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2006年9月中旬
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『新人国記』は『人国記』に同時代の視点から説明を加え地図を添えたいわばリニューアル版。元禄14年、ということは江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷におよんだ年、西暦でいえば1701年に板行されました。著者の関祖衡は越前の人、伊藤仁斎の門下であったといいます。 それではさっそく「伊賀国」の全文を。
ポイントはむろん、飾りをもっぱらとするという一点です。岩波文庫『人国記・新人国記』では「飾り」という語に「実質に関係のない、うわべだけの美しさ」との註が附されています(こんなこといったら関係各位からお叱りを頂戴してしまうことでしょうが、時節柄なんとなく上野天神祭で城下町をゆく美麗荘厳なだんじりが連想されてしまう次第です)。伊賀の国の人間はうわべだけを美しく飾り立てることを好み、実質はともなわない。うわっつらだけ飾ってればそれで満足、上機嫌。中味なんてどうだってかまわないのである。そんなことが書かれております。 いかがでしょうか「生誕三六〇年芭蕉さんがゆく秘蔵のくに伊賀の蔵びらき」関係者のみなさん。うわっつらだけ飾って喜んでいらっしゃったみなさんの愚挙は赤穂浪士による元禄の快挙が名を馳せた時代にすでに予見されていたことになります。『新人国記』おそるべし。しかも痛いのは「根の遂ぐることなきとなり」、つまり根がつづかなくてものごとを最後までやりとげることができないとも指摘されていることでしょう。伊賀の蔵びらきを契機として芽吹いたはずの地域社会の多様な可能性はいったいどうなったのかな。どうにもなってはおらんではないか。みんなどこかへ行ってしまったではないか。何もつづいておらんではないか。それも道理。三億円どぶに捨てていくらうわっつらを飾ってみたところで、そんなものが地域社会に根づくはずがないのである。なにしろうわっつらだけうわべだけ、足がしっかりと地に着いた話なんかでは全然なかったのであるからな。 むろんこんなものは血液型による性格判断に似たようなもので、うわべだけ飾って根がつづかない、なんてことを指摘されたらたいていの人間は自分にはそういうところがあるかもしれないと納得してしまうものでしょうから、まともにとりあう必要はありません。もしもみずから省みて自身の欠点らしきものに思いあたったのであるのならそれを肝に銘じておけばいい、みたいな感じで読んでおけばOKでしょう。 ところで、「当国の風俗は、伊勢の国に等し」と記されているその伊勢の国についてはどんなことが書かれているのか。やはり気になってしまいます。で、ここから先は──
しかしひどい話ではないか。『人国記』に記されていた「下伊勢」は『新人国記』の「南伊勢」に相当するらしいのですが、伊賀の気質がそれとおなじであると説かれている南伊勢の人間の心映えはどんなものであったのかというと、土で器をつくってそれに漆を塗り、さらにそのうえに金銀の彩りをしたようなものである。なんていうのですからまさしく表面ばかりを飾り立ててやまぬうわっつら志向。そして言葉づかいは京都の人間に似てしおらしく、つまり優美であったり慎ましかったり殊勝であったりするのだけれど、しかし腹の底ではとっても欲が深い。親は子をたぶらかし、子は親をだます。万事において意地すなわち心根が汚い。侍といえども同様で、使用人をごく無慈悲につかうけれども使用人のほうだって腰かけ気分。つまり主従のあいだに信頼関係というものが存在しない。それが南伊勢の気風というものであり、伊賀の国もこれとおなじであるというのだからひどい話ではありませんか。 しかし、しかし思いあたることがないでもありません。ただし名張市民のひとりとして異議を申し立てておくならば、言葉づかいが京都の人間に似ているのは旧上野市の話であって、言葉のうわっつらはやさしげだけれど性格的にはきわめて底意地が悪いという点で京都の人間と旧上野市の人間は似ているというのが伊賀地域一般でひろく認識されている事実ではあるのですが、そんなことで名張までいっしょくたにされてしまってはなあ。とはいえその点を別にすれば、どことなく心当たりがないこともないとお思いなのではありませんか伊賀地域住民のみなさん。 で、気質ではなく「婦人の形相」すなわち容貌の話になりますと、上方で美人といえばまず京都と伊勢とが双璧でしょうな、とこの『新人国記』には記されているのですが伊賀はどうした。われらが伊賀はどうした。伊賀はどうなっておるのじゃいったい。われらが伊賀には美人の話はないのかよ。それはまあ、たしかにそうかもしれんのじゃが……。 |
うっかり曜日を勘違いしていたせいで本日はあまり時間がありません。伊賀の国におけるうわっつら志向の話はまたあしたからということにいたします。それにしても、うわっつらのことにぼーっと気をとられてるあいだにわれらが伊賀の国はごみ捨て場になってしまうのかなと、「【伊賀】 伊賀の処理会社に搬入 大阪・能勢の汚染物質290トン」という本日付中日新聞の記事を読んでいささか不安をおぼえた次第なのですが、伊賀市のみなさん大丈夫なんでしょうか。
