたね。一体君は少し、づうづうし過ぎる上に愚民を惑わす山気の人間だよ。然し今日から化の皮がむけて君の名も寂滅だよ。南無阿弥陀仏。──傍聴者の一人』

 みたいなことまで報告されているのですが、それはそれとして、といいますか、そうした対立が乱歩をはじめとした学会に無縁な人間の耳にもいつとなく届いていて、権威や権力に敢然と対峙して孤立する人間への判官贔屓もあったかと推測される次第なのですが、ドクトル高橋の経営する高橋耳鼻咽喉科病院はおおおきに繁盛していたようです。


 ■ 9月18日(月)
ドクトル高橋とドクトル楡

 台風13号の被害はいかがだったでしょうか。当地は何の影響もありませんでした。被害を受けられた方にお見舞いを申しあげます。木で鼻をくくったようなこといってますけど。

 つづきましてお知らせを一件。はっきりいって手遅れなれど。

 といったような感じでJR東海によるウォーキングイベント「山本周五郎の小説の舞台『扇野』と江戸川乱歩の散歩道」が催されます。きょうのことです。JR鳥羽駅を基点に三時間または一時間、あちらこちらと歩きまわりつづける催しのようで、気分は鳥羽の散歩者ってとこでしょうか。あいにくときょうの鳥羽はお天気がよろしくないようなのですが。

 ついでですからもうひとつ鳥羽の話題。

  本日のアップデート

 ▼2006年9月

 【向かいの島 離れ島】江戸川乱歩ゆかりの坂手島 山田淳史(文)、友田享助(写真)

 産経新聞社のニューサイト「iza」に掲載されました。鳥羽近辺の離島を紹介する連載のようです。

 乱歩ゆかりの坂手島といえば、いうまでもなく乱歩夫人の出身地。生家(これはどうでもいいことなのですが、きょうびの女子高生には「生家」という漢字を見て躊躇なく「なまいえ」と読んでしまうのがおります)の村万商店はいまも営業をつづけているようで、おそらく乱歩夫妻の子供の世代にあたるのであろう親戚筋の方が取材に応じていらっしゃいます。

【向かいの島 離れ島】江戸川乱歩ゆかりの坂手島
 島の集落は山に向けて階段状に連なる。道幅は両手を真横に広げると、両脇の建物にあと少しで手が届きそうなぐらい。家々の間の階段を上ると、各民家の玄関先までつながっていた。そんな道を縫うように歩いていると、ちょっとした広場に出た。
 広場前に店を構える村万商店。作家、江戸川乱歩の妻、隆(りゅう)の生家である。親類の池田實さん(73)が見せてくれたアルバムには、モノクロームの古い写真が何枚も収められていた。
≪「真珠のごとき君が住む島」≫
 その1枚。季節は夏に違いない。どこかの岩場で撮影したものだろうか。手ぬぐいを頭に巻いた20代ぐらいの男性や少年少女と一緒に、着物姿の若い女性が腰を下ろしている。細身で、切れ長の目が凛(りん)とした印象を与える美しい人だ。「この女性が隆さん。男は兄の恒吉ですわ」と、池田さん。
 乱歩の本名は平井太郎。ペンネームに比べ、なんとも日本的な名前。大正6年から1年間、鳥羽の造船所に勤務した。同僚らと「鳥羽お伽(とぎ)会」を結成し、小学校などで話をしていた。
 坂手小学校を訪れた際、学芸会を観賞。遅刻ばかりする少年の様子を面白おかしくまとめた劇に感心した太郎は、その脚本を書いた人物を探す。当時、教師をしていた隆だった。
 2人は手紙をやりとりするだけのプラトニックな愛を貫き、太郎は造船所を辞めて東京へ。ある日、隆あてに太郎の手紙が届いた。文面の最後には次の歌がつづられていた。
 〈志摩はよし鳥羽はなおよし白百合の 真珠のごとき君が住む島〉
 「初めて読んだときは感動しましたね。肝心の手紙はどこかにいっちゃったんだけど、内容だけは今でも覚えているんです」。池田さんはそう言って笑った。
 恋煩いをした隆は、何日にもわたって寝込んでしまう。いたたまれなくなった恒吉は隆を連れて、押しかけ同然で太郎のもとを訪ねた。
産経新聞 iza 2006/09/14/16:58