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きのうは火曜日でした。ラビなら激怒するところでしょうが私は教壇に立たねばならぬ日で、しかし10日の日曜日、この伝言板でもご案内申しあげました名張高校吹奏楽部の定期演奏会に足を運んで生徒や学校関係者に会ったものですから、それでなんとなく次の授業は一週間後だと思いこんでしまっていたのでしょうか。あッ、きょうは火曜日だと遅まきながら気がついて、きのうの朝は授業の準備におおわらわ、みたいな感じでした。 さてうわっつら志向がもしかしたら伝統的な土地柄ってやつなのかもしれないこの伊賀の地で、名張市青少年センターのステージにおいて名張高校の吹奏楽部員たちがルパン三世のテーマやらなんやらを演奏した日の夜、いわゆる名張まちなか、名張旧町地区でさる会合が開かれました。といったことを私は翌11日月曜日の市中見回りのおりに聞き及んだのですが、ほんのちょっとした立ち話でしたから情報としてはごく曖昧なものであることを前置きしておはなしを進めますと、その会合というのは名張まちなかの商業者を主体とした集まりであったらしく、しかし会合のテーマがどんなことであったのかさえ私はよくは知りません。ただしその席で名張まちなか再生プランが話題になったことは事実のようで、しかもけっして希望や喜びにあふれた感じではなく、むしろ疑念や心配とともに語られたみたい。 むろん私とて先日も記しましたそのとおり、 「名張まちなか再生プランに期待してます」 なんてこといってる人間には出会ったことがなく、例のプランにかんする名張まちなかの空気は冷え切っているなといった程度の認識はありましたが、そしてプランにひそかに異議を唱えている人間が存在していることも知ってはおりましたが、日曜の会合は事情がもう少し深刻だったようで、プランにもとづいて名張のまちに妙なものが新しくつくられるのは困ったものだ、乱歩文学館なんて具体的な運営内容はまるっきり白紙なのではないか、細川邸だけをどうこうしようという発想そのものに問題がある、といった声も出されたそうです。名張まちなか再生プランには地域住民のコンセンサスなど存在していないようだと私はあらためて感じ、単に冷え切っているだけでなくプランに明らかに反対している地域住民が少なからず存在しているらしいという事実にはじめて気がつきました。これはうかつであった。 その席では私のことも話題にしていただいたとの由で、私という人間は名張まちなかの人たちからどんな眼で見られているのかといいますと、 「こんなときにはおおいにその能力を発揮すべきだと期待されているにもかかわらず名張まちなか再生プランには、けっ、ばーか、と完全にそっぽを向いているやつ」 聞いて大笑いしてしまいました。むろんその話を聞かせてくれた方に対しては、いまとなっては完全にそっぽを向いておるけれど、おれだってできるだけのことはしてきたわけね、ちゃんとルールにのっとって、しかし連中はそれに応えようとせず、インチキばかりを重ねやがった、外部の人間の話を聴く考えはないの一点張りでずーっと押し通してきてこのざまなの、みたいなことを簡単に説明しておきましたので、相手の方は眼をまるくして驚いていらっしゃいました。あんなプランはいまの時点ですでに失敗であることが明白である、ということでその方とは意見の一致を見たわけですが。 それはともかく、私がうかつであったと思ったのは、名張まちなか再生プランにかんしては冷凍室のごとく冷え切っているけれど、名張市が名張まちなかに予算を投じるという点ではプランの実施を歓迎する、というのが名張旧町地区住民の平均的な意識であろうと踏んでいたことです。これはあるいは誤解であったのかもしれません。名張まちなかの人たちが自分たちのまちに抱いている愛着というものを、私はもしかしたら小さく見積もりすぎていたのかもしれません。そこがうかつであった。ばかであった。 つまり私は、自身のウェブサイトで名張まちなか再生プランを批判するだけでよしとせず、名場まちなかの人たちにもっと直接語りかけることを試みるべきではなかったか。名張のまちの歴史を語り、乱歩と名張の関係を語り、そしてこれは名張まちなか再生プランがまずそれを明示するべきであるにもかかわらず全然してないことなのですが、名張のまちを再生するためのアイデンティティの拠りどころをいったいどこに見いだすべきなのか、その点にかんする私見を語り、そうすることで名張まちなかの人たちがみずからの主体的な問題として再生に汗を流すためのひとつの方向性を提示する。 もしかしたらおれはそれをしなければならなかったのではないか。もちろんこんなことは本来名張市がやるべきことなのであるが、名張市役所の人たちにそんなことができるか。できない。とてもできない。逆立ちしたってできない。百年たってもできない。できる道理がない。だったらおれがやるべきではなかったか。いやまいった。まったく気がつかなんだ。伊賀市のお寺にお邪魔してありがたいおはなしをお聴きいただくのもいいけれど、もっと身近な名張まちなかのみなさんに直接語りかけることをしなかったのはおれの怠慢であった。その怠慢のせいでおれはいま名張旧町地区住民の一部から、 「おまえがついていながらどうしてこんなことになっちゃったわけ?」 と難詰されているというわけだ。いやほんに役立たずですんまへん。なんやもう名張市役所のみなさんよりも役立たずな感じでおまして。いや面目ないお恥ずかしい。なんてこといってる場合かよ。 しかしおれはここまで役立たずな人間でもなかったはずである。たとえばおれが提出したパブリックコメントなんて結構なレベルのものであったぞ。あんなのを涼しい顔してすっと出すことのできる人間なんてそうごろごろはしておらぬ。名張のまちをアイデンティファイするのはかなり困難な作業であり、これはおとなりの旧上野市とくらべるとよくわかることなのであるが、あちらは近世における城下町のおもむきがアイデンティティの拠りどころとなっているうえ、近代に入ってから乱歩の恩人でもあった川崎克の手で天守閣と俳聖伝というふたつのキラーコンテンツが建設されておる。アイデンティファイにおける具体的な核の必要性を理解していた川崎克というのは相当に頭の切れる男であったのだろうとおれは思う(そうしたアイデンティティが旧上野市に近世的世界を色濃く残存させているのはまたべつの問題である)。それに比較すれば個性が稀薄であり印象が散漫でもある名張のまちにどのようなアイデンティファイが可能かを考え、しかも乱歩という唯一のキラーコンテンツを巧みに利用してまちなか再生におけるひとつの具体的な方向性を示したのがおれのパブリックコメントだったのであるが、それがまあなんだかなあ。 むろん手遅れである。取り返しはつかない。なんかどさくさまぎれに組まれてしまった観すらあるプラン関連予算をさかのぼってゼロにする、すなわちプランを仕切り直すというのは現実的にはほぼ不可能である。もしも仕切り直しができたら即座に神認定みたいな話になるであろうが、実際には名張まちなか再生プランなるインチキプラン、ご町内感覚となあなあ体質を閉鎖性排他性で二重三重十重二十重にガードした密室のなかでうわっつらのことしか考えられぬ連中がこそこそまとめたインチキプランが実施に移され、このままで行けば2008年度には赤字団体になってしまうらしい名張市は財政の硬直化とシステムの硬直化とをまざまざと露呈しながら名張のまちに取り返しのつかぬ改変を加えることで赤っ恥をかいたり地域住民の信を失ったりまあえらいことになるのであろうな。わしゃ知らん。 わしゃ知らん、とはいえぬか。おまえがついていながらどうしてこんなことになっちゃったわけ? とおっしゃる名張まちなかのみなさんに対してわしゃ知らんなどといえるわけがないか。しかしおれにはもう手だてがないのである。いまさら名張まちなかのみなさんに直接語りかけたって手遅れなのである。しかしまあ、名張まちなかの再生にかんするおはなしくらいいくらでもいたしますからご希望があればお寄せくだされ、ということだけは申しあげておこうか。そこで地域限定の告知である。
これではありません。以下に掲げます。
本来であれば名張まちなかの人たちに対して、いやもう全市民を対象ということでもいいのだが、名張市なり名張まちなか再生委員会なりがプランにかんして直接語りかける場を設けるべきであったとおれは思う。何をいっても手遅れではあるがな。けっ。ばーか。
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もっぺん告知しとこっと。
いくら告知したって反応なんかあるわけないのですが、私には自分でどこかの会場を借りて(可能であれば敵陣深く細川邸あたりが面白かろうが)こういった講座を主催する力などとてもありませんし、そのためのモチベーションだって結構あやしい。しかし依頼を受けて喋るくらいは朝飯前なのであって、それにそうさな、おまえがついていながらどうしてこんなことになっちゃったわけ? とおっしゃるみなさんにはまずもって頭のひとつも下げねばなるまい。私には名張まちなかのみなさんに詫びを入れつつ経緯を説明することが暗黙のうちに要請されているのかもしれません。 むろん名張まちなか再生委員会が報告会を開いてもいいのである。いや、開くべきなのである、といったほうがいいであろう。名張まちなか再生プランがいったいどうなっておるのか、名張旧町地区住民に報告する義務がこら委員会おまえらにはある。名張市の広報紙にわずか一ページ記事を載せたくらいで義務が果たせたとは思うな。名張まちなかにはいいかこら、おまえらがプランにかんする情報を開示しようとしないことに不信の念をつのらせている人がいる。いまの時点でプランがどの程度まとまっているのか、細川邸がどのように活用されるのか、乱歩関連施設がどのように整備されるのか、そうした整備が名張まちなかの風情をぶっ壊すものなのかそうではないのか、そうしたことを知りたがってる人たちがいる。おまえらにはそれに応える義務がある。おれのいってることがわかるか。わかるだろうな。それならば名張まちなか再生プランの報告会のひとつも開いてみろという話だ。 なんてこといっててもしかたないか。ダンゴムシみたいにまるまって何いわれても反応せずに税金いいだけどぶに捨ててろ。なんてこといっててもほんとにしかたないからひとつだけいっといてやる。おれにはいまさらみなさん方のお相手をするつもりはさらさらありませんけれど、よっぽど思案に余ることがあったらいつでも正直に申し出ておいでなさい。話を聴くくらいのことはいくらでもしてやろう。「こんなときにはおおいにその能力を発揮すべきだと期待されているにもかかわらず名張まちなか再生プランには、けっ、ばーか、と完全にそっぽを向いているやつ」であるおれがそういっておるのだ。ありがたいと思ってちっとは素直になってみろ。そうでもしないとおまえらそのうち名張のまちを歩くこともできなくなるんじゃないの。ま、よく考えてみることだ。 といったところでインチキプランの話題はひとまず終了し、あしたはひさかたの光のどけく『江戸川乱歩年譜集成』の話題でもつづりたいと思います。