 「遅刻ばかりする少年の様子を面白おかしくまとめた劇に感心した太郎は、その脚本を書いた人物を探す。当時、教師をしていた隆だった」というのは初耳でした。乱歩はこんなことを記していなかったはずですから、これは坂手島にひそかに語り伝えられている伝承なのかもしれません。鵺のなく夜に気をつけろ、みたいな。

 といったところでドクトル高橋研三の話題です。

 私には耳鼻咽喉関係の知識がまるでありませんので(むろん泌尿器関係の知識もないのですが)、ドクトル高橋の功績が現代医学に継承されているのかどうか、そんなことはよくわかりません。しかしインターネットを検索してみると、ドクトルの名がついた恐ろしげな手術用具にぶつかってびっくりしたりいたします。耳鼻咽喉科気管食道科医療器械を手がけるテーエム松井という会社のオフィシャルサイトなのですが、そーっとのぞいてみてごらん。

 げに恐ろしげである。こんなもの鼻の穴につっこまれて下鼻介用ヤスリだの中隔粘膜圧定ヘラだので変なことされるのなら死んだほうがましだとさえ思いますけれど、高橋研三氏鼻内整形手術器械というのがげんにこうして販売されているのですから、ドクトル高橋が大正3年に創案した高橋式鼻内整形術はいまも医療現場に生きていると考えるべきでしょうか。

 いずれにせよ乱歩はドクトル高橋の手術によって扁桃腺炎による発熱から解放され、しかし手術がよほどこたえたと見えて昭和3年2月10日に退院したあとは一度たりとも高橋耳鼻咽喉科病院を訪れていないのですが、それでも「高橋ドクトルは名医であったといってよい」と太鼓判を押しているのですから、かくいう私もいままでまったく縁のなかったドクトル高橋に(いまだって縁はないのですけれど)ひとことお礼を申しあげたいような気分になってしまいます。『江戸川乱歩年譜集成』が完成したらドクトル高橋のご遺族にぜひ一部お送りしたいところなのですが、インターネットで調べてみてもかつての下谷黒門町、現在の地名でいえば台東区上野にあったというドクトル高橋の病院はどうもひっかかってこないようです。

 ところで私は、古本屋さんから届いた『高橋研三追憶の記』をさーっと走り読みしながら、高橋研三先生の手術によって扁桃腺の悩みから解放された人のなかには探偵作家の江戸川乱歩もいる、といった記述が出てこないものかと期待しておりました。しかしそんなものは見あたりません。どころか、ドクトル高橋は昭和3年に自分が扁桃腺を剔出してやった大きな男が江戸川乱歩という探偵作家であったことはつゆ知らぬまま、その長い生涯を過ごしたのではないかと思いあたりました。

 当時の乱歩はいまだ大衆文壇の花形作家にはなっておりませんでしたから有名でもなく顔も知られておらず、ドクトル高橋が小酒井不木みたいに探偵小説好きのお医者さんであったというのなら話はまた別でしょうけれど、このドクトルはきわめて謹厳実直な性格にして敬虔なクリスチャン、患者第一の明け暮れとするため旅にも出ず肉親に不幸があっても郷里に帰ることをせず、娯楽のたぐいには興味関心まるでなし、趣味の書道ではそこそこ一家をなしたそうなのですが、もっとも愛読したのはおそらく聖書で探偵小説にはとんと縁がなかった人物のようですから、どうにも印象に残りにくい平井太郎という名前で扁桃腺の剔出手術を受け、そのあとに控えていた蓄膿症の治療を何もいわずにすっぽかしてしまった男が江戸川乱歩であったとはあとになっても思いいたらなかったのではないでしょうか。