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『江戸川乱歩年譜集成』の話題です。 この本は名張市立図書館の江戸川乱歩リファレンスブックも数えて四巻目として発行される予定なのですが、先日来お知らせしておりますとおり名張市の財政状態はもはや瀕死の状態、2008年度にも赤字に転落しようというありさまなのですから、たとえめでたく編纂が終了してもそれを出版するための予算は当面つきにくかろう。乱歩の書誌などという市民生活に何の関係もないものに名張市民の税金を支出するのは私としても心苦しく、とはいえ従来どおりの贅沢な造本を維持しても予算はたぶん三百万円程度であり、しかも名張市は名張まちなか再生プランを実施して乱歩記念館だか乱歩文学館だか、ろくに乱歩作品を読んだこともない連中が絵図を引いた乱歩関連施設に無駄な予算を投じることになるわけですから、私としても名張市が税金の無駄づかいをきちんと精査したうえで『江戸川乱歩年譜集成』の予算化にだめが出されるのならいいけれど、それをすることなく乱歩文学館はOKだが『江戸川乱歩年譜集成』はNGであるなどと決めつけられるのはあまりにも心外。不本意である業腹である。だいたいが無駄づかいを抑えるというのなら無駄に養ってる無能力管理職をまずなんとかしろなどともいいたくなってくるのですが、こんなこといってると叱られるのかな。 ただしまあ、『江戸川乱歩年譜集成』の編纂を進めていて実感されるのはこれは一年や二年でめどのつく話ではないなということなのですから、したがって現実には予算化のことなんかまだまだ先の問題、まずは当座眼前の作業を粛々としてこなすのが先決でしょう。なんてことは百も承知の二百も合点と来ているわけではありますが、しかしやんなる。やんなっちゃう。まーあ遅いの。はかどらないの。なかなか前に進まないの。コールタールのなかを歩いてるみたいでほんとやんなる。やんなっちゃう。 当面の作業というのは『探偵小説四十年』を年表化することで、それだけならまだいい。しかし現在の構想では『探偵小説四十年』に登場した人名はその生歿をすべて『江戸川乱歩年譜集成』に落としてゆくことにしておりますので、つまり乱歩と人生の軌跡を交錯させた数多くの人間がいつ生まれていつ死んだのか、そのデータも年譜にはぜひ盛りこみたいものだと考えておりますので、新たに人名が出てくるとその生歿、しかも年のみならず月日まで調べてゆく必要があるわけね。だから人の名前がずらずらずらずら列記されたページ、たとえば平凡社の現代大衆文学全集全六十巻の作家名は次のとおりであるなんて感じで作家の名前ばかりが十何行も無慈悲冷酷にならんでいたりした日には、私は思わず『探偵小説四十年(上)』をぱたりと閉じてしまう。そのまま家を出て放浪の旅に出てやろうかとさえ思う。 しかも私はそのうえに、憂きことのなおこのうえに積もれかし、『探偵小説四十年』に出てくる小説その他の作品名もみーんな『江戸川乱歩年譜集成』に記載してやるぜと意気込んでおりましたのですが、これはやっぱり至難のことみたい。とくに「新青年」に掲載された海外作品の初出なんてまずわからない。国内作品に眼を転じても、乱歩はたとえば『大衆文芸傑作選集』と『大衆文学集』の収録作品をすべて列挙しておるわけですが、いわゆる大衆文学作品の初出なんてまずつかめません。インターネットの検索でなんとかひっかかってくるのは長谷川伸とか直木三十五とか、せいぜいそのあたりなものでしょうか。逆にいうと探偵小説というのはえらいもので、インターネットと手近な書籍、たとえば「新青年」関係の資料集や光文社文庫の探偵小説雑誌シリーズなどで初出くらいはほぼ判明しますから、このあたりにも探偵小説というジャンルの特異性を見るような気がする次第なのですが、作業を進めるうちアンソロジーに収録された作品の初出をいちいち年譜に落としてゆく必要があるのかという疑問もおぼえ、乱歩がそれに言及している作品ならばともかくとして、ただ機械的に羅列されただけの作品は無視してしまっていいのではないか(ていうか無視するしかないのではないか)と考え直したりもいたしましたあげく、『探偵小説四十年』に登場した作品名は取り扱いに差を設けるという方向で前向きに善処することになるだろうと思っております。 しかし人名、これははずせぬ。『探偵小説四十年』に登場した人名はすべてカバーするという原則は今後もキープしなければなるまいと考えております。もちろん乱歩とは面識がなかったのではないかと思われる人物もおり、具体例をあげるならばたとえば乱歩より二十何歳年長の井上剣花坊という人物がいて、『探偵小説四十年』には探偵趣味の会が発行した「探偵趣味」の執筆者のひとりとして機械的に名前が録されています。この人は明治3年6月の生まれですから、『江戸川乱歩年譜集成』の明治3年のページの6月のパートにはこんなふうに記されることになります。たぶん。
つまりまあこれも年譜なわけです。生歿となりわい、それから乱歩との関連(大正15年に「探偵趣味」に寄稿したというただそれだけのこと)のみを抜粋したものにはすぎないけれど、これだって井上剣花坊という人物の年譜であることにはまちがいない。そして乱歩の年譜を集成するということは乱歩とかかわりのあったあまたの人間の年譜を集成することでもあると気がついて愕然とし、そのとたん耳の近く遠くに蜂の羽音が幾重にも層をなして渦巻いているような幻覚をおぼえて喪心してしまいそうになった今年の夏。なんかもう大変なことだぞ実際。
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まず続報。伊賀の人間がうわっつらのことばっかぼーっと考えてるあいだに伊賀の国はごみ捨て場になってしまうのかという懸念を抱かせた9月12日付中日新聞「【伊賀】 伊賀の処理会社に搬入 大阪・能勢の汚染物質290トン」の続報ですが、昨日付朝日新聞に「能勢ダイオキシン汚染物「搬入一時中止を」 三重県要請」、本日付中日新聞に「焼却前に県が検査 大阪・能勢の汚染物質処理」が掲載されております。これは結構大変なことで、能勢といったら催奇形性や発癌性を有する塩素化合物ダイオキシンによる環境汚染で一躍全国に名を馳せたところなのですが、伊賀市はそのあとを受けてダイオキシン日本一の座をねらってでもいるのかな。しっかりしようね伊賀市のみなさん。ていうかこうした問題には制度上の問題がまずあるみたいな感じなのですが。 さて、乱歩というのは記録したり体系化したり、言葉をかえれば目録をつくることがとても好きな人でしたから、きのうも記しましたように全集や叢書が出たときには『探偵小説四十年』にもその全巻構成をちゃんと書き入れておくのがいわば習性でした。書誌に携わる人間にとってはまことにありがたい話なのですが、しかし私みたいに『探偵小説四十年』をベースとした書誌をつくろうとしている人間にとりましては、乱歩のこういった目録好きな性格というのがときにほんとにやんなっちゃう。ときにというかもうしょっちゅう、下手すりゃ連日やんなっちゃう。 とはいうものの、『探偵小説四十年』に登場した人物の生歿年なんて一度調べればそれで済むわけですから二度目以降はそうした作業が不要になり、羅列された人名に対する恐怖も年を追って薄らいでゆく感じです(この場合の「年」というのは『探偵小説四十年』のなかを流れている時間のことなのですが、私にはときおりそうした時間と現実の時間、ふたつの時間を同時に生きているような錯覚が生まれることがあります)。たとえば昭和5年、乱歩は天人社の世界犯罪叢書と平凡社の世界猟奇全集にどちらも代作ながら名を連ね、したがって『探偵小説四十年』にはこれらふたつの叢書の全巻構成が記されているわけなのですが、世界犯罪叢書全十巻の著者のうちこれが初出となるのは四人だけ。著者のすべてをチェックする必要はないのですから楽といえば楽な話です。 だけれども楽でないっちゃあ決して楽ではなく、四人のうち生歿年の調べがついたのは松谷与二郎と小牧近江のふたりだけでした。しかも私は律儀というか粘着というか、人名と同時にシリーズそのもののチェックを進めるうちにある恐ろしい疑惑にたどりついてしまいました。この天人社という新興出版社から出た世界犯罪叢書なるシリーズは、ほんまに完結したのかいなという疑惑です。インターネットを利用してそこらの図書館の蔵書を検索してみても、たとえば国立国会図書館にさえこのシリーズは五巻しか所蔵されておりません。立教大学の乱歩旧蔵図書にいたっては全十巻のうちわずか一巻、つまり乱歩は自分名義の『変態殺人篇』しか所有していなかったようで、それならば『探偵小説四十年』に記録されている全十巻の構成は何に依拠しているのかというと、『貼雑年譜』にスクラップされた世界犯罪叢書の新聞広告だというではないか。 危ない危ない。そんなものをうかうか信用することはとてもできない。できるわけがない。下手をすれば実際には刊行されるにいたらなかった巻が『江戸川乱歩年譜集成』では出版されたことになっている、みたいなことになりかねません。ですから世界犯罪叢書にかかわりのある人名では── まず明治13年の6月。
これは出版が確認された巻ですからこう書けるのですが、刊行されたことが確認できない場合はこうは行きません。 明治27年5月。