 さらにところで、私はこのドクトル高橋にいつとはなく、北杜夫さんの『楡家の人びと』に出てくる楡病院の初代院長、あの愛すべきスノッブ楡基一郎の姿を重ね合わせておりました。乱歩が「建物内の飾りつけも、有名な画家、彫刻家の大作を並べ、院長の美術趣味を語っていた」と記している高橋病院のありさまも、どこか楡基一郎その人のスノビズムを連想させないでもありません。洋行帰りのドクトルというのは当時の知識人の一典型であったかとも想像されますから驚いたり不思議がったりする必要はないのでしょうけれど、それにしてもなんとなく面白いな、みたいなことを考えていた私は、ある事実に思いいたって『探偵小説四十年(上)』をむんずと手に取り、ドクトル高橋の登場シーンから五ページほどさかのぼったページに眼を走らせました。

 つづきはまたあした。


 ■ 9月19日(火)
ドクトル茂吉は国技館に黙しぬ

 私は『探偵小説四十年(上)』をむんずと手に取り、ドクトル高橋の登場シーンから五ページほどさかのぼったページに眼を走らせました。そこにはこんな名前があやまたず発見されました。

 ──出羽嶽

 相撲取りの名前です。昭和2年の章、名古屋の定宿にしていた大須ホテルを回想したシーンに、

 ──洗面所でヒョッコリ相撲の出羽嶽と顔を合わせたりした。

 と記された名前です。私はこの相撲取りのことも通り一遍ながら手許の辞書事典のたぐいでチェックを済ませており、出羽ヶ嶽の生歿と乱歩との関係はすでに年譜に落としてありました。それがどうしてその名前に立ち戻らなければならなかったのかといいますと、私はドクトル高橋研三に北杜夫さん描くところのドクトル楡基一郎のおもかげを重ね合わせ、それからああそうか、それならば出羽ヶ嶽は楡基一郎の養子ではないかと、虚実をごっちゃにして思い返したからです。

 明治35年12月の年譜をごらんいただくならば──

20日 出羽ヶ嶽文治郎、山形県に生まれる。本姓は佐藤、のち斎藤に改姓。力士。昭和三、四年ごろ、名古屋にあった大須ホテルの洗面所で乱歩と顔を合わせたという。昭和二十五年六月死去。

 斎藤というのは楡基一郎のモデルとなった医師、斎藤紀一の姓であり、出羽ヶ嶽は紀一にその巨体を見こまれて養子となった人物です。『楡家の人びと』には蔵王山という名前で登場しており、私はこの長篇小説を今年の春に再読したところですから、ドクトル楡基一郎を想起させる医師と蔵王山のモデルになった力士とがわずか数ページをへだてて『探偵小説四十年』に登場しているのを知ったとき、むろんそれがどうしたといわれればそれだけの話ではあるのですが、なんだかとても面白い暗合のように思われました。

 インターネットで検索してみると「相撲評論家之頁」なるサイトがあり、「名力士列伝 昭和初期」のページで出羽ヶ嶽が紹介されておりました。大正末期には好角家の期待を一身に集める存在であったらしいのですが、故障などによって力士としては大成できず、斎藤茂吉には「番附もくだりくだりて」うんぬんという出羽ヶ嶽を詠んだ歌もあるといいます。斎藤茂吉は紀一の次女の婿養子ですから、つまり血はつながらないけれど茂吉と出羽ヶ嶽はともに斎藤紀一を父として仰いだ人間です。興味を惹かれた私は茂吉の歌があるのならそれが何という歌集に収められているのかを確認したいと思い、『江戸川乱歩年譜集成』に引用してみるのも面白いのではないかと考えました。

 で、こんなときのために揃えておきました現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也の第三十八巻『斎藤茂吉集』をひもといてみましたところ、あっけないほど簡単にその歌は見つかりました。