現時点ではとりあえずこんなふうに書いておくしかありません。なんか妙だけど。 しかし生歿年の調べがついたのであればまだいい。上々である。世界犯罪叢書の著者にはあとまだふたり初見の人物がいて、これはもう生歿年すら確認できません。前田誠孝というのは警察関係者らしいのですが、それ以上のことはいっさい不明。もうひとりの永松浅造にいたってはどこの馬の骨やら見当もつかぬ。まいるぞまったく。 いやいやまだいい。それでもまだいい。まだいいではないか。上等だばーか。前田誠孝にしたって永松浅造にしたってちゃんとフルネームで出ておるではないか。『探偵小説四十年』には姓しか書かれてない人物だっているのであって、そんなものをいったいどうしろというのだ。興信所に頼んだってどうにもならんぞ。 たとえば志垣という人名が出てきます。昭和2年の「ソ連作家キム」の章です。乱歩は「平凡社の支配人(あるいは編集長か)の志垣氏」と書いているだけで、どこにもフルネームは記されておりません。だいたい『探偵小説四十年』におきましては出版社の社員あるいは新聞雑誌記者あたりに姓だけの人物が多く、またそうした人たちは出版人やジャーナリストとしてよほど大成した人物でないかぎり、いまから生歿年や略歴を調べようったって雲をつかむような話です。 それでも泣く泣く志垣という姓だけを手がかりに調べてみますと、編集者にして教育評論家、むろん平凡社に勤務した経験もある志垣寛という人物が浮かびあがってきて、これは『探偵小説四十年』にある「この人は下中さんと同じように教育界の出身で」という記述にも符合するようですから、昭和2年の「大衆文学月報」第五号に「ソヴェート作家乱歩氏を推賞す」を書いた志垣なる人物は志垣寛であったと同定してもほぼまちがいはないのではないか。しかしこんなのはまれな幸運、超ラッキーなレアケースというべきであって、姓しか記されていない人物の調べなどはまず無理であると諦めるしかありません。 あまり乱歩に関係のなかった人物であればまだいいのですけれど、乱歩と仲のよかった知人友人となりますと、生歿年すら判明しないのはちょっとつらい。しかしかりに乱歩のご遺族にお訊きしてみたところで(いずれそうするつもりではいるのですが)、縁戚関係はともかくただの友人の場合には消息なんてつかめないことでしょう。代訳代作を担当した井上勝喜だの、助手を務めながらのちに袂をわかった二山久だの、あるいは出版界では結構な顔になったらしい本位田準一にしたところで、あっちこっち調べてみても何もわからぬこのつらさ。 有名人でも知人でもない単なる一般人、なんていうのも『探偵小説四十年』には登場してきます。高橋研三もそのひとり。昭和3年1月、乱歩の扁桃腺を剔出したお医者さんなのですが、尋常一様の調べ方ではさっぱりひっかかってこない人名です。
あすにつづきます。 |
昭和3年1月、乱歩は扁桃腺の剔出手術を受けました。本当の目的は蓄膿症を治すことにあったのですが、診断の結果まず扁桃腺を取ったほうがいいだろうということになって、乱歩は自分でも何がなんだかよくわからないまま手術台に身を横たえる仕儀となりました。といったあたりまでは『探偵小説四十年』で知ることができるのですが、『子不語の夢』に収録された小酒井不木の昭和3年1月2日付書簡を読むともう少しくわしいことが判明します。それによると、乱歩は治療のことでまず小此木という医師の診断を受けてみたようです。 この小此木なる人物は明治20年生まれの耳鼻咽喉科医師、小此木修三であろうと判断されます。大正13年に慶應義塾大学の教授となり、昭和9年に辞任して開業していますから、乱歩は昭和2年の12月ごろ、おそらくは慶應義塾大学病院を訪ねて(ということは最近では福岡ソフトバンクホークスの王貞治監督が胃の手術を受けたあの病院のことでしょう。開設は大正9年であったといいます)、四十歳前後だった小此木修三の診断を受けたという推測が成立するでしょう。 しかし翌年1月下旬、乱歩は慶應病院ではなく下谷黒門町にあった高橋耳鼻咽喉科病院に入院して手術を受けました。院長であった高橋研三が執刀したのですが、これがなんとも正体不明。手許の調査ツールで身元が割れたのは小此木修三までで、高橋研三なる開業医にたどりつくことはできませんでした。 そこで一計を案じました。毎度おなじみ古書販売サイト「日本の古本屋」で検索を試みてみましたところ、なんかもうばかみたいに簡単に解決しました。『高橋研三追憶の記』という本が出ていて、どうやら高橋耳鼻咽喉科病院が発行した本らしく、要するにいわゆる饅頭本のたぐいかと踏んでさっそくお買いあげ。気になるお値段は千円ほどであったでしょうか。 すぐに届いて、見込みはたがわず高橋研三の一周忌を期して縁戚知人の文章を集めた一冊でした。発行日は昭和49年2月24日。高橋研三の死去は前年の1月2日。生まれたのは明治8年6月2日だといいますから、この先生は満九十七歳で天寿をまっとうしたことになります。まさしく天寿と呼ぶべきでしょう。 経歴もなかなかに興味深く、福井県の片田舎に生まれて明治27年に勇躍渡米(長崎から船に乗ってアメリカ大陸に到着するまで三か月を要したといいます)、一時帰国をはさみながらアメリカのみならずウィーンやベルリンの大学でも学び、帰朝したのは大正元年のことであった。東京大学に籍を置くよう懇望されましたもののそれは固辞し、大正3年には「高橋式鼻内整形術」なるものを創案して本郷に開業。同9年には台東区西黒門町に病院を移転し、同12年の関東大震災で病院は被災いたしましたが、焼け跡に施設を新築して再興を果たしました。 『探偵小説四十年』にはこの病院が非常に繁盛しており、「建物も大きく、堂々たる大病院であった」と記されているのですが、これは震災後に新築された病院のことです。さらにドクトル高橋にかんしては、きのうご紹介した村上裕徳さんの脚註にも引用されておりましたが、 ──ドイツでドクトルを取った民間学者で、大学系の学者からは、山師のようにいわれていた。高橋ドクトルは堂々とこれに反駁して、学会などで、盛んに自説を主張し、著書もあった。 と乱歩はそこはかとない親しみの念を示しています。そこで『高橋研三追憶の記』から──