  本日のフラグメント

 ▼1940年6月

 暁紅 斎藤茂吉

 それでは昭和15年6月に刊行された茂吉の歌集『暁紅』から「国技館」と題された全十一首、茂吉の著作権はすでに消滅しておりますから心おきなく引いておきましょう。

国技館
番附もくだりくだりて弱くなりし出羽ケ嶽見にきて黙しけり

四時間のいとまをつくり国技館の片すみにゐて息づく吾は

いきれする人ごみの中に吾は居り出羽ケ嶽の相撲ひとつ見むとて

断間なく動悸してわれは出羽ケ嶽の相撲に負くるありさまを見つ

木偶の如くに負けてしまへば一息にいきどほろしとも今は思はず

固唾のむいとまも何もなくなりて負くる相撲を何とかもいふ

一隊の小学児童が出羽ケ嶽に声援すればわが涙出でて止まらず

五とせあまりのうちにかく弱くなりし力士の出羽ケ嶽はや

火曜日の午後にいそぎて来りたる国技館の雑音にわれ力なし

先代の出羽の海がまだ丈夫にてわれに語りしことし思ほゆ

のぼせあがりし吾なりしかど今は心つめたくなりて両国わたる


 ■ 9月20日(水)
番附もくだりくだりし出羽ヶ嶽に捧ぐ

 現代日本文学大系の第三十八巻『斎藤茂吉集』には「柿本人麿私見覚書」「鴨山考」なんてのも収録されております。私と似たような世代には若いころの一時期、梅原猛さんの著作に結構はまったという経験をもつ人間が少なくないのではないかと想像されるのですが、かくいう私も『隠された十字架』をはじめとして世に梅原古代学と喧伝された著作を出るたび追っかけるようにして読んだものでした。柿本人麻呂をテーマにした『水底の歌』には斎藤茂吉の人麻呂論への言及もあり、しかし当時はそれを読んでみたいと思ってもどこを探せばいいのかがわかりませんでしたし、そもそもわざわざ探して読もうという熱意もない。そのまま三十年ほどのときをへだてていまここに、こうして「柿本人麿私見覚書」と「鴨山考」とがあるのだとなんだか懐かしいような気もしてきて、私はついついそのきわめて調子の高い茂吉の人麻呂論を読みはじめてしまう。と、『江戸川乱歩年譜集成』の編纂作業はそこでストップしてしまうことになります。

 こうした寄り道というのはじつに楽しく、できるものならばこのまま寄り道だけで人生をまっとうしたいものだ。寄り道一代男。なんかよさげであるなとは思うのですが、やはり本来の作業に戻らなければなりません。そこで『探偵小説四十年』の年表化に戻ってみる。明治35年、すなわち出羽ヶ嶽文治郎の生年のページを見てみる。そこにはごく簡潔に生歿年と乱歩との関係を記しただけの記述がある。ああ、と私は思う。なにしろ私は出羽ヶ嶽には以前よりも親近感を感じている身ですから、もう少し色をつけてやりたいなという気になる。で、色をつける。得意技、さばおり。愛称、文ちゃん。それからむろん北杜夫さんの『楡家の人びと』に登場する蔵王山のモデル。斎藤茂吉の『暁紅』には「番附もくだりくだりて弱くなりし出羽ケ嶽見にきて黙しけり」の歌あり。なんて感じでどんどんふくらませる。鮟鱇形力士のおなかのようにふくらませる。行数が半端なく増えてしまう。

 そこでようやく、いかんぞこれは、と私は思うわけです。いかんいかん。こんなことではいかん。いくら自分が出羽ヶ嶽という相撲取りに親しみをおぼえるからといって、乱歩にとっては大須ホテルの洗面所でたまたま顔を合わせただけの人間ではないか。大須ホテルといえば乱歩の手で『押絵と旅する男』の初稿が便所に流されてしまった由緒あるホテルなれど、そこでただ一度遭遇しただけにすぎない人物の記述がこんなに長々しくては書誌としてのバランスが失われてしまうだろう。むろんバランスに顧慮せず連想や興味のおもむくままに筆を進めた文章の面白さもあるのだが、『江戸川乱歩年譜集成』でそれをやるのはまずかろう。私はそう考え、せっかく書き足したところをすべて削ってしまい、もとの素っ気ない記述に戻してしまう。そして、ああ、なんという時間の無駄であったことか、とため息をつく。気がつけば夏の長い一日もようやく暮れようとするころで、私は机にあった『斎藤茂吉集』を函に入れ、書棚に戻してから、犬と散歩に出かける。