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台風13号の被害はいかがだったでしょうか。当地は何の影響もありませんでした。被害を受けられた方にお見舞いを申しあげます。木で鼻をくくったようなこといってますけど。 つづきましてお知らせを一件。はっきりいって手遅れなれど。 といったような感じでJR東海によるウォーキングイベント「山本周五郎の小説の舞台『扇野』と江戸川乱歩の散歩道」が催されます。きょうのことです。JR鳥羽駅を基点に三時間または一時間、あちらこちらと歩きまわりつづける催しのようで、気分は鳥羽の散歩者ってとこでしょうか。あいにくときょうの鳥羽はお天気がよろしくないようなのですが。 ついでですからもうひとつ鳥羽の話題。
といったところでドクトル高橋研三の話題です。 私には耳鼻咽喉関係の知識がまるでありませんので(むろん泌尿器関係の知識もないのですが)、ドクトル高橋の功績が現代医学に継承されているのかどうか、そんなことはよくわかりません。しかしインターネットを検索してみると、ドクトルの名がついた恐ろしげな手術用具にぶつかってびっくりしたりいたします。耳鼻咽喉科気管食道科医療器械を手がけるテーエム松井という会社のオフィシャルサイトなのですが、そーっとのぞいてみてごらん。 げに恐ろしげである。こんなもの鼻の穴につっこまれて下鼻介用ヤスリだの中隔粘膜圧定ヘラだので変なことされるのなら死んだほうがましだとさえ思いますけれど、高橋研三氏鼻内整形手術器械というのがげんにこうして販売されているのですから、ドクトル高橋が大正3年に創案した高橋式鼻内整形術はいまも医療現場に生きていると考えるべきでしょうか。 いずれにせよ乱歩はドクトル高橋の手術によって扁桃腺炎による発熱から解放され、しかし手術がよほどこたえたと見えて昭和3年2月10日に退院したあとは一度たりとも高橋耳鼻咽喉科病院を訪れていないのですが、それでも「高橋ドクトルは名医であったといってよい」と太鼓判を押しているのですから、かくいう私もいままでまったく縁のなかったドクトル高橋に(いまだって縁はないのですけれど)ひとことお礼を申しあげたいような気分になってしまいます。『江戸川乱歩年譜集成』が完成したらドクトル高橋のご遺族にぜひ一部お送りしたいところなのですが、インターネットで調べてみてもかつての下谷黒門町、現在の地名でいえば台東区上野にあったというドクトル高橋の病院はどうもひっかかってこないようです。 ところで私は、古本屋さんから届いた『高橋研三追憶の記』をさーっと走り読みしながら、高橋研三先生の手術によって扁桃腺の悩みから解放された人のなかには探偵作家の江戸川乱歩もいる、といった記述が出てこないものかと期待しておりました。しかしそんなものは見あたりません。どころか、ドクトル高橋は昭和3年に自分が扁桃腺を剔出してやった大きな男が江戸川乱歩という探偵作家であったことはつゆ知らぬまま、その長い生涯を過ごしたのではないかと思いあたりました。 当時の乱歩はいまだ大衆文壇の花形作家にはなっておりませんでしたから有名でもなく顔も知られておらず、ドクトル高橋が小酒井不木みたいに探偵小説好きのお医者さんであったというのなら話はまた別でしょうけれど、このドクトルはきわめて謹厳実直な性格にして敬虔なクリスチャン、患者第一の明け暮れとするため旅にも出ず肉親に不幸があっても郷里に帰ることをせず、娯楽のたぐいには興味関心まるでなし、趣味の書道ではそこそこ一家をなしたそうなのですが、もっとも愛読したのはおそらく聖書で探偵小説にはとんと縁がなかった人物のようですから、どうにも印象に残りにくい平井太郎という名前で扁桃腺の剔出手術を受け、そのあとに控えていた蓄膿症の治療を何もいわずにすっぽかしてしまった男が江戸川乱歩であったとはあとになっても思いいたらなかったのではないでしょうか。 さらにところで、私はこのドクトル高橋にいつとはなく、北杜夫さんの『楡家の人びと』に出てくる楡病院の初代院長、あの愛すべきスノッブ楡基一郎の姿を重ね合わせておりました。乱歩が「建物内の飾りつけも、有名な画家、彫刻家の大作を並べ、院長の美術趣味を語っていた」と記している高橋病院のありさまも、どこか楡基一郎その人のスノビズムを連想させないでもありません。洋行帰りのドクトルというのは当時の知識人の一典型であったかとも想像されますから驚いたり不思議がったりする必要はないのでしょうけれど、それにしてもなんとなく面白いな、みたいなことを考えていた私は、ある事実に思いいたって『探偵小説四十年(上)』をむんずと手に取り、ドクトル高橋の登場シーンから五ページほどさかのぼったページに眼を走らせました。 つづきはまたあした。 |
私は『探偵小説四十年(上)』をむんずと手に取り、ドクトル高橋の登場シーンから五ページほどさかのぼったページに眼を走らせました。そこにはこんな名前があやまたず発見されました。 ──出羽嶽 相撲取りの名前です。昭和2年の章、名古屋の定宿にしていた大須ホテルを回想したシーンに、 ──洗面所でヒョッコリ相撲の出羽嶽と顔を合わせたりした。 と記された名前です。私はこの相撲取りのことも通り一遍ながら手許の辞書事典のたぐいでチェックを済ませており、出羽ヶ嶽の生歿と乱歩との関係はすでに年譜に落としてありました。それがどうしてその名前に立ち戻らなければならなかったのかといいますと、私はドクトル高橋研三に北杜夫さん描くところのドクトル楡基一郎のおもかげを重ね合わせ、それからああそうか、それならば出羽ヶ嶽は楡基一郎の養子ではないかと、虚実をごっちゃにして思い返したからです。 明治35年12月の年譜をごらんいただくならば──
斎藤というのは楡基一郎のモデルとなった医師、斎藤紀一の姓であり、出羽ヶ嶽は紀一にその巨体を見こまれて養子となった人物です。『楡家の人びと』には蔵王山という名前で登場しており、私はこの長篇小説を今年の春に再読したところですから、ドクトル楡基一郎を想起させる医師と蔵王山のモデルになった力士とがわずか数ページをへだてて『探偵小説四十年』に登場しているのを知ったとき、むろんそれがどうしたといわれればそれだけの話ではあるのですが、なんだかとても面白い暗合のように思われました。 インターネットで検索してみると「相撲評論家之頁」なるサイトがあり、「名力士列伝 昭和初期」のページで出羽ヶ嶽が紹介されておりました。大正末期には好角家の期待を一身に集める存在であったらしいのですが、故障などによって力士としては大成できず、斎藤茂吉には「番附もくだりくだりて」うんぬんという出羽ヶ嶽を詠んだ歌もあるといいます。斎藤茂吉は紀一の次女の婿養子ですから、つまり血はつながらないけれど茂吉と出羽ヶ嶽はともに斎藤紀一を父として仰いだ人間です。興味を惹かれた私は茂吉の歌があるのならそれが何という歌集に収められているのかを確認したいと思い、『江戸川乱歩年譜集成』に引用してみるのも面白いのではないかと考えました。 で、こんなときのために揃えておきました現代日本文学大系全九十七巻一万九千円也の第三十八巻『斎藤茂吉集』をひもといてみましたところ、あっけないほど簡単にその歌は見つかりました。
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現代日本文学大系の第三十八巻『斎藤茂吉集』には「柿本人麿私見覚書」「鴨山考」なんてのも収録されております。私と似たような世代には若いころの一時期、梅原猛さんの著作に結構はまったという経験をもつ人間が少なくないのではないかと想像されるのですが、かくいう私も『隠された十字架』をはじめとして世に梅原古代学と喧伝された著作を出るたび追っかけるようにして読んだものでした。柿本人麻呂をテーマにした『水底の歌』には斎藤茂吉の人麻呂論への言及もあり、しかし当時はそれを読んでみたいと思ってもどこを探せばいいのかがわかりませんでしたし、そもそもわざわざ探して読もうという熱意もない。そのまま三十年ほどのときをへだてていまここに、こうして「柿本人麿私見覚書」と「鴨山考」とがあるのだとなんだか懐かしいような気もしてきて、私はついついそのきわめて調子の高い茂吉の人麻呂論を読みはじめてしまう。と、『江戸川乱歩年譜集成』の編纂作業はそこでストップしてしまうことになります。 こうした寄り道というのはじつに楽しく、できるものならばこのまま寄り道だけで人生をまっとうしたいものだ。寄り道一代男。なんかよさげであるなとは思うのですが、やはり本来の作業に戻らなければなりません。そこで『探偵小説四十年』の年表化に戻ってみる。明治35年、すなわち出羽ヶ嶽文治郎の生年のページを見てみる。そこにはごく簡潔に生歿年と乱歩との関係を記しただけの記述がある。ああ、と私は思う。なにしろ私は出羽ヶ嶽には以前よりも親近感を感じている身ですから、もう少し色をつけてやりたいなという気になる。で、色をつける。得意技、さばおり。愛称、文ちゃん。それからむろん北杜夫さんの『楡家の人びと』に登場する蔵王山のモデル。斎藤茂吉の『暁紅』には「番附もくだりくだりて弱くなりし出羽ケ嶽見にきて黙しけり」の歌あり。なんて感じでどんどんふくらませる。鮟鱇形力士のおなかのようにふくらませる。行数が半端なく増えてしまう。 そこでようやく、いかんぞこれは、と私は思うわけです。いかんいかん。こんなことではいかん。いくら自分が出羽ヶ嶽という相撲取りに親しみをおぼえるからといって、乱歩にとっては大須ホテルの洗面所でたまたま顔を合わせただけの人間ではないか。大須ホテルといえば乱歩の手で『押絵と旅する男』の初稿が便所に流されてしまった由緒あるホテルなれど、そこでただ一度遭遇しただけにすぎない人物の記述がこんなに長々しくては書誌としてのバランスが失われてしまうだろう。むろんバランスに顧慮せず連想や興味のおもむくままに筆を進めた文章の面白さもあるのだが、『江戸川乱歩年譜集成』でそれをやるのはまずかろう。私はそう考え、せっかく書き足したところをすべて削ってしまい、もとの素っ気ない記述に戻してしまう。そして、ああ、なんという時間の無駄であったことか、とため息をつく。気がつけば夏の長い一日もようやく暮れようとするころで、私は机にあった『斎藤茂吉集』を函に入れ、書棚に戻してから、犬と散歩に出かける。
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