  本日のフラグメント

 ▼1938年8月

 童馬雑文 斎藤茂吉

 しかし、しかしこんなことでは出羽ヶ嶽がなんだか不憫である。などというあまり論理的ではない考えにもとづいて、書棚に戻した『斎藤茂吉集』をふたたびひっぱりだし、茂吉が出羽ヶ嶽のことを記したエッセイの全文を掲げておきたいと思います。

 この一篇には斎藤茂吉の医学者としての視線が感じられ、そこはかとないユーモアはどことなく北杜夫さんを連想させないでもない。そして何より出羽ヶ嶽文治郎という相撲取りの茫洋としたキャラクターが興味深い、と私には思われます。

出羽ケ嶽
 出羽ケ嶽文治郎が今場所久しぶりで相撲を取つたが、番附は幕下三段の十枚目まで下がつてゐる。彼が昭和三年ごろ膝の関節といふよりも膝近くの腱の怪我をして、それから成績がおもふやうでなく、番附面も追々下落して行つたが、それでも暫くのあひだは幕内の一番しまひのところに置いてもらつてゐた。

 何しろ関脇まで取つて、一場所に二人の横綱まで破つたこともある男だし、場所ではなかなかの人気者なので、協会でも幾分の手加減をしたものと見える。そこで彼が相撲を取らなくとも兎に角幕の内の一番しりのところに居据わつてゐた。

 そのうち腰が利かないと云ふから試に大学の整形外科に見てもらふと、レントゲンでは腰椎骨のところに陰影のうすい部分が見えたので、種々手当をして、コルセツトを嵌めたり何かしてゐたが、そのあひだ相撲が取れないし、第一歳月が無遠慮に経つた。それから番附も十両に下り、十両からはみ出して幕下二段目の一番しまひのところに二場所ばかりかじりついてゐたのが、それも出来なくなつて三段目に陥落した。

 そのあひだ彼は巡業にも行かず東京に居残つてゐたが、彼自身は依然として生存してゐても、世間は依然としてはゐなかつた。第一部屋でも、毎日相撲も取らずに飯を食ひ、謂はば穀つぶしなのだから、人情も自然に運ばれないといふ点があつた。第二に嘗て彼が盛であつたころ贔屓にした好角家のあひだに、彼を引退させろといふ説が出た。何せ彼は一たびは関脇まで取つた相撲であるし、今の玉錦関でも武蔵山関でも男女川関でも、無論双葉山関でも彼から見れば後輩なのだから、縦ひ病気のせゐにせよ、あの儘世間に晒すのは、むごい、残酷だといふ意味であつて、これには贔屓客の言葉としては一応の理由があつた。第三には同じ部屋の相撲取からも同様の説が出た。嘗て出羽ケ嶽の下に若者として使はれ、風呂場で彼の背を流したり、番附くばりに歩いたり、巡行先では荷をかついだりした者が、今では入幕したのみではない、三役になつたのさへゐる。さういふ次第であるから、嘗て先輩であつた出羽ケ嶽が縦ひ陥落しても、あべこべに彼を使役するわけにも行かず、かたがた人情上具合の悪い点が多いのであつた。

 さういふ状勢だつたので、部屋からの使として、或は先輩といふ位置の年寄として、出羽ケ嶽に引退するやうに談合してくれ、と云つて私に逼つたのは一度二度ならずあつた。私もその心持を諒とし、先代から出羽ケ嶽を子のやうに可哀がつてくれる宮田博士の意見をも徴したのであつた。そして私も一家の中で相談のうへ、兎も角何時引退してもよいといふ覚悟の出来るやうに、実際上の手続を取つてやつた。

 亡くなつた私の父が、少年の彼を養つて、小学校から中学に入れ、その間、先代の出羽海が玩具などを買つて幾度でも自ら足を運んだことは、今の春日野取締なども好く知つてゐる。中学一年ごろの彼は、背もずうんと伸びて、今のやうに猫背ではなかつた。それが小さい力士ばかりを相手にしてゐるうち適応と謂はうか天の配剤と謂はうか、あんな具合に猫背になつてしまつた。

 去年といへば昭和十二年の秋ごろ、昭和十三年の春場所には相撲を取ると彼自身いひ出した。そんなら兎も角取つて見ろ、負けたところで番附で陥落するばかりだから何も気にすることはない、といつて彼を励ましてゐたが、いよいよ今年一月の春場所になると、彼は脊骨の具合がまだ本当でないといつて相撲を取らない。その時も某年寄が私の処に来て引退の話を持込んだ。年寄の言分としては、「夏場所になつても、文治はどうせ相撲は取れませんよ」といふのであつた。その言葉の背後には、「文治はもう見込がありませんよ」といふ結論が隠されてゐることも明瞭であつた。彼等は専門家であるのだから、その鑑識に間違があるまいと考へることも出来る。併し私自身多忙なので、さういふ手続をてきぱきと遂行することが出来ず、日一日と延びてゐた。

 然るに彼はこの夏場所から相撲を取りはじめた。そして兎も角勝星を残した。彼の相撲を取るのは、午前十時半からおそくも十一時頃で、水も出なければ塩も出ない。また時間は五分間以内である。巨体で鈍重な彼は、幕内にゐた時にも立ちが穢いと云つて非難されたものだが、実際は機敏に行かず従つて時間も人一倍要求するのであつた。それでも彼はさういふ状況の相撲を取る気になつたのはおもしろい。

 本場所が済んで巡業に出かける、今度は満洲まで行くかも知れない。さう云つて挨拶に来た。その時云ふに、今は立派な綺麗なまはしなどは土俵入をせずに済むから不要になつた。そのかはり実際的なまはしが要る、十五円ぐらゐなのを京都あたりで買ふつもりである、盛りなころはそんな物は部屋で幾らも手に入れることが出来たが、只今ではさうは行かない、云々。

 その時またこんな話をした。この春あたりまで逢ふ年寄毎に「文治、もういい加減に相撲を罷めろよ」と云つた。それから今度相撲を取りはじめると、「文治お前の心臓が強いな」などといふ。また現在の同輩でも彼の顔をじろりと見て、「お前の心臓はトオチカ心臓か」などといふ。彼が三段目まで陥落しておめおめ相撲を取つてゐるのを冷笑するのだが、「トオチカ心臓」といふのが誠におもしろい。華奢な男女のあひだの語の交替ならもはや厭味だが、石のやうな巨体に投げかける彼等仲間の語として、いまだ特別なヒユモアが保たれてゐる。

 斯くのごとくにして彼は巡業に出掛けて行つた。今の代に出羽ケ嶽のやうな大男の出たのは珍らしく、彼は蔵王山の麓の村に生れた。ところが寛政ごろ、やはりその近くの村に大きな子どもの生れた記事が残つて居る。それは翁草巻百六十、当時の世説の中に、「出羽国に大男生る」といふ題で次のやうに記されてゐる。「出羽国村山郡、最上成泥村、百姓文六伜文五郎と申者、天明八申二月出生す。落生常の如し。然るに日に増月に超え大に成候故、身の重目を試し見るに、七貫五百目在り。翌酉五月またまた試るに、十二貫目に成り、閏六月に掛て見れば十四貫目に及ぶ。脊長三尺六寸、手首廻り八寸二分、乳の間七寸六分、股の付根二尺一寸、肩の厚さ九寸有とかや。成人の後いか成物に成らんや、希有の事なり」といふのであるが、文五郎といふ名も出羽ヶ嶽の文治郎に似てゐて興味がある。「成泥」は「成沢」の写誤のやうにもおもふ。この巨童は相撲にならずにしまつたやうで、相撲の方の記録には見当らない